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第1話 事の始まり

 目の前にいる人は、一体だれ?  彼女が知っている彼とは余りにかけ離れ過ぎていて、目に映っている状況が理解できない。  こんな事をする人ではなかった。  彼女に対して、これまでだったら絶対に有り得ないことを彼はしようとしている。いや。これから先もこんな事があっていいはずがない。  繁華街でばったり会って、気が付いたら路地裏に連れ込まれていた。  彼女を壁際まで追い詰め、しなやかな両腕が彼女の退路を塞いでいる。 (だって彼は……)  男の人にしては繊細な指先が、彼女の顎を捉えすっと上向かせた。  榛色した双眸に、これまで向けられたことのない色が浮かんでいる。  彼は彼女に対し、決して獲物を追い詰めた捕獲者になり得る筈がなかった。  どうしてこんな事になってしまったのか、彼女の頭の中で何度もリプレイされるが、思い当たる節が見つからない。  脚の間に彼の膝が割り入って来て、彼女の顔から血の気が引いて行く。  何代か前にヨーロッパの血が入っているとかで、栗色の髪はさらさらと流れるようなストレート。女神の彫像のような面立ちはうっとりするほど美麗で、中性的な雰囲気を漂わせている彼は、性別を越えてモテる。  細身で凡そ筋肉とは無縁そうに見えて、実はとても綺麗な肢体を隠し持っていることを彼女は知っていた。  小学四年の秋、この六歳上の彼と初めて出会った。  以来、兄とも師匠とも慕ってきたのに……。  油断したら見入ってしまいそうな彼の顔が、ゆっくり近付いて来る。  息のかかりそうな距離に身を固くした。 「ヤバイ」  独り言のような彼の呟き。 (いえ。ヤバいのはあたしです。そろそろ正気に戻って頂けないでしょうか?)  これ以上近付かせないために、彼の胸を両手で押し返しているのに、距離がどんどん狭まって行く恐怖。 「帰したくないな」  彼女はヒッと息を呑んだ。 (あたしはすこぶる帰りたいです。師匠!)  彼女の思いとは裏腹に、彼の唇が重なり舌先が唇を這う。 (あ…あたしのファーストキス……うっ)  彼の指が顎を引き、微かに開かれた唇の狭間からヌルっと忍び込んできた蠢く物体に、彼女は眼を見開いて抵抗を始めた。  彼と目が合った。  うっとりする程の微笑みを浮かべ、「初めてだよね…?」と最後の疑問符は申し訳程度の価値しかない。何せ確信犯だ。  彼女は窄まった気管を開くように大きく息を吸い込んで、目の前の彼に言う。 「れ…怜くん。ちょ……落ち着こう?」 「僕は落ち着いてるよ」 「やややっ。正気じゃないって。だってあたしだよ?」 「うん。だから?」  首を傾いでやんわりと微笑む美貌の彼を、誰か連れ去ってくれないかと本気で願う。  ここに彼の人がいてくれたら、すぐさま一件落着なのに、その人は今遠い空の下で酒を煽っている事だろう。  がっしりと両腕に捕獲され、足が宙に浮いた。  その力に戦慄した。  腕ごと抱き込まれ、唯一自由なはずの脚も距離が近すぎて、満足に振るえない。必死に彼の脛を蹴飛ばすが、板割りするような脛に堪える様子は全くなかった。  脚を彼に巻き付けて、動きを妨害しようと思えば出来なくはない。ただし、羞恥心と引き換えにすることとなる。スカートは確実にお尻まで捲れ上がる事が予測されるからだ。しかも今目の前の彼、南条怜はいつもと違うテンションで、危険な感じしかしない。  絶対におかしい。  余程ショックなことが彼の身に起こったのだろうか?  彼の恋愛の守備範囲にいる筈がない彼女を、怜は抱っこと言う名の捕獲をして歩き出した。  彼女の頭の中は、ひたすら混乱している。  このまま彼は、自分をどこに連れて行くつもりだろう?  背筋に震えが走った。  本能的に感じる恐怖。 (待って待って待って! このままで絶対いいわけない。だって怜くんは……怜くんは、お兄ちゃんの恋人なのに~ぃ!!)  出張で福岡に行っている兄は、きっと呑気に酒を飲んで浮かれているに違いない。  恋人の急な変化に気付いてもいないだろう兄を恨めしく思いながら、彼女はゲイである男に拉致らて行くのだった。
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