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第肆幕 嫌いと嘯く声音の行方 * 1 *

 第七回金糸雀百貨店聖夜公演『|燐寸《マッチ》売り』  脚本、演出・乙宮静鶴  出演・小鳥遊天音、蜂谷撫子、橘かわせみ 「橘かわせみ……」  手渡された前売り券に記された役者の名前は、かつての自分の婚約者、立花翡翠を彷彿させた。 「今回初めてお披露目される新たな歌姫だそうですよ、どんな子なのかしら?」  楽しそうにしているのは皓介の新たな婚約者である蝶子だ。十四歳という年齢からか、まだ幼さが目立つため、婚約者というよりも歳のはなれた妹のように思えてしまうが、彼女は必死になって皓介に追いつこうと背伸びをしている。  今日だって、皓介が横濱の金糸雀歌劇を観ていることを知って、手に入れづらい初日の切符を差し出して誘ってきたのだ。一緒に行きたいとはにかみながら。 「……そうだな」  翡翠との観劇後に婚約を突然白紙にされて以来、皓介は学業も疎かになり、医師免許を取得する際に必要な洋方六科試験にも落ちてしまい、留年が決まってしまった。  その結果、無気力のままに繁華街をうろつく日々を送り、西洋人形のように愛らしく自分を慕ってくれていた少女の面影を求め、今まで以上に帝都の少女歌劇を観て慰めに走ることが増えた。  そんな皓介を危ぶんだ父が、新たにつれてきたのが蝶子である。名前のとおり、華美な顔立ちだが、十四歳にしてはふくよかな外見なので、翡翠が触れたら溶けそうな砂糖菓子だとすれば、蝶子はいつまでもまとわりつく綿菓子のように感じられる。  翡翠のように真綿で包まれた華族令嬢は、皓介が未だに前の婚約者のことを忘れられずにいることも知っている。けれど、自分はまだ若いですからと気にするそぶりは見せない。それだから皓介もようやく、もう一度頑張ろうという気になることができた。  だというのに、運命は皮肉である。  客席に座り、深紅の幕がひらきはじめた瞬間、彼は隣にいる蝶子のことを忘れて、彼女の姿しか、求められなくなってしまったのだから。    * * * 「尾上皓介の留年が決まったのはふたりが引き裂かれて間もなくです。卒業したのち父男爵の家業である医院を継ぐ予定だったそうですが、それも延期になったと」  靭の言葉に静鶴は頷く。 「師走までに行われた帝都周辺の歌劇の多くで彼の姿は目撃されているわ。かわせみと同い年くらいの可憐な少女たちの歌と舞を観て自分を慰めていたのね」  しょせんは華族の坊っちゃまにすぎない。自分の思い通りにことが進まず現実から逃避し、殻に引きこもったまま、次の婚約者を傍に置かれ、皓介は身動きがとれなくなっている。まるで蜘蛛に捕食される前の蝶のようだ。 「招待するよう指示したのは私だけど、まさか初日の切符を手配するとはね……」 「……坊ですよ」  靭は恋敵に歌姫を差し出そうとしている主が信じられないようだ。そうなるよう仕向けた張本人が目の前にいるというのに、靭はあくまで朝周の天邪鬼な行為に憤っている。  ほんの数カ月のあいだに、ずいぶんと変わってしまうものだ。翡翠の父が事業に失敗しなければ、誠のちょっかいがなければ、立花翡翠と尾上皓介、ふたりの結婚が壊れることはなかっただろう。  ――そして彼が彼女に惹かれることも。嫌われようとして、嫌われることを承知の上で、その場に繋ぎとめようとあがいていることも。 「頼りない王子さまだこと」  静鶴は聖夜公演初日の舞台裏で靭に囁く。 「ベルを鳴らして。開演よ」    * * *  アマネと金城朝周が同一人物だと知っても、周と一夜をともにしても、翡翠の日常は変わらなかった。アマネは練習にはしっかり参加するが、翡翠とふたりきりになることを避けていたし、翡翠もまた、アマネを嫌いでいつづけることの難しさに戸惑い、会話することから逃げていたからだ。  それでも劇中では台詞をやりとりするし、手を取り合って躍ることも、見つめ合うことも当然のようにアマネはこなしていく。そんな彼女に負けるものかと翡翠も練習に磨きをかけ、夢中になって彼につづいた。見つめ合うときは挑むように視線を絡め、必死になって、彼を繋ぎとめた。  その翡翠の頑張りを劇団員は固唾をのんで見守り、彼女のために公演をなんとしても成功させようと躍起になった。  静鶴もまた、彼女が蛹から蝶へと羽化するような見事な変貌に驚愕し、アマネを蹴落とそうとする彼女の本気を目の当たりにし、痛感した。彼女はもう、歌えない美しいだけのかわせみではないのだ……と。  公演に向けて準備は急速に進んだ。アマネを嫌いつづけていることになっている翡翠は撫子から歌う技術を習い、ときに盗み、身につけた。  アマネは全体練習以外の時間は音響を担当する百貨店の交響楽団との打ち合わせや照明などの舞台装置制作に明け暮れていたが、翡翠の役作りも隠れて耳にしていたらしく、翌日の変化にも柔軟に対応し、団員を驚かせた。  衣装はすずめやひばりなどふだんは百貨店で売り子をしている人間が手伝い、大道具、小道具は靱をはじめとした男性社員が一緒になって組み立てていった。  ひとつの作品ができあがるまでにたくさんのひとたちが集い、組み立てていく姿を、翡翠は胸に刻みつける。いまはまだ嫌いでいてと言われてアマネから離れているけれど、舞台の上ではそうもいかない。 「アマネさん」  意を決して声をかけたのは公演前日。帝都で初雪が観測された翌日の寒い夜。 「翡翠」  練習を終えて団員の多くが撤収した舞台の上で、アマネはひとり残って稽古をしている。  アマネの役は燐寸売りの翡翠を天国へ|誘《いざな》う雪の女王だ。練習を終えたいまも、ふたりはそれぞれの衣装を着たまま舞台の上にいる。  雪の結晶を彷彿させるビーズをあしらった純白の長衣を纏ったアマネは髪を高く結い、白銀色のティアラを飾り女王然としている。  いっぽうの翡翠は、臙脂色のスカートにみすぼらしい生成り色のエプロンという貧相な町娘の格好だ。 「いよいよ明日ですね」 「……よく頑張ったね」  周囲にひとがいないからか、アマネの声は周のものに戻っている。翡翠は思わず頬を赤らめ、ぷいと顔を背けてしまう。 「そんなこと、ないです。わたしはただ」  花嫁としてではない、歌姫としても、彼方に認められたいのだと、小声で呟く。 「……ありがとう」  彼の声に、え、と振り向けば、顎をすくわれ、柔らかな唇がふれる。混乱して目の前が真っ白になる翡翠を楽しそうに見つめ、くるりとまわる。  接吻されたのだと気づいたときには、彼の姿は雪にとけるように消えていた。  ――どういうこと? 嫌いでいろって、言っていたのに。  その謎が解けないまま、翡翠は公演初日を迎え――……    * * *  公演された『燐寸売り』の物語は、大みそかの夜に燐寸を売る少女が雪の女王に誘われ、天国へ旅立っていくという筋書きだった。  かわせみという芸名の少女は燐寸をぜんぶ売らなければ帰る家がないのだと通行人に訴えるが、年の瀬で忙しい街中の人間は誰も彼女に見向きもしない。撫子演じる紳士や淑女がときおり「可哀想に」と憐れみながら聖なる夜の明るい歌をうたい、かわせみに向けて燐寸を擦らせる。  燐寸をひとつ擦るたびに、浮かび上がるのは家の明かりに、聖なる夜のクリスマスツリー、美味しそうなごちそうに、家族の談笑……  かわせみはくるくる躍り、ひとりで狂ったように歌い、すべての燐寸を擦ってしまう。  最後の一本の燐寸の炎に映るのは、死出の旅へと彼女を導くアマネ演じる雪の女王。  いまは亡き母や祖母の面影を抱きながら、雪の女王は凍てついた燐寸売りの少女に祝福の歌を送る。  それはまるで、聖夜の|鎮魂歌《レクイエム》――……  割れるような拍手に、翡翠は自分が|演《や》りとげたことを理解する。幕が下りたいまになって身体中に震えが走る。歌ってしまった。公衆の面前で。音痴だった自分が!  鳴りやまない拍手に足が竦む。撫子とアマネが舞台の両袖から幕の前へ入っていく。  まだだ。観客への挨拶が残っている。自分も行かねば、と思うものの、身体が言うことをきかない。洋琴の音が途切れ、楽団の演奏がふたたびはじまる。アマネがアンコールに応えて歌いはじめたのだ。合わせて、撫子の歌声も重なり、劇場内を感嘆の渦へ導く。  きっと観客の前へ戻れない翡翠を落ちつかせるため、翡翠が現れないことを不審がらせないために。  そしてなにより、観客たちを喜ばせるため。  けれどもせっかちな客はすでに姿を消した新たな歌姫の姿を求めて動きはじめているようだ。歌姫ふたりがまだ歌っているというのに、なぜだろうと不審がる翡翠のもとへ、呼び声が届く。ひすい、と呼ばれて身体がびくりと反応する。  切羽詰まった声の主は、唖然とした表情の翡翠の前へ、拝謁するかの如く、跪く。 「――皓介、さま?」  その瞬間、鳩尾に鈍い痛みを感じ、翡翠はその場に崩れ落ちる。 「……こんなところに隠れていたんだね」  どおりでみつからないわけだ、と自嘲しながら皓介は意識を失った翡翠を優しく抱いて、舞台裏から堂々と退場して行く。劇団員たちは静鶴の目配せですべてを悟り、黙り込む。  舞台のうえで歌いつづける歌姫たちもまた、舞台の裏で起きた異変に勘づいている。  それでも目の前の観客を放ってはおけない。  アマネは舞台裏で起こった出来事を耳でしっかり受け止めながら、焦る表情ひとつ見せずに歌いつづける。  降り注ぐ清らかな歌声は、途切れることなくつづく。さいごまで。
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