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第弐幕 黒糖飴と歌姫修行 * 2 *

「|朝周《ちょうしゅう》くんに会ったの? あの子、前にも縁談をぶち壊しているのよね。だから|朝誠《ちょうせい》さんも念には念を入れて貴女を連れて来たのよ。向こうから縁談を破棄されないように、退路を絶ってね」  静鶴は今日も淡い蜜柑色の銘仙を着ている。誠の後妻である彼女は、前妻の息子のことも知っているのだろう、翡翠が今朝、彼と会ったことを伝えると、興味がなさそうに言葉を吐く。  彼女が名前を読み変えるのはいつものことで、ここでの翡翠はかわせみと呼ばれている。 「貴女のこと、今日からかわせみって呼ばせていただきますから」  そう言い放たれ、唖然とした翡翠だが、劇団員ではない朝周や誠まで違う名で呼んでいるところを見ると、彼女なりの哲学があるのかもしれない。  それよりも静鶴が口にした朝周の縁談のことが気にかかる。 「静鶴さん、朝周さんの縁談について知っているんですか?」 「どちらも聞いた話よ。朝誠さんは息子に公家華族の令嬢を娶らせて地位向上を目論んでいたんだけど、成り上がりの新華族は公家華族にとって下賤なものでしかないわけ。だから最初に親同士で意気投合した縁談はお嬢さんの駆け落ちで駄目になったし、もうひとつのお金で交渉した縁談も婚約者に逃げられておしゃかになっちゃった」 「そんなに朝周さんって嫌がられているんですか?」 「私は嫌いよ。あんなのが自分の義理の息子だなんて片腹痛いヮ」  誠の傍にいるときと違い、ふだんの静鶴は饒舌のようだ。この場に翡翠しかいないのをいいことに、表に出せない毒をさりげなく撒いて、彼女の反応を面白がっている。  翡翠は静鶴の膨らみはじめたお腹を見下ろし、納得する。彼女のお腹には、子どもがいるのだ。  だから静鶴は夢を見ている。自分のお腹の子どもが後継者として朝周を出し抜くそのときを。そのための敵意だと、翡翠は思い知る。  ひとしきり毒を吐いて満足したのか、静鶴は微笑を浮かべて翡翠に告げる。 「さっそくだけど、舞台に立ってくださる?」 「え」 「三ヶ月で準備するわ。その結果次第で、私が貴女をあの莫迦息子から解放してあげる」  少女のような声音でうっとりと呟く静鶴を見て、翡翠は思わず身体を両腕できつく抱きしめる。  ――なんか、静鶴さん、怖い。 「お城に囚われた姫君を救うのは、白馬に乗った王子さまって決まっているんですもの」  貴女の場合、籠のなかのかわせみだけど。  クスクス笑う静鶴の、タガが外れたような甲高い声から、翡翠は目が離せない。        * * * 「静鶴さんの妄想が暴走するのはいつものことよ。半分くらい、いえそれ以上夢物語だから放っておいていいわ」  それに、自分の世界に浸れているからこそ、優れた作品を書くのだとアマネは笑う。 「金糸雀歌劇の脚本と演出は彼女があってこそ。それに、いつまでも純真で無垢だから親父さまも放っておけなかったんでしょ」 「はあ」  あっけらかんとしたアマネの言葉に、翡翠はそういうものなのだろうかと曖昧に頷き、静鶴から渡された脚本に目を通す。   「……|燐寸《マッチ》売り」 「いまから七十年くらい前に、アンデルセンってひとが書いた童話をもとにしたそうよ」  |丁抹《デンマーク》の童話作家だというが、日本ではまだ文学者向けの|独逸《ドイツ》語のものしか流通していないため、翡翠は知らない。静鶴も譲と親交のあるドイツ人に依頼して翻訳してもらったことで、この物語を自分なりに解釈し、舞台向けに書き下ろしたようだ。 「大みそかの夜に、燐寸を売る少女……静鶴さんはどうしても貴女を悲劇のヒロインに仕立てたいみたいね」  呆れたようにアマネは脚本をパタンととじ、寄ってきた少女たちに告げる。 「みんな、今日から歌姫候補として劇団員の仲間入りをした翡翠よ! 仲良くね」  海老茶式部にお下げという場違いな恰好の少女がアマネの脅威になる歌姫候補だと知らされた他の劇団員たちは目を丸くするが、前日に事情を聞いているのだろう、深く追求されることもなく、翡翠は金糸雀歌劇団の一員として活動することになるのだった。 「さっそくだけど歌って」 「えっ!」  そして容赦ないアマネと劇団員たちの歌唱指導もまた、この日からはじまるのだ……    * * *         「カチューシャかわいや、わかれのつらさ、せめて泡雪とけぬ間と……」 「翡翠ちゃんすとっぷ! 歌じゃなくてお経になってますわ!」  翡翠が金糸雀歌劇団の劇団員になって、十日が経った。はじめは自分とアマネが結婚しないための方法を探そうと模索していた翡翠だが、歌劇団の体力的にも精神的にも厳しい練習についていくので精一杯で、事態打開への進展には程遠い。  現時点での婚約者である朝周ともあの日以来会うことはない。ただ、ときおり歌劇団の差し入れに黒糖飴があるので翡翠のことを気にかけてはいるのだろう。そのことを思うとあのときの接吻まで思い出してしまいこそばゆくなるが、これが恋だとは思いたくない。あんな軟派な男性は嫌いだけれど、彼を初舞台でアッと驚かせてやりたいと思うようになっていた。  翡翠のように劇団員として雇われているのはアマネともうひとり、舞台女優として名をあげている|蜂谷撫子《はちやなでしこ》のふたりだけで、他の団員は百貨店内の売り子の業務などを兼任しているため、全員で練習をするのは基本的に夕方以降になる。  そのため、人手の少ない日中はアマネと撫子が翡翠のために歌や躍りの稽古を行ったり、脚本の読み合わせを行ったりしている。  もともと身軽な翡翠にとって、身体を動かすこと自体は楽しく、苦ではない。そのため、はじめのうちは和やかに進む練習だが、躍りが終わり、歌の稽古となると空気が一変する。  翡翠の音痴は巷の流行歌であるカチューシャの唄ですらお経に変えてしまうほどなのだ。 「呆れるわね、親父さまの審美眼は認めるけれど、歌姫は歌が歌えてこその歌姫なのよ! 練習だって頑張っているのになんでそこまで音程がずれるのかしら?」 「うっ……だから言ったじゃないですか、わたし、音痴ですって!」 「自慢するほどのことじゃないでしょうに。だいいち誇れません! アマネちゃんが認めているからってその音痴はなくってよ! 彼女の隣に立つからにはこの撫子、貴女の音痴を徹底的に克服させてやりますわ!」  アマネに次ぐ歌姫として金糸雀歌劇団で注目を浴びている撫子は、その名のとおりたおやかな女性である。だが、舞台に立つと甲高い地声は鳴りを潜め、心地よい歌声で娘役から男役まで演じることができるため、劇団員たちから姐御として親しまれている面も持つ。 「撫子ちゃんが頑張ってくれるならあたしの出る幕はないわねー、頼もしいヮァ」 「だからってアマネちゃんもちょくちょく練習抜けないでよ! こんなへっぽこ新人をいきなり次の舞台に立たせるなんて、静鶴さんも何考えてるのかしらっ、妄想を暴走させるのもほどほどにしていただきたいわ」 「時間がないのよ」 「静鶴さんいつの間に……」  まるで透明人間のように気配を感じさせず翡翠たちの前へ現れた静鶴はアマネと撫子の困惑した表情を気にすることなく言葉を零す。 「小鳥ちゃんとハチドリの気持ちもわかるけど、かわせみのためにも一肌脱いであげてよ。王子さまが王女さまと結婚する前に」  小鳥がアマネでハチドリが撫子のことなのだろう、だが、王子と王女という暗喩が何を示しているのか翡翠は理解できない。 「――情報が早いですね」  その言葉の真意にいち早く気づいたのはアマネだけ。  彼女のむっつりとした表情を見て、翡翠は首を傾げる。なぜ、彼女が不服そうにしているのだろう。  そして自分は蚊帳の外だとわかっているのか、撫子はきょとんとしている翡翠の手を引き、わざと明るい声を放つ。 「さ、翡翠ちゃんは練習練習! 台詞まわしと躍りは上手なんだから、あとは歌だけよ。ひとりで歌えるように頑張らなくちゃね!」 「む、無理ですっ! 独唱なんてぇ……」
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