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第壱幕 金糸雀百貨店 * 3 *

 とはいえ。 「そ、そんなに心配しなくても大丈夫です。音痴なわたしがいきなりアマネさんを抜く歌姫になんかなれるわけないですから」 「……でも、そうしないと翡翠は朝周と結婚することになるんじゃない? 早く横濱から出て、お父上や婚約者の元へ向かいたいでしょう?」 「まぁ、そうですけど……」  すぐに事態が動くほど甘くない。行弥は借金を肩代わりしてもらう代わりに翡翠を金城氏に渡したのだし、誠は翡翠がアマネを越える歌姫にならなければ翡翠を解放しないと断言したのだ。まともに考えれば無謀としかいいようのない提案だ。  翡翠は絶対に歌姫になれない自信がある。歌が苦手だからだ。致命的と言っても過言ではない。  だというのに誠は翡翠がアマネを抜く歌姫になると見込んでアマネにまで条件を出してしまった。  こうなると不憫なのは巻き添えを喰う形になるアマネである。翡翠は申し訳ない気持ちになるが、当の本人は翡翠に対してというより一方的に物事を決めてしまった誠に対して憤りを感じているようで、彼女にはヒトコトも文句を言わないでいる。 「難しく考えるのはあとあと。今日だけで運命が二転三転しているのだから、すこしはゆっくり休まないと」  そう言って百貨店内の中華レストランで軽い食事をした後、敷地の裏にある従業員たちの多くが暮らす寮へ案内された翡翠は、部屋を見て愕然とする。昨日まで暮らしていた屋敷の自室と同じ家具が、ひとまわり狭い部屋だというのに、同じような配置にされていたのだ。それはまるで自分の家に戻ってきたのではないかと錯覚するほど。  だが、洋風家具が並ぶ床がよく見ると畳敷きだったり、出窓にかけられていたレエスカーテンの向こうが殺風景な嵌め殺しの窓になっていたりしていることから、ここが自分の家ではないことが理解できる。 「ご丁寧に、立花家の侍女が荷物を運びこんでいてくれたんだ。本人に黙ってね」  まったく腹立たしいねと頬を膨らませて、アマネは翡翠を姿見の前に置かれた椅子へ座らせる。鏡に映る自分の姿を見て、翡翠は思っているよりやつれていないことに気づき、苦笑を浮かべる。 「ほんとうなら金城邸に案内すべきなんだろうけど……はじめから君を歌劇団で働かせるつもりだったんだろうな」  金城氏が暮らす邸宅は横濱の山手にあるらしいが、ふだんから百貨店で寝泊まりすることが多い誠や、帝都で好き放題しているという放蕩息子の朝周は滅多に戻らないという。  そうと知っていたから、立花家からの荷物を最初からここへ運び込ませたのだろう。翡翠は誠の思惑通り、金糸雀百貨店の従業員として雇用されるようだ。アマネを抜く歌姫候補という特別待遇で。  翡翠にとって与えられた個室は小ぢんまりとしていながらも居心地良く整えられている。この先のことは気が重いが、衣食住が確保されていることはありがたい。 「それに……むしろ、いきなり知らない男のひとの花嫁になるより気が楽です」 「そう?」  翡翠の物言いが気に入ったらしく、アマネはくすりと笑って嬉しそうに頷く。 「公家華族のご令嬢だって聞いたから『こんな狭い部屋耐えられない!』とか『内風呂のない生活なんてイヤ!』とかもっと悲観的になって泣きわめくかと思った」  でも違うのね、というアマネの言葉に翡翠はぼそりと言い返す。 「……鈍感なだけです」  まだ、自分のなかでこの出来事が完全に消化されていないだけだと翡翠はアマネに説明するが、彼女はそんなことないよと笑いながら首を振る。 「楽しみな新人ができて嬉しいわ。鍛えがいがありそう」  うふふとほくそ笑むアマネに、翡翠はそういえば自分は明日から金糸雀歌劇団の劇団員という立場で生活しなくてはいけないのだと気づき、さぁっと顔を青ざめる。 「無理です。無茶です。無謀です。だってわたし、音痴ですから!」 「だからこそ鍛えるんじゃない! 親父さまの期待に応えられればこの鳥籠から抜け出すこともすぐに叶うのよ?」 「鳥籠?」  彼女の口から出てきた鳥籠、という言葉に思わず翡翠は反応する。 「そ。親父さまは綺麗で可愛くて美しいものが大好きなの」  あたしみたいにね、と茶化しながらアマネは呟くが、彼女の表情は笑っていない。 「アマネさん……」  そういえば、皓介は言っていたではないか。目の前にいる彼女も、自分と同年代の、大人と対等になるべく背伸びをしている少女にすぎないのだと。 「親父さまが拾ってきた可憐な小鳥たちは、どの娘も平等に愛される。けれど、歌劇団の歌姫たちは鳥籠のなかで囀るだけ」  外へ飛び立つことはできないのだと暗に告げられ、翡翠はびくりとする。 「だけど翡翠は違う。あたしみたいに自分から鳥籠のなかにいることを望まない限り、ふたたび外の世界へ飛び立つことができる」  けれど、外の世界はときに残酷だとアマネは嗤う。 「選ぶのは貴女よ翡翠。朝周と結婚してこの鳥籠を出る? それともこの歌劇団で、あたしと勝負する?」  詰め寄られた翡翠は、アマネの真剣な表情から、漆黒の瞳から視線を外せない。  だから、素直に応えを返す。 「まだ、わかりません」  そもそも婚約者の朝周と顔を合わせてないのに結婚できるかできないかと問われても何も言えない。それに、音痴な翡翠がアマネの脅威になって歌姫稼業を妨げるのも申し訳ない気がする。 「それよりアマネさん、朝周さまってどんな方なんですか?」  実の父親である誠ですら彼のことを奇人扱いしている一人息子、朝周。  翡翠が彼との結婚を強要されているように、彼もまた、誠に勝手に縁談を進められているというのに、彼はめっきり姿を見せない。  翡翠の指摘でアマネも気づいたのか、彼女がまだ朝周と顔を合わせていないことについて呆れたように愚痴を零す。 「どんな方って……噂が独り歩きしているような方よ。親父さまが匙を投げるほどのね」 「はぁ」  翡翠がみどりの侍女から聞いたのは、黒い肌を持つ異国の巨人という想像できないものだった。確かに父親の誠は肌が浅黒いが、日本語は堪能だし、巨人というほど大きくもない。あんがい息子も似たような見た目なのかもしれない。 「夜な夜な色街で遊び耽っているとか、ワケあって帝国大学休学中だとか、ほかにもいろいろ言われているけど……彼なりの信念があるみたいだし、悪事に手を染めているわけではない、ハズ」  じゃっかん歯切れが悪いのが気になるが、アマネがそう言うので、翡翠は素直に信じることにする。 「悪いひとじゃないんですね」 「ぶっ……」  思わず吹き出し笑いをするアマネに、翡翠がきょとんとした表情を向けると、彼女はぶんと首を振り、突き放すように言葉を投げる。 「どう思うかは翡翠の勝手。ただ、たいていの良家の子女が彼に耐えられなかったのは紛れもない事実」 「はぁ」 「ま、翡翠なら、平気かもね」  平気だったらいいなぁ、と半ば願望のようにアマネは呟き、翡翠の双眸を覗き込む。 「……あたしの部屋はここからちょっと遠いから、何かあったら階下の守衛に伝えて。まだ混乱しているだろうけど、今夜はゆっくりおやすみ。もし早起きできるようなら裏庭に行ってごらん、彼に逢えるかもしれないから」  アマネの部屋は翡翠のいるA棟ではなく、百貨店から一番近い場所のC棟にあるという。 「あと、お風呂は九時までだけど、棟内のシャワーならいつでも使えるから安心して」  女子専用のA棟と男子専用のB棟の間に共同の浴場が設営されており、従業員の多くがそこで汗を流すそうだ。翡翠はアマネからの説明を聞きながら、あらためて自分がここで生活をはじめることを意識する。 「……がんばらなくちゃ」  ぽつりと零す翡翠に、アマネが苦笑する。 「ひとりで抱え込まないでね。貴女のことは親父さまにしっかり面倒みるよう頼まれているんだから」  なんてね、と囁きを残して、アマネは扉をあけ、翡翠の部屋から風のように立ち去っていく。 「あ、アマネさん……行っちゃった」  ひとり部屋に残った翡翠は、押し込められるように置かれた寝台に倒れこみ、ふぅ、と息をつく。  布団の匂いは変わらない。けれど、自分がいる場所は、東京小石川の立花邸ではない。 「皓介さま……」  一緒に歌劇を観ていたのが、まるで夢のようだ。それともいま見ているものが、夢なのだろうか。  翡翠は突っ伏した状態のまま、まとまらない思考を遊ばせる。  ――そういえば、アマネさんって何者なんだろう。  誠に面倒をみるよう指示されたのは、はじめから翡翠を歌姫にするためだったのだろうか。それにしては金城家の内情にも詳しそうだ。妾の子どもだろうか。  ――異母姉弟? 不思議……  あれで自分と同年代だなんて信じられないくらいに大人びている。金糸雀百貨店の歌劇団が創設されて以来ずっと首位の座を護っているという歌姫だけあって、身のこなしは優雅で清らかだ。  けれど鳥籠と口にしたときの何かを諦めたかのような表情が気にかかる。それから、歌姫を引退することが結婚に直結するという誠の言葉も。  それに――どこかで昔、出逢ったような、懐かしい気持ちになるのは、なぜだろう。  父親と横濱を訪れたことは何度かある。父親が商談の間、幼かった翡翠は取引先の従業員やその家族に面倒を見てもらったものだ。その、取引先のなかに金糸雀百貨店は入っていただろうか……もしかしたらかつて一緒に遊んだ従業員の子どものひとりが大きくなって劇団員になっていたとか、その美貌が目に留まって金城氏の養女に迎えられたとか、なんらかの事情があるのかもしれない。  ――だけど、愛の間を揺蕩う音色、でアマネだなんて。芸名にしても不思議な名前ね。  もっと彼女のことを知りたいと、持ち前の好奇心が疼く。ちょこまか動き回るなんて令嬢らしからぬ行いだとみどりは文句を言っていたけれど、いまの翡翠にしがらみはない。 「……勝手に調べたら怒られるかしら」  思わず口に出して笑ってしまう。婚約を破棄され実の父親に売られたばかりだというのに、なぜだろう、アマネの言うとおり、悲観的になれずにいる。  むしろ、帝都の屋敷と女学校の往復しか許されていなかった昨日までの生活の方が、翡翠にとっては鳥籠のような生活だったのだ。  ならば、いまの状況を甘受し、誠が差し出した条件から、自分にいちばん見合うであろう未来を選択すればいい。  父は翡翠を売ることで家を護った。  このまま翡翠は誠の一人息子と結婚することを選ぶべきなのだろうか、それとも自ら歌姫になってアマネを蹴落とすことで自由を勝ち取るべきなのだろうか。    ――他に何か方法があるんじゃないかしら?  誠が示した極端な選択肢以外で、翡翠にとっても、アマネにとっても良い未来を拓く方法が。探せばきっとみつかるはずだ。 「それがいいわ、それが……」  その結論に辿りつくと同時に、翡翠はぷつりと糸が切れたかのように眠りについていた。  その様子を遠くから見つめていた人間がいることに気づくこともなく。
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