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第壱幕 金糸雀百貨店 * 1 *

 文明開化より早四十年、先の天皇の喪も明けて久しい大正六年初秋。  日露戦争、第一次世界大戦に伴う好景気により、ひとびとの暮らしはより華やかになり、庶民層にも欧米化の波が拡がっていた。  逞しく生きる武家華族の多くは商売に手を出し、成功を収めた。だが、その一方で公家出身の華族のなかには生まれながらの高貴さと誇りに邪魔され、後れを取って没落したものも少なくなかった。  立花行弥は後者の、|矜持《プライド》ばかりを気にする不器用な男だった。軍需景気に沸く国内で、常に金策に走り、体面を保つためさまざまな事業を手掛け、悉く失敗していた。  雪だるま式に膨れ上がった借金を清算するため彼が最後に泣く泣く選んだのが、愛する妻瑠璃の忘れ形見である娘の翡翠である。  横濱で成功をおさめ、いまをときめく新華族、金城氏の元へ彼女を嫁がせることで、彼はようやく立花子爵家を守ることが叶うのだ。 「さよなら、私の宝石……不甲斐ない父を許せ」  いまごろ、彼女は思い知るだろう。自分が父親に売られた現実を。    * * *  ――遠くで、汽笛の音がきこえる。  叔母は翡翠を蒸気機関車に乗せず、長椅子で座って待っているよう命じた。その間に皓介は帰りがてら事情を説明したいと言う彼女、みどりによって新橋行きの陸蒸気で帰されてしまった。  別れの言葉を交わす暇すら与えられなかった。それ以前に、このまま逢えなくなることが信じられなかった。ただ、自分の父親が事業に失敗したことで、ふたりのあいだにあった婚約話が白紙に戻ったことは、事実なのだろう。 「残念ですが、嘘ではありません」  あのあと、入れ替わりに現れたみどりの侍女が、茫然自失の翡翠の隣で、ぽつぽつと事情を話してくれたからだ。  以前から父、行弥が借金を重ねていたこと。  今回の事業の失敗によって、負債は更に膨らみ、ついに支援者たちから見放されたこと。  支援者のひとりであった|尾上《おのえ》氏から、借金は返さなくて構わないから長男皓介との婚約を破棄するよう迫られたこと。  逆に、別の支援者である金城氏から、借金を肩代わりしても構わないが、愛娘を自分の息子に嫁がせたいとの申し出が出ていたこと。  行弥はすでに皓介と関係を築いている娘を別の男性の元へ差し出すことに悩み、弟夫婦に相談したが、「翡翠の嫁ぎ先が新華族に変わるだけだ」とみどりたちに説得されたことでついに翡翠を手放すことを認め、先日、契約が結ばれたということ。  その際、翡翠が通っていた女学校にも退学の報せを伝え、受理されたこと。  水面下で動いていた現実に気づけなかった己を恥じながら、翡翠は呟く。 「……そうだったのですか」  皓介との婚約ももともとは親同士が決めたものだ。けれど、お互いに穏やかに関係を培ってきていただけに、突然引き裂かれるような別れ方に、翡翠は戸惑いを隠せない。  男爵家のひとり息子に没落華族の娘は不要だと、向こうが言ってきたのだから仕方がない。だが、皓介も何も知らなかったことを考えると、ずいぶん急な気がしないでもない。  とはいえ、自分たちの土地と家、つまりは公家華族としての爵位を守るために父は翡翠を使うことを選んだだけだ。翡翠に拒む権利など、はなから存在していない。 「翡翠お嬢さまを騙すような形になってしまって申し訳ないです……でも」  みどりに仕える侍女は、表情を曇らせ、ぽつりと零す。 「でも?」 「そうでもしないと、きっとお嬢さまが駆け落ちしてしまうと行弥さまが」 「……え?」 「だって、あの金城氏ですよ! お嬢さまが可哀想で……」  翡翠が首を傾げる横で、侍女は悔しそうに項垂れている。金城氏といえば、横濱界隈では有名な貿易商で、明治末期に突然華族の仲間入りを果たした成金一族だということくらいしか翡翠は知らないが、それのどこが可哀想なのだろう。  ぼんやり思考を巡らせる翡翠の背後から、澄んだ声が届く。 「もしかして、君が|朝周《ともちか》の花嫁になる子?」  我に却って振り向けば、長身の女性が翡翠を見下ろしていた。 「……え、えっ!」  顔を見て、翡翠は硬直する。  黒い裾の長いワンピースを着た女性は、つばのひろい帽子で顔を隠していたが、それでも翡翠はわかってしまった。なぜなら、ついさっきまで翡翠は彼女のことをうっとりと見つめていたのだから。  皓介と一緒に、舞台の前で。  舞台の上にいた歌姫が、翡翠の前で笑っている。 「小鳥遊アマネ……さん?」 「ご名答。さっきまで舞台だったのよ、抜け出すの大変だったんだから」  変装する暇もなかったから仕方ないわねとひとりごちながら、アマネは翡翠を凝視する。 「……ふふっ、可愛い|娘《こ》じゃないの」 「な、なんでアマネさんが?」 「決まってるじゃない。お嫁さんを迎えに来たのよ」  当然のように告げて、アマネは翡翠の腕を取る。 「さぁ、行きましょう!」 「え、行くって……?」 「話はおいおいしますから」  強引なアマネに立たされ、翡翠はみどりの侍女へ困惑した表情を向けるが、すでに彼女は自分の役目は終わったとすっきりした顔でアマネに礼をしている。 「では、確かにお渡ししましたので……お嬢さま、ご武運を」  ――ご武運?  ぎょっとする翡翠の耳元へ、侍女が囁く。 「金城朝周さまは、異国の風貌を持たれる黒き巨人と噂されております。ご不興を被らぬよう、お祈りしております」  つまり、気に入られなければ何をされるかわからない、ということだろう。翡翠はぶるっと身体を震わせ、すがるようにアマネを見上げる。 「……そんな心配しなくても大丈夫よ、あの莫迦は結婚する気なんかさらさらないんだから」  アマネは爽やかに返し、軽い足取りで翡翠を連れていく。  駅からふたたび出た翡翠は、アマネに連れられ伊勢佐木町の百貨店方面へ戻ることになる。  後ろを振り返れば、すでに侍女の姿はなかった。それを見て、アマネは目を眇める。 「薄情ね、大事な愛娘を差し出すのに、侍女がひとりだけだなんて」 「……仕方ないです」  母は生まれてすぐに亡くなっているし、父も事業の立て直しでそれどころではないのだ、それに、父は最後に皓介と観劇することを許してくれた。いま思えば彼なりの餞別だったのだろう。  黙り込んだ翡翠を見て、アマネも口を閉ざす。  夜の帳が下りた賑やかな街並みへ足を踏み出し、翡翠は唇をきつく噛みしめる。皓介と歩いた時とは異なる、不安と緊張を伴いながら。  さっきまで金糸雀百貨店の客だった翡翠は、関係者専用通路に導かれ、薄暗い裏口へ足を踏み入れている。夜の冷気が足元を通り抜け、ワンピースのスカートがふわりと揺れる。  おそるおそる歩く翡翠を見て、アマネがやさしく囁く。 「怖いわよね。でも、大丈夫。すぐに馴れる」  ひとりだったら動けなかっただろう。けれど翡翠の隣にはアマネがいる。聖母のように微笑む彼女に従えば、きっと悪いようにはならない。いつの間にか、翡翠はそう考えるようになっていた。 「……平気です」  金城氏が横濱で百貨店業を営んでいたことを思い出し、翡翠は頷く。  そして悟る。  ふだんなら横濱まで遠出することを渋る父の行弥に皓介と金糸雀百貨店へ歌劇を観に行くことを許されたのはこのためだったのだと。  知らなかったのは皓介と翡翠だけ。  彼はこのことを知ってどう思っただろう。抜け目のない尾上男爵のことだから既に別の華族令嬢に白羽の矢を立てているのかもしれない。裕福で、主人のいうことをなんでもきく人形のような少女を。翡翠より大人な彼は、妹のような自分のことなどすぐに忘れてしまうだろう。むしろ煩わしさから解放されたのではないだろうか……  歌劇で観たような情熱的な恋愛感情は理解できないけれど、翡翠は淡い恋心を皓介に抱きはじめていただけに、素直に事実を認められずにいる。彼のことを思い出そうとすると、胸が苦しくて、息がつまりそうになる。  それはこの泣きたくなるような薄暗い通路に凝る埃っぽい空気のせいもあるのかもしれない。  突き当たりの業務用エレベーターに乗り、五階へ着くと、ようやく明かりがついた廊下に降り立つことができた。翡翠は新調したばかりの萌黄色のワンピースが汚れていることにも気づかず、黙々と歩きつづけている。 「――気丈ね」  何も知らないであろうアマネは、俯きながらも前へ進む翡翠を見て、ぽつりと零す。 「そんなこと、ないです」  咄嗟に言い返して、顔をあげたら、涙が零れた。  アマネは翡翠の瞳から流れた雫にそっと触れ、漆黒の双眸で彼女の潤んだ瞳を覗き込む。 「あたしの前でなら、泣いてもいいわよ」 「……え?」 「だけどもうちょっと堪えてくれるかな。もうすぐ狸ジジイと対決しなくちゃいけないからさ」  あえて茶化すようにアマネは言い、場違いな木製の扉の前へ立ち、ノックする。
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