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◆第五章 まだ見ぬ自分とかつての心-3

 * * *  ここは一体どこなのかと、アリナは慎重に体を起こした。肌触りのいい毛布の下は、聖女用のドレスではかった。似てはいるが、モスリンのやわらかなドレスは、アリナがまだ聖女ではなかったころ、身に着けていたネグリジェとおなじに見える。聖女は、いついかなる時に何があっても、すぐに女神の御前に出られるように、眠る時にも聖女用のドレスを身につけていなければならない。 (私は、どうして)  部屋も、見慣れない場所だった。腕を左右に伸ばしても、なお余裕のある広い寝台は天蓋がついており、つる草の刺繍がほどこされた白い布が下げられている。壁が石造りであるのは神殿とおなじだが、大きく取られた窓や立派なランプは見たことのないものだった。  床に足を下ろせば、ふかりと足が毛足の長い絨毯に沈んだ。ネコの毛のような感触に、もしかしてと思い当たった。 (ここは、お城なの?)  そう思えば、目に映る重厚で豪奢な家具などにも納得がいく。けれど、どうして城にいるのか。  窓から差し込む日差しは、もう昼だとアリナに伝えてくる。ずいぶんと寝過ごしてしまったらしい。起こされた記憶がないから、ラコットが城まで運んでくれたのか。  サッと顔から血の気が引いた。今朝の務めを果たしていない。アリナがいないと、神殿はパニックになってはいないか。 (いいえ、ラコット様ならきっと、神殿に連絡をしてくださっているわ)  誰の目にもつかずに運ばれたとは思えない。着替えさせられているということは、トモロコ家の者が自分の世話をしたということだ。だとすれば、神殿に連絡がいかないはずはない。  どんなふうに伝えられているのかと心配になる。なぜ、ラコットは神殿ではなく、城に自分を連れ帰ったのだろう。 (想いを繋げたから……だから、もう神殿ではなく王城に住め、ということなのかしら)  あり得なくはないが、違和感が残った。彼はアリナの意志を無視して行動するような人ではない。何か理由があるはずだ。  考えにふけっていると、扉の開く音がした。視線を上げれば、ツァーリが立っている。 「ツァーリ」  口内でつぶやけば、彼女はパッと花がほころぶように笑みを開かせ、駆け寄ってきた。 「おはようございます、アリナ様」 「おはよう、という時間でいいのかしら」  不安げに問えば、ツァーリは軽く肩をすくめた。 「お昼前なので、おはよう、でいいと思います」 「そう……ねえ、ツァーリ」  どう質問しようかと迷っていると、先んじてツァーリが答えを教えてくれた。 「女神アナビウワトへの食膳は、滞りなくお運びいたしております。神殿内での混乱はありません。と言いたいところですが、ちょっとした騒ぎになっているといいますか、そのう……にぎやかなことに、なっております」  当然だとうなずいたが、告げられた内容は、アリナが想像しているものとはかけ離れたものだった。 「やはりアリナ様は女神に祝福された方なのだと、湧き立っております」 「どういうことなの?」  少し得意気な様子を見せながら、ツァーリはエクトルから昨夜の呼び出しを聞いていたので、夜中にアリナが森に引き寄せられる姿を見たと聖女たちに告げたと言った。そしてラコットに助けを求め、彼が森から救い出したという形にしたのだと説明された。さらに、異国の物語になぞらえて、アリナは女神に呼ばれて森に入り、神意を与えられたことにしてあると続けた。 「神意を」  呆然とつぶやくと、何も心配いりませんからとツァーリは笑い、空腹だろうから食べ物を持ってきますと言って出て行った。  * * *  想いを遂げたはずなのに、ラコットの胸には不安が大きく鎮座していた。彼女の唇を味わい、気持ちを通じ合わせたばかりであるのに、不穏なざわめきが心を揺さぶってくる。  ただ一度だけの慈悲。それこそ女神の気まぐれで、与えられた幸福なのではないか。 (そんなはずはない)  聖女としての姿勢を優先するアリナだからこそ、違うとも言えるし、そうだとも言えた。自分の身分が呪わしい。これがもし皇子でなければ、彼女は国のことをおもんぱかったわけではないと考えられる。だが、自分が皇子であるがゆえに、アリナは身を差し出したのではないかと思ってしまう。 (そんな人じゃない)  否定をする傍から、本当にそうだろうかと疑念が浮かぶ。無心に求めたラコットに、アリナは全身で応えてくれた。気持ちは繋がったと、はっきりと感じられた時間だった。彼女はすべてをゆだねてくれた。そして、何もかもを受け入れてくれた。 (俺はいつから、こんなに憶病になってしまったんだ?)  大きすぎる幸福に臆病になっている自分に苦笑したラコットの元に、エクトルがやってきた。仕事にならないとわかっていながら、執務室にいたラコットにうかがいを立てる前に扉を開けたエクトルが、ニンマリしながら近づいてくる。 「ツァーリ様が、アリナ様が目を覚ましたって言っています」 「そうか。彼女の様子はどうなんだ」 「それは、ラコット様がご自身で確認してください」  それもそうだと執務室を後にしようとして、ふと気になった。 「何か、俺に言いたいことでもあるんじゃないか?」  ペロリと舌を出して、エクトルが肩をすくめる。 「なんだ?」 「もう神殿に、アリナ様を返さなくてもいいですよ」 「どういうことだ」 「女神様の啓示を受けたから、王様やラコット様と国についていっぱい話をしなきゃいけないから、神殿には戻れないって伝えておきました」 「おまえがか?」  首を振られた。 「ミズーリか」  ふむ、と顎に手を当てる。なるほど彼ならうまく立ち回ってくれるだろう。 「任せたと言っておいてくれ」  父親のことを誇らしく思っているから、エクトルは自慢げな態度をしていたのだとわかってねぎらうと、胸を張っている理由はそれだけではなかった。 「僕も、トモロコ家の次期当主ですからね」  クスリと笑ったラコットは、クシャリと乱暴にエクトルの髪を撫でて、アリナの元へ急いだ。  * * *  彼女の背中を見送らず、アリナは考えに意識を向ける。神意を与えられたことにしてあるとツァーリは言っていたけれど、どんな神意を受けたのかは言わなかった。彼女が教えてくれた異国の話では、異性との繋がりを持たない娘が神様の子を宿したということだが、アリナもそうだと伝えたのだろうか。  腹部に手を添えて、昨夜のラコットとの交合を思い出す。 (もしも、子どもを授かったとしたら)  異国の話そのままとして、人々は受け入れるのだろうか。しかし、女神と聖女の子どもというのは、何か妙だと思われそうだ。そもそも、すぐに子どもは腹に宿るものなのか。わからない。わからないが、可能性がないわけではない。 「神意……あれが神意だったとしたら」  想いのままに行動をした。エメラルドの淡い光に包まれて、緑の瞳に抱きしめられた。目の前の愛しい人のほかはすべてを忘れて、自由に羽ばたいた時間は法悦と呼んで差し支えないものだった。  今までの自分ではない自分が、ここにいる。知らない自分を受け入れて、生まれ変わったというよりも、原点に戻った気分だった。 (私が、私になっている)  聖女として、期待されているとおりに振る舞わなければならない。そんな気負いがすっきりと抜け落ちている。心がとても軽やかで、視界が広く感じられた。だが、立場を忘れるわけにはいかないと、感情に流されそうになる己を引き止める。自分は聖女であり、ラコットは皇子なのだから。  自分の変化について考えていると、遠慮がちなノックがされた。ツァーリだろうと返事をすれば、現れたのはラコットだった。皇子らしく襟元に飾りのついたシャツ姿の彼は凛々しくて、自然と頬が熱くなる。 「起きたと聞いて、会いに来たんだ。体の具合はどうだ?」  昨夜のことが思い起こされて、ますます顔が赤くなってしまった。 「いえ、得には」  うつむいて答えれば「そうか」と快活な声が返ってくる。 「野宿なんてしたことがないだろうからな。体のあちこちが痛んでいるんじゃないかと思ったんだが、よかった」  そちらを心配されていたのかと、自分の勘違いに恥ずかしくなった。気を取り直して質問をする。 「ツァーリから聞きました。異国の話になぞらえて、私は女神に呼ばれて森に入ったことになっているそうですね」 「そうだ。アリナは女神に導かれて森へ入り、俺が見つけて城に運んだ」 「どうして」 「こちらのほうが、色々とつじつまを合わせる相談をするのに都合がいいだろう?」  いたずらっぽく答えてすぐに、ラコットは真顔になった。 「本音を言えば、神殿に返したくなかったんだ。聖女の私室は、王族といえども踏み込めない。アリナを帰して、しばらく会えなくなるなんて耐えられないと思った。このまま、ここにとどめておきたい」  目の高さを合わせられ、訴えるように静かに告げられて心が震える。私も、と動きかけた唇を制して、緑の瞳を見返した。  胸が愛おしさに疼いている。この人が好きだとざわめいている。永久に手を取り合って未来を歩んでいきたい。女神アナビウワトではなく、恋しい人に人生をささげたい。寄り添って、生きていきたい。 (ラコット様は、そう望んでくれている。けれど私は、王妃としての責務を果たせられるの?)  想いだけで行動ができるのなら、すぐにでも彼に返事ができる。だが、ラコットは皇子だ。数年後には王として立つ 人ということを、忘れてはならない。 「アリナ?」 「少し、考えていたんです」  腹を撫でて、アリナはポツポツと気持ちを伝えた。 「女神から子どもを与えられたのなら、どれほどいいかと。そうすれば、ラコット様の御子を産まれながらに神聖なる存在として、神殿で遇することができますから」 「それは、俺の妻になる気はないということか」  顔をゆがめたラコットに、あいまいな笑みを浮かべて答えた。 「気持ちだけなら、ラコット様と共にありたいと思います」 「それなら、なぜそんなことを言う」 「立場をお忘れではありませんか? あなたは皇子です。政治的なことはよくわからないのですけれど、国の繁栄を思えば有力な貴族の娘と結ばれるのが一番でしょう。そして跡継ぎを確実にもうけなければなりません。もしも私が子を授からなければ、別の女性を迎えることになります。そうなれば、私は……っ」  側室を持つのは自然なことだ。だが、自分は耐えられない。正妻の座であったとしても、側室の座であったとしても、誰かと寵を競いたくはない。それならば一夜の夢を大切な思い出として、抱きしめて生きていたい。  ラコットの手が、アリナの指を包んだ。 「つまりそれは、俺を誰にも渡したくない、ということだな?」  ニヤリとしたラコットには、自信がみなぎっていた。精悍な表情に胸がときめく。 「それほど、俺を想ってくれていると理解してかまわないか」 「……はい」  声が掠れてしまった。笑みを深めたラコットの胸深くに抱きしめられて、目を閉じる。耳に聞こえる鼓動は、自分のものなのか、ラコットのものなのか。 (このまま、時間が止まってしまえばいい)  彼の腕に身をゆだねられる幸福のうちに、自分の世界が閉じてしまえばいいと願うアリナの髪にキスが落ちる。 「これほど愛しい人を、俺はどうして諦められると思っていたんだろうな」  独白の音色に視線を上げれば、バツが悪そうな顔をされた。 「ひと目惚れをした。立太子の儀式のときだ。どこの誰かを調べさせて、婚約者がいると知って落胆した。かなわぬ恋でも、ひそかに幸福を祈っておこうと考えていた。その間に堰き止めてきた気持ちが、ブラモアの婚儀を目にして噴出した。傲慢だと思っただろう? いきなり、俺の妻になれ、なんて」  照れ笑いを浮かべるラコットに、恋しさが募った。 「前々から、想いをかけてくださっていたのですね」 「そのせいで、唐突な物言いになってしまった」 「驚きました」 「だろうな」  クスリと笑みを交わせば、幸福が胸に広がった。だからこそ、この人の妻になってはいけないのだと、気持ちを引き締める。 「ですから、どうか私を自由でいさせてください」  妻にならなければ、嫉妬を覚えたとしても、欲には繋がらないはずだ。 「それは困る。俺の妻はアリナのほかにはありえない」 「ですから」 「側室は持たない。俺は、アリナだけを愛し続ける」 「ですが」 「心配はいらない。聖女の中の聖女と呼ばれ、生涯聖女になるかもしれないとウワサされ、その上、女神に呼び出された女だぞ? 誰も並び立てるとは思わないさ」  明るい表情で告げられて、本当にいいのだろうかと心が揺れた。 「私は、期待を裏切ってもいいのですか」 「それは、誰の期待だ?」  問わなくても、ラコットにはわかっているはずだ。 「俺の期待なら、かなえてもらいたいところだが」  目をぱちくりさせると、クックッと喉の奥で笑われた。 「ずいぶんと悩んでいたみたいだな。ツァーリから聞いた」 「えっ」  何をと言いかけて、思い当たった。悩みを打ち明けた時、ツァーリは「自分の心に従ってください」と言った。だからアリナは迷いながらも、神殿を抜け出してラコットの待つ丘へ行ったのだ。 「周囲の期待よりも、アリナが望んでいることを優先してほしい。それが、俺の願いとおなじであればいいんだがな」 「ラコット様」 「愛している、アリナ」  甘いささやきにめまいを覚えて、アリナは広くあたたかな胸にもたれかかった。  * * *  腕の中のぬくもりは、しっかりとした存在感がある。アリナはたしかにここにいるのに、不安はぬぐい切れなかった。今にも腕からするりと抜けて、消えてしまいそうだ。彼女もまた、迷っている。このままラコットの腕にいてもいいのだろうかと。 (立場とは、めんどうなものだな)  苦笑して、ラコットはアリナの髪に頬を寄せた。 「俺は皇子で、アリナは聖女。いくら気持ちが優先だと言ったとしても、身分を捨てての行動ができないというのはわかる。だが……だからこそ」  だからこそ、己を大切にしなければいけないのではないか。  口に出そうとする前に、空色の瞳に見上げられて言えなくなった。アリナはわかっている。わかっていてもなお、迷っているのだ。 「俺は、アリナならば王妃にふさわしいと考えている」  彼女は愛しい。自分の気持ちはアリナひとりに注がれている。これが市井の男女なら、多少の障害はあるだろうが結ばれるのはたやすいだろう。彼女の気持ちを説得するには、皇子という身分を持っているラコットの隣に、ふさわしい人物であると認めさせるほかはない。 (民は聖女であれと望んでいると、アリナは思っている)  良くも悪くも人のためにありたいと考えているのだろう。それ自体は悪いことではない。だが、そのために自分を殺して生きるのは、いいことだとは思えない。何より、想いを閉ざされてしまっては困る。  その時、ラコットの頭の中で妙案がひらめいた。 「女神に、皇子とともに国を支えろと命じられたと答えるんだ」 「えっ?」  空色の瞳がとまどいに揺れている。 「国を正しく導くためだと広めれば、王妃でありながら聖女でもあり続けられる。周囲の期待を裏切らずに、俺たちは結ばれることが可能だ。女神の導きで、ふたりは夫婦となる。これ以上に国民がよろこぶことはないだろう?」  何よりも、自分がうれしいのだと瞳で告げれば、アリナの瞳に希望がきらめいた。 「本当に、私でいいのですか?」 「いいに決まっている。アリナ以外は考えられないと言っただろう? 愛している、アリナ」 「ラコット様」  感激の吐息と共にこぼれた自分の名前に、ラコットは口の端を持ち上げた。唇を寄せて、愛らしい息を求めたラコットの耳に、小鳥のさえずりに似た心地よい音色が届いた。 「私も……お慕いしております」  彼女の想いを口内に受け止めて、ラコットは幸福の味をたっぷりと堪能した。
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