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◆第五章 まだ見ぬ自分とかつての心-2

 * * *  吐息が口内に注がれる。あたたかな気持ちに胸を撫でられ、アリナはうっとりと目を細めた。緑の瞳の奥に、自分の空色の目が映っていた。彼の奥に招かれている。 「んっ、う」  短くうめいて、アリナはすべてを愛しい人にゆだねた。体の奥からふつふつと恋しさが湧き上がり、肌が火照って意識が溶けた。自分の輪郭があやふやになって、与えられる情熱にたゆたっていると意識をハッとさせる衝撃に見舞われ、苦しいほどに愛しているのだと伝えられた。 「ああ……ラコット様」  魂が叫びを上げると、理性は砕けた。想いのままに振る舞ったアリナは、情愛のうねりに呑まれて自分のすべてを解放した。  一瞬だったのか、長い時間を経たのかがわからなくなる。世界を忘れて、ただラコットだけを認識していた時間が終われば、心地よい気だるさと愛の名残の疼痛を抱えていた。 「アリナ」  熱っぽくささやかれ、アリナは重たいまぶたを持ち上げた。ひどく消耗しているのに、とてつもなく満たされている。アリナがほほえむと、ラコットも微笑を浮かべた。 「愛している」  言葉にされなくとも、まなざしから、指先から、ひしひしと伝わってくる。 「ラコット様」 「俺の妻に、なってくれるな?」  はい、と答えようとした唇が迷った。気持ちは素直にうなずきたがっていたが、戻って来た理性がそれを押しとどめている。 「アリナ?」  不審そうにされて、小さく首を左右に揺らした。 「聖女でいたいのか」 「わかりません」  正直な気持ちを吐露すれば、首をかしげられた。 「怖いのです。期待を裏切ることが……あなたの隣で、立派に務めていけるのかが、不安なのです」 「アリナ」  気遣いを乗せた声に、心が震えた。髪をそっとかき上げられて、目線を上げれば緑の瞳に心を支えられる。 「俺は、君のほかに妻にしたい女はいない。君以外は考えられない。――よく、ブラモアという婚約者がいるのならと、ガマンできていたものだと呆れているんだ」  自嘲するラコットの頬に手を添えて、アリナはじっと彼の瞳の奥を見つめた。 「王妃として、やっていけるとお思いですか」 「アリナであれば、間違いなく」  柔和な笑みで断言されて、唇を引き締める。覚悟を決める時なのだと、アリナはこぶしを握りしめた。 「王は、許してくださるでしょうか」 「許してくれるさ。アリナ以上に次代の王妃にふさわしい人はいないと、答えられる自信がある」 「民も、納得してくださいますか?」 「生涯聖女になってほしいと、望まれていると思っているんだな。たしかに、ウワサというものは希望が含まれる場合もあるが、アリナの人生は、アリナのものだ。どの道を選ぼうと、アリナ以外の人間が不平を言う権利はないさ」  唇を引き結んで、硬く気持ちを確認してから、最後の不安を問いに変えた。 「女神アナビウワトは、どう思われるのでしょう」 「俺たちが結ばれることを不快に思われているのなら、洞窟が崩れて生き埋めになっているんじゃないか?」  冗談めかして答えられ、チリリと胸の奥が焦げた。苛立ちに似たものを感じたが、彼は何も悪くない。この森は女神アナビウワトがいらっしゃる山の裾野だ。彼の言葉は口調とは裏腹に重たい意味が含まれていた。だからこそ、ラコットはわざと軽妙な言い方をしたのだろう。 (私を、安心させるために)  だとすれば、もう迷う必要も、悩むこともない。 「お慕いしております、ラコット様」  望んだ答えを出したというのに、ラコットはポカンとしてしまった。まじまじと見つめられ、真意を疑われているのだと感じて、今度は「妻になれとおっしゃられたこと、お受けいたします」と言えば、みるみるうちに満面に笑みを広げた彼に、強い力で抱きしめられた。 「ああ! そうか……受け入れてくれるか、そうか……アリナ、ああ……ありがとう、アリナ」  感激に声を高くしたラコットの腕は、強すぎて息苦しいほどだった。彼の胸筋と腕に挟まれた胸が潰れて痛みを感じたが、逃げようとは思わなかった。なぜか、その痛みがうれしかった。 「ああ、アリナ……愛している、アリナ」  繰り返すラコットの声は、魚を釣り上げたエクトルよりも弾んでいた。少年みたいにはしゃぐ彼に、心の底があたたまる。これから、この人と未来を生きていくのだと思うと、面映ゆくなった。 「明け方まで、ずっとここで過ごしていたい。かまわないか?」 「ええ……ですが、私、すこし眠くて」  与えられた愛を受け止めるのに、体力を使い果たしてしまっていた。 「ならば、眠るといい。明け方になれば、起こすから」 「はい……では、失礼して」 「うん」  腕の向きが変わり、彼の肩に頭を乗せる形にさせられた。目を閉じれば、ラコットの匂いに意識が包まれる。まぶたの向こうには、エメラルド色の淡い光が満ちていた。眠らなくとも、すでに夢の中にいるみたいだと吐息を漏らせば、するすると安寧の闇に引き寄せられた。  * * *  腕の中で無防備に眠るアリナの額にキスをして、ラコットは幸福に満たされていた。言葉で彼女に伝えることはできなかったが、全身で思いの丈を告げられた。 「愛している」  いくら言葉にしても足りなかった。湧き上がる愛しさは際限がない。想いを遂げた充足に包まれながら、これからなんだと気を引き締める。 (まだ、ようやく出発点に立ったにすぎない)  彼女が気持ちを受け入れてくれた。それは終わりではなく、はじまりだった。父王に、自分の妻はアリナだと告げ、すべての縁談に断りを入れてもらう。貴族たちへの発表は、慎重に頃合いを見計らっておこなわなければ、アリナの名誉にかかわってしまう。  できるなら、すぐにでも王城に連れ帰って、婚約者としての日々を過ごしたい。聖女の任を解いて、次期王妃として遇したい。 (知恵を絞らなければな)  彼女の名誉を守りながら、自分の望みをかなえる手立てを考えるのは、満ち足りた時間だった。楽しい時間はあっという間に過ぎるというが、思考をめぐらせているうちに、ラコットは眠りの世界に引き込まれてしまっていた。  顔に細い陽光を感じて目を開ければ、ヒカリゴケはすっかり静かになっていた。月明りの中でなら、見事なエメラルドの輝きを放つヒカリゴケだが、太陽の光には負けてしまう。  洞窟の天井の細い割れ目から差し込んでいるのは、間違いなく太陽のものだ。  ハッとして身を起こせば、アリナはまだ眠っていた。無防備な姿に口元をほころばせ、ラコットは彼女を抱き上げた。  起こすのは忍びない。このまま抱き上げて、森を抜けよう。  日ごろから鍛えてるラコットの腕にかかれば、アリナはとても軽かった。たおやかな彼女の体が、するりと抜け出してしまわないよう、しっかりと腕に抱えて洞窟を抜ける。  森は生き生きと木の葉を伸ばして、陽光を受け止めていた。太陽の姿は見えないが、光の具合で日の出からずいぶん時間が経っていることが察せられた。 「さて、どうするか」  声に出して、頭の中を整理する。聖女の務めは日の出とともにはじまる。アリナの姿がないと、騒ぎになっていてもおかしくはない。  森を出るまでに妙案が浮かばないかと、考えながら歩いてみたが、何も思いつけなかった。 「ラコット様」  丘の上にはツァーリがいた。ラコットの姿を見つけた彼女が駆け寄ってくる。 「ああ、ツァーリ。これは、その」 「やはり、アリナ様はラコット様とおられたのですね」  よかったと吐息を漏らされ、バツが悪くなった。 「俺が森に誘ったんだ。ヒカリゴケという、珍しいものが生えている洞窟を見せたくてな」 「そうだったのですね」 「神殿は、騒ぎになっているのか?」  顔を曇らせたツァーリに、そうだろうなと心の中でうなずく。 「正直に、俺が悪いと伝えることにしよう」  逃げも隠れもせずに、堂々と彼女をそそのかしたのだと言って、罪を受けよう。皇子の立場を利用して、無理を言ったのだと告白すれば、自分の信用は落ちてしまうだろうが、アリナの名誉は守られる。 「いえ、あの……待ってください」 「うん?」 「昔、聞いたことがあるんです。遠い国では、神に呼ばれて子を宿した娘がいると」 「なんの話だ?」  唐突な話題に、ラコットは片目をすがめた。眉間に気遣いのシワを刻んだツァーリが、もどかしげに話を続ける。 「私の両親は、貴族よりも庶民と交わることが多かったので、船乗りたちから珍しい話を聞くこともあったんです。その中で、おもしろかったものを、いくつも私に教えてくれていたんですけど」  前置きをしてから彼女が語った内容は、耳を疑うようなものだった。  何の変哲もない村の娘が、夢の中で神に「宿として使わせてくれ」と告げられたと言った数か月後、神の啓示を受けた聖人が村を訪れ、娘の体内には神が宿っていると宣言した。娘は清らかな体のまま腹を膨らませて、神の化身である男児を産んだ。 「ですから、それをなぞらえればいいと思うんです」  にわかには信じられない話だが、アリナならば女神に呼ばれても不思議はないと思わせるだけの人望を持っている。それを利用すればいいと言われて、彼女の知識の広さと機転にラコットは道が開ける思いがした。 「いい話を聞かせてもらった。すると俺は、森に入ったアリナを探し出し、見つけてきたことにすればいいんだな?」 「はい。私が、夜に丘に出かけるアリナ様を見たことにして、ラコット様に助けを求めに行ったと言えばいいのです」 「だが、なぜ俺たちが森にいることを知っていたんだ?」 「それは、エクトルから聞いていたからです」 「エクトルから?」 「お手紙を、アリナ様に届けたと言っていました。エクトルは、ラコット様とアリナ様が結ばれればいいって言っていたんです。私も、おなじ思いでいます」  ほんのりと頬を染めたツァーリに「そうか」と告げて、神殿に目を向ける。ふたりはずいぶんと仲良くなっていたらしい。年のころも近い上に、尊崇する相手がおなじであることが理由だろう。 「ですが……そのぅ」  モジモジするツァーリに先を促せば、言いづらそうに上目遣いをされた。 「女神に呼ばれて森に入ったとなれば、いよいよ生涯聖女になられるのでは、と……期待が強くなってしまって、ラコット様はお困りになりませんか?」  そのとおりなので、うなずくしかない。だが、アリナの名誉は守られる。 「そのあたりは、なにかうまい策を考えるさ。今はアリナを守るのが先決だ。すまないが、先に神殿に戻って、その話を広めてくれないか。俺はアリナを城へ連れて行く」 「お城に、ですか?」 「聖女の私室に入れるのは、トモロコ家の者だけだからな。俺は入れない」  王族であっても許されない領域に、無理に踏み込む気はない。それに彼女を神殿に返せば、しばらく会えなくなりそうだ。  想いを遂げたばかりだというのに、しばらく顔も見られなくなる可能性がある場所に、アリナを渡したくはなかった。  迷うそぶりのツァーリを置いて、ラコットは歩きはじめた。あわてて追いかけてきたツァーリに「頼む」と言えば、硬い表情で「わかりました」と答えられる。  走っていく後姿に、ミズーリがいたら城に来るよう伝えればよかったなと思いつつ、ラコットは神殿から飛び出してきた聖女たちの姿を見た。 (城に戻る前に、質問攻めにされてしまうな)  やれやれとこぼした吐息は、愉快な気配を含んだ軽やかなものだった。
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