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◆第三章 揺らぐ心と求める気持ち-3

 * * *  馬車の壁に寄り添って、アリナは安堵の息を吐いた。  間一髪だった。  使用人がためらいがちにノックをし、来客を告げた瞬間、ブラモアは舌打ちをして顔を離した。腕はしっかりとアリナを掴んだままだったが、唇を奪われる危機は去ったと気を緩めると、怒声に耳を打たれた。 「俺はいないと言えと命じただろう!」 「そ、それが……ラコット様なのです」 「……なに?」  怯えた使用人の声に片目をすがめて、ブラモアは扉を開けた。彼から少しでも離れたくて、アリナは腕から逃れて窓際に走り寄った。もしまた彼に乱暴をされそうになったら、窓から飛び降りる気でいた。 (汚されるくらいなら、飛び降りてしまったほうがいい)  たとえ命を失ったとしても、汚されるよりずっといい。覚悟を決めたアリナは、イライラしているブラモアを見た。なんて自分勝手なふるまいをする人なのかと、自分の体を抱きしめる。右胸には、まだ彼の指の感覚が痛みとして残っていた。あんなふうに新妻にも接しているのか。  妻をめとったばかりで、別の女に言い寄るなんてと眉間にシワを寄せると、ブラモアは顎をしゃくって使用人を立ち去らせた。近づいてくるのかと身構えたが、彼は扉の前で苛立ちを抑えようとしている。  やがて来客が現れ、ブラモアは愛想笑いを浮かべた。彼の肩越しに訪れた人物と目が合ったアリナは、安堵に膝からくずおれそうになった。 (本当に、助かったわ)  ラコットの姿を見た瞬間に、もう大丈夫だと体中が弛緩しそうになった自分を思い出し、目を伏せる。ガタゴトと馬車の立てる音に合わせて揺れながら、向かいに座っているラコットの視線に身を小さくした。  彼は助けに来てくれたわけではなく、偶然にも祝いの品を持ってきただけだ。その結果、アリナは助かった。これも女神アナビウワトの導きだろう。 (感謝します、女神アナビウワト)  胸中で祈りをささげて、頬に触れるラコットの視線に意識を向ける。助けてもらった礼を言いたいが、元・婚約者に乱暴をされそうになったとは言えない。別の形で感謝を伝えなければと考えているうちに、王城の前に馬車は到着した。 「寄って行かないか」  誘いにうなずいて、彼の手を取る。指先にピリッと電流に似たものを感じた。 (前にも、あったわ)  電流は泡となって、すぐさま消えてしまった。指先には、彼の体温だけがある。アリナの足元を気遣うラコットのさりげないしぐさに、心がほっこりとあたたまった。  雨の溜まった地面をさけて、先導してくれるラコットの手はとてもやさしい。頭上は重たい雲におおわれているというのに、青天の草原を歩いている気分だった。  王城の一角にある温室に通されたアリナは、ドーム型の天井を見上げた。天井の一部には太い蔓が這っており、青々と木の葉が茂っている。曇天でも雲を突き抜ける陽光の恵をいっぱいに浴びた緑は、澄んでいてうつくしかった。 「ここなら、また雨が降り出したとしても、ゆっくりしていられる」 「ありがとうございます」  素直に頭を下げられた。助けてもらった礼と、気遣いに対しての言葉だったのだが、まさかブラモアに襲われていたとは思ってもいないだろう。ラコットはきっと、単に送られたことに対する礼だと思っている。 「すぐに茶を用意しよう。食事も、ここで取ればいい。神殿には、アリナがここにいることを伝えておく。――ああ、エクトルを呼ぶか」  いいえと首を振って返事をした。 「そうか。俺は出かける。と言っても、王城の中にはいるがな。用事があったら、いつでも呼んでくれ。好きなだけ、ここで過ごしているといい」 「はい、ありがとうございます」  ふたたび頭を下げて、去っていくラコットの背中を見送る。彼にいてほしいと、望みが胸をよぎったが打ち消した。 (わずらわせてはいけない)  彼には皇子としての仕事がある。ブラモアの屋敷を訪れたのも、その一環だろう。皇子は貴族たちに気を配らなくてはならない。王の目を盗んで、所領で無体をしていないかを調べるためだ。屋敷を見ることは、生活の一端を目にするということ。領地の経営など、人柄も見えてくる。  王になるまでに、人を見る目を養っておかなければならない上に、皇子としての信認を貴族たちから得ておく必要もあった。ラコットのほかに王に息子はいないが、だからといって血筋だけで信服が厚くなるわけではない。王族と貴族とは言っても、しょせんは人と人との付き合いだ。諸々にしなければならないことも多いだろう。  新当主となったブラモアに祝いの品を自ら出向いて与えたのも、人となりを知るための手段だったはずだ。 (だから、私を助けに来てくださったわけではないわ)  姿の見えなくなったラコットの背中を、アリナの視線は追いかけている。偶然ではなく、意図的に自分の窮地を救いに来てくれたのだと、思いたがっていた。 (どうして……私)  心の奥が甘く疼いている。はじめての感覚は、とまどいはあるものの不快ではなかった。もう少し、彼にここにいてほしかった。怖かったと打ち明けたかった。助けてくれてありがとうと、ブラモアにされたことを伝えてなぐさめてほしかった。 (いいえ、ダメよ)  甘えるべき相手ではない。そもそも聖女が汚されそうになったなどと、言えるわけがない。こちらから望んだわけではなくとも、世間はアリナを“ふしだらな聖女”とみなすだろう。ブラモアとは婚約をしていた間柄なのだから、恋しくなったのだと考えられる可能性は高かった。  見送りの折の先輩聖女の案じ顔は、杞憂にはならなかった。彼女の言を受けて、誰かもうひとり聖女を連れて行くか、トモロコ家の者を付き添いとしておくべきだった。なつかしい相手だから、親しんできた場所だから、危険なことはなにもない。その考えが甘かったのだと、恐怖という形で教えられた。 (おじ様やおば様は、あの人が何をしようとしていたのかを、知っていて出かけたのかしら)  違っていてほしい。ふたりは何も知らなかった。ブラモアがひとりで画策したのだと思いたかった。 (だけど、庭に神殿を造って私を引き取ると言っていたわ)  前当主の許可や新妻の同意もなく、そんなことが可能だろうか。表向きは聖女でありながら、その実は愛人としてアリナを扱うことに、同意をしていたのだろうか。  首を振って考えを振り払おうとしても、不穏なざわめきは静まらなかった。 (行かなければよかった)  断れば、ブラモアに気持ちが残っているとウワサされただろう。だが、それでも今回の出来事が回避できたのなら、そちらのほうがずっとよかった。  かつての婚約者があんな人だったなんて、知りたくなかった。  ベンチに腰かけて、空を見上げる。透き通る緑の葉の向こうに、黒に近い灰色の雲が重たく垂れこめていた。今にも降り出しそうな空をながめていると、天井はしっかりとしたガラス屋根だというのに、アリナの頬にしずくが落ちた。  * * *  しばらく、ひとりきりにしたほうがいいだろうと、ラコットは後ろ髪を引かれながら温室を後にした。使用人たちには、聖女アリナが祈りをささげているので、邪魔をしないようにと伝えてある。彼女が神殿の裏の丘によく行くことは、トモロコ家の者であればよく知っている。いつ雨が降るかもわからない天候だから、緑豊かな場所であればいいというのならと、温室に案内したのだと伝えれば、いぶかる者はひとりもいなかった。  馬車に乗って、身を小さくしていたアリナの姿を思い出すと、胸の奥がささくれだった。ブラモアに何かをされたのは明白だ。だが、それを問うわけにはいかない。彼女をより深く傷つけてしまう。  ブラモアの肩越しに、おびえているアリナを見た瞬間、問答無用でぶん殴りたくなった。情動を堪えられた自分を盛大に褒めてやりたい。 (元・婚約者だろうと、彼女を傷つけていい理由にはならない)  明らかにアリナは傷ついて、打ちのめされて、おびえていた。何があったのか知りたくはないが、聞きたかった。それも、ブラモアの口からではなく、アリナから。  口をつぐんでいたのは、信頼が不足していたからだろう。気丈に振る舞おうとしている姿がいじらしく、哀れだった。か細い体で精一杯に恐怖を抑えて、しっかりと背筋を伸ばしていたアリナが、ますます愛おしくなった。  安全な場所でひとりきりになった彼女は、泣いているだろうか。怖かったと温室の木々に向かって、つぶやいているかもしれない。女神アナビウワトに祈りと言う名の懺悔をしている可能性もある。 「アリナ」  やるせなく名を呼んで、執務室に入った。彼女の慰めになるものを与えたいが、思いつけない。傍にいて抱きしめたいが、聖女としての矜持を傷つけてしまいそうだ。温室でふたりきりになっても、弱みを見せまいと気を張っている彼女を抱きしめれば、ブラモアに対する恐怖を増幅させてしまう恐れもあった。 (歯がゆいな)  決定的なことになる寸前に乗りこめたらしいとは、ブラモアの態度から判断できたが、守り切ることはできなかった。もっと早く行動を起こしていればと後悔しても、過去には戻れない。  執務室に入って、やりかけの書類を引き出して広げても、アリナの憂い顔がちらついて文字が視線の上ですべってしまう。仕事は手につかないと見切りをつけて、体を動かすことに決めた。  窓の外に目を向ける。  今にも雨が降り出しそうだが、ギリギリの状態で保っていた。  まるで自分の気持ちだと、ラコットは皮肉を込めて鼻を鳴らした。
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