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◆第三章 揺らぐ心と求める気持ち-1

 * * *  翌朝。雨音は止まっていたが、空はどんよりと重たい灰色の雲におおわれていた。いつ雨粒が落ちてきても不思議ではない空模様と、ぬかるんだ大地をながめるアリナは、馬車の到着を待っていた。  ドレスの裾はふくらはぎの半ばくらいまで持ち上げてあり、足ごしらえは膝まである革靴だ。彼女のかたわらには、今年任期を終える聖女が付き添っている。 「本当に、おひとりで行かれるのですか?」 「先方がそう望んでおられますので」  まつ毛を伏せたアリナの横顔に、先輩聖女の案じる視線が注がれた。彼女がなにを言いたいのか、ひしひしと伝わってくる。今日アリナを屋敷に招きたいと連絡をしてきたのが、マリス伯爵家の新当主ブラモアだからだ。先輩聖女は、彼とアリナが婚約していたことを知っている。  気遣いの視線をありがたく、また、少々うっとおしくも感じながら待つアリナの耳に、ぬかるみを踏む馬の足音と車輪の音が届いた。立派な二頭立ての馬車が近づいてくる。御者は見知った男だった。  神殿の門前に馬車を止めた御者が、ひらりと下りてアリナの前に立つ。 「ご無沙汰しております」  小さく首を動かして答えたアリナは、先輩聖女のもの言いたげなまなざしを背中に受けながら、御者の手を借りて馬車に乗りこんだ。 (なつかしい、と言っていいのかしら)  ふっくらとした座り心地のいい座席に身を置いたアリナは、灰色の光にくすんでいる景色に目を向けた。雨の日に呼ばれて出ることは、いままでもあった。聖女として神殿に住むようになってから、幾度となく雨の日や曇りの日を過ごしてきたのに、ひどく憂鬱な気分になっている。 (どうして)  細く長く息を吐きだし、目を伏せて気持ちをなだめようとしたが、ダメだった。先輩聖女の心配そうな目つきがまぶたに残っている。彼女の気持ちに感化されたのだと、己の不安を否定した。 (なんでもないことよ)  どうってことない。ブラモアは特別な関係だったけれど、親がそう決めただけで気持ちを向けていたわけではないのだから。  ただの幼馴染。結婚の約束はしたけれど、親が勝手に決めたこと。アリナ自身が望んでなったわけではない。 (だから、簡単に解消されたんだわ)  ブラモアだって、アリナに想いをかけていたわけではない。親同士が決めた、家柄優先の結婚相手。もしかしたら、先日の結婚相手はブラモアの心にかなった女性だったのではないか。アリナが生涯聖女になるかもしれないというウワサを聞いて、想い人と結ばれるために、それを理由に婚約破棄を申し出てきたのかもしれない。  つらつらと考えるアリナの目は景色を映してはいたが、見てはいなかった。心に浮かんでいるのは、思考対象のブラモアではなく、ラコットの姿だ。  君を待つ人はもういない、と言われた。だからラコットの妻になるのに、何の問題もないだろうと。ブラモアが手放したから、ラコットが手を伸ばしてきた。もしもブラモアとの婚約が続いていたなら、ラコットは求婚してこなかったのだろうか。 (その程度の気持ちだったのなら、きっとすぐに別の女性に目を向けるわ)  チクリと胸の奥が痛む。どうして心がざわめくのか。アリナは先日からクセになってしまっている吐息をこぼし、下唇を軽く噛んだ。  誰の手もついていない女だから、手を伸ばしてきたのだとしたら、もしもブラモアとの婚約がそのまま続いていたのなら、彼は声をかけてこなかった。 (だけどもし、婚約が続いている中でも私を求めてくれたのなら)  考えてどうするのかと、アリナは唇をゆがめた。もしも、なんて考えてもしかたがない。過去に起こった出来事は、変えようがないのだから。変えられるのは、まだ到来していない時間だけだ。 (未来だけが、変えられる)  過去となったことを踏まえて、未来が変わっていくのだ。自分はブラモアと婚約解消をし、ラコットに求婚された。その事実があるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。  流れる景色の速度が落ちて、止まった。見たことのある庭が窓の外に広がっている。ブラモアの屋敷に到着したのだ。  扉が開かれ、御者がうやうやしく頭を下げて、どうぞと手のひらでアリナをうながす。うなずいて馬車から下りると、立派な石造りの玄関ポーチに数日前に見た元・婚約者が立っていた。 「アリナ」  親しげな声音は、うれしそうに弾んでいる。響きのいい低音の声は、耳にまっすぐ届いた。 「よく来てくれた」  差し出された手のひらに手を乗せて、彼のエスコートで屋敷に入る。 「ここに来るのは、どのくらいぶりだ? 君が聖女になる前日に祝いをしたから、かれこれ六年ほど前になるか」  変わらず朗らかな彼の様子に、少女だったころとは違う聖女らしい微笑で返事をする。必要以上に近しくしては、結婚をしたばかりの彼の妻に、あらぬ嫉妬を起こさせるかもしれない。  アリナの肌には、見送ってくれた先輩聖女の不安そうな視線がまだ絡みついていた。彼女が心配していたのは、つまりそういうことなのだ。 (私が嫉妬の対象になっては、神殿の皆様に迷惑がかかるわ)  こちらが何の思惑を持っていなくとも、過去の関係から想像をたくましくされて、ふしだらだとののしられたら困る。あくまでも聖女としての態度を崩さなようにしなければ。  玄関ホールに入れば、一気になつかしさが押し寄せてきた。この屋敷には幾度も訪れている。聖女になる前、ふたりの両親はとても仲が良く、家族ぐるみの付き合いをしていた。アリナは父や母に連れられて、マリス家をよく訪れており、ブラモアは幼馴染でもあった。だから両親から、ふたりは結婚をするのだと教えられても違和感どころか、ときめきすらも抱かなかった。家族みたいなもの、から、本当の家族になるだけだと思った。 (特別な感情は、何もないわ)  恋のはにかみも、うれしさも抱かなかった。これまでの延長として、マリス家に入るのだと考えていた。聖女の務めを終えたら、生まれ育ったモナミス家の屋敷ではなく、ここマリス家の屋敷で生活をすると思っていた。  無言で歩くアリナに、ブラモアはなつかしく語りかける。 「ほら、あのランプ……覚えているだろう? 俺がいたずらをして、ガラスを割ってしまって、破片で君はケガをした。驚きすぎて固まってしまった君を抱き上げて、俺は泣きながら母の元へ走ったんだ」  覚えている。ケガをして驚いたのではなく、割れたガラスの破片がキラキラと明かりを受けて輝きながら落ちていく様子に見とれていたのだ。なんて美しいのだろうと、心を奪われていた。頬に軽く傷を負ったが、痛みに気づかないほど強く、舞い落ちるガラス片に気を取られていた。いきなり抱き上げられ、ブラモアが泣きながら母親を呼ぶ声に我に返って、呆然としてしまったのだ。 「傷が残らなくて、よかったよ」  くるりと振り向いたブラモアの手が、右頬に触れる。親指で目の下の頬骨あたりを撫でられた。彼の目は艶やかに濡れて、キラキラと揺れている。長身のブラモアを見上げていると、小さなころに戻った気がした。  無言で頬を撫でてくる彼の目じりが、やわらかい。慈しみをたっぷりと含んだ茶色の瞳に、表情を消したアリナが映っている。  しばらくして、ブラモアはハッと目をまたたかせ、周囲を見回すと気まずそうに視線を泳がせた。 「こんなところで立ち話もなんだからな。談話室へ行こう」  二階にある談話室に案内されて、長椅子を勧められる。大きな窓からは、屋敷の裏庭が見渡せた。長椅子に座らずに、窓辺に寄って外をながめた。  美しく整えられた低木に区切られ、バラ園とハーブ園が広がっている。野外のお茶会ができる芝の広場と、彫刻のほどこされた柱で作られた東屋をながめていると、なつかしさが募った。 「変わっていないのですね」  六年前に見た光景と少しも変わりない。 「俺が当主になったと言っても、両親は元気だからな。ふたりの意見を無視して、造り替えることはできないさ」  深く首を縦に動かして、景色と記憶を重ね合わせる。東屋でおこなったお茶会や、咲き誇るバラ園でのかくれんぼ、ハーブ園で摘んだハーブを使ってのお菓子作り。  さまざまな思い出が、実家の屋敷とおなじくらいマリス家の屋敷には詰まっている。  隣にぬくもりを感じたアリナは、ブラモアもなつかしく昔を思い出しているのだと思った。こうして呼び出されたのは、顔もあわせず婚約破棄をしたことを、きちんと話すためではないのか。 (きっと、そうね)  言いだしづらいのならば、こちらから水を向けよう。 「ブラモア様。おばさまと、おじさまはいらっしゃらないのですか?」 「そんな呼び方はよしてくれ。いままで通り、ブラモアと呼んでほしい」 「ですが、そういうわけにも参りません。あなたはマリス家の当主となられたのですから」  やるせない目を向けられた。ため息をついたブラモアの手が、アリナの肩に乗る。 「今だけ……ふたりきりのときだけ、呼び捨てにしてほしい」 「ブラモア様?」 「両親は出かけている。妻もだ。この屋敷にはいま、使用人のほかは俺たちしかいない。どういう意味かわかるだろう? アリナ」  切なげに呼ばれて、アリナはキョトンと目をまたたかせた。  * * *  空はすっきりと晴れなかったが、雨は上がった。  アリナはどうしているだろうと、ラコットは空を見上げて彼女を思う。彼女の瞳とおなじ色の空ではない。灰色の雲が重く垂れこめている。すぐにでも雨の再来がありそうな予感を抱かせる天候は、もどかしい気持ちに似ていた。 「ふう」  執務室を出て、少し散歩をしておこうか。丘の上に、彼女が出ているかもしれない。常にあそこにいるわけではないだろうが、会える可能性はゼロではない。  昨日、少し時間を空けて……と考えたばかりなのに、彼女に会いたがっている自分に苦笑する。どうにもこらえ性がない。 (だが、何年も気持ちを抑えてきたのだから、しかたがないとも言えるな)  情動を肯定的に受け止めて、昼食前に出かけることに決めたラコットは、書類をまとめて引き出しに片づけると席を立った。  廊下を進む足取りが、いつもより速い。会えない可能性よりも、会えるかもしれないという期待がそうさせていた。アリナが恋しくてたまらない。もっとも、向こうはどう思うかわからないが。 (姿を見せて、警戒をするそぶりをされたら、あまり近づかないでおこう)  まるで野性のネコかウサギに出会ったときのようだと、口元に笑みをただよわせる。姿を見られるだけでもいい。しかし、姿を見てしまえば触れたくなってしまう。 (欲深いな)  己の恋心にクスクス笑うラコットの視界に、エクトルの姿がよぎった。 「エクトル!」  声をかければ、大きな笊を抱えたエクトルが、パッと顔を明るくした。 「ラコット様。おはようございます」 「おはよう。それは、今日の昼食の食材か」  笊の中には、さまざまな種類の野菜があった。 「はい。昨日は雨だったので、塩漬けしておいた魚と野菜の料理です」 「そうか。楽しみだ。ところで、エクトル……アリナのことなんだが」  にこっとしたエクトルが、胸を反らせた。 「たくさん、ラコット様のお話をいたしました!」 「彼女の反応は、どうだった?」  首をわずかにかたむけたエクトルは、何を問われているのか具体的に受け取れなかったらしい。 「俺に対して、どんな感想を言っていた?」 「民のために、がんばっている人なんですねって言っておられました」 「そうか」  悪くない返事にニヤリとする。 「今日は、アリナはどうしている? 彼女はよく丘に出ているらしいが、今日はどうだろうか」  パチパチとまばたきをしたエクトルの答えは、ラコットに強い衝撃を与えた。 「アリナ様は、マリス家のお屋敷に出かけておいでです」 「なんだと」  抑え気味だが鋭い声に、ビクリとエクトルが肩をすくめた。 「ああ、すまない。怒っているんじゃないんだ。マリス家から、誘いが来たのか」 「はい。朝、迎えの馬車が着て、お出かけになられました」 「もちろん、数人で向かったんだろうな」 「いえ。アリナ様おひとりです」  不思議そうなエクトルに礼を言い、ラコットは足早に王城の裏門に向かった。庭に出て厩を目指し、自分の馬を引き出そうとして我に返る。 (俺は、何をしようとしている?)  彼女の恋人でもなんでもない。それなのにマリス家に乗りこんで、彼女を連れ帰ろうとしていた。 (ブラモアに呼ばれたに違いない。あるいは、その両親に……か)  婚約破棄について、色々と話をしている可能性が高い。そこにラコットが乗りこめばどうなるか。彼女は不快に思うだろう。そしてラコットとのウワサが広がる。皇子がそこまで嫉妬をあらわにするのだから、ふたりは深い関係なのだろうと――。 (アリナの名誉を傷つけることになる)  こぶしを握り、足に力を入れて行動したがる体を抑える。勝手なことをとアリナは憤慨するだろう。怒らないまでも、不快に思うに違いない。 (アリナ……君はなぜ、呼び出しに応じたんだ。かつての婚約者と、どんな話をしている?)  心の中で語りかけたラコットの胸には、頭上に広がる灰色の雨雲よりも暗く不穏な雷雲が渦巻いていた。
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