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◆第二章 流れる立場と心の居場所-2

 * * *  ザァアアアア――――。  パタッ……パタッ……パタッ……パタッ。  ザァアアアア――――。  世界をおおいつくす雨音と、窓のひさしに溜まった雨水が落ちる音に包まれた室内は、世界から切り離されているみたいな感覚になる。  クッションに埋もれたアリナは、視線を空中にさまよわせて、雨音に身をゆだねていた。目を開けていても、意識は自分の内側にズブズブと沈んでいく。静かに己と向き合えと、天が言っているのかもしれない。  新人の聖女だけでなく、古参の聖女であっても、アリナに教えを乞うてくる者は少なくない。だが、今日は誰も部屋を訪れては来なかった。食事の準備ができたと呼びに来られる以外は、人の足音を聞いていない。神殿の中は、ひっそりとしていた。  音のすべてが雨に遮られているのか。それとも吸い込まれてしまったのか。  物憂い息を吐きだして、アリナは水差しに手を伸ばした。長椅子の横に置かれているローテーブルの上には、銀で出来た水差しと、銀製のゴブレットが置かれている。水を注いで飲み干して、ぼんやりと天井に視線を向けた。  意識の中には、エクトルのはじける笑顔とともに送られた言葉がある。  ――ラコット様が、ぜひアリナ様にとおっしゃったんです。  昨日の夕食時のことだ。漁に出かけたエクトルは、ラコットが現れて漁に参加し、手に入れた魚をアリナに届けてほしいと言ったらしい。アリナの目の前には、香草と油で煮られた立派な白身魚が置かれていた。  ありがとうとエクトルに返した笑顔は、不自然ではなかったろうかと頬に手を乗せる。いつもどおり、静かなほほえみになっていたはずだ。 (妙に浮かれた顔には、なっていなかったはず)  昨夜のことを心配してしまうほど、あの時のアリナの心臓は激しく脈打ってしまっていた。聖女にあるまじき心情だと戒めても、ドクドクと高鳴る鼓動は抑えられなかった。普段通りに食事を進めているつもりでも、指先がかすかに震えてしまっていた。  誰かに見とがめられはしないかとハラハラしたが、アリナの心の揺らぎに気づいた者はいないように見受けられた。  表層的には、普段通りだったのだ。誰も――率直に気になったことを口にするエクトルでさえ、何も言わなかったのだから。 (だけど……私自身はごまかせない)  胸の上に手を乗せて、息の塊を丸く吐き出す。吐息の数が増えている。物憂いのか、浮かれているのか。どちらとも取れる揺らぎを持て余して、アリナはクッションによりかかった。  雨音は変わらず部屋を包んでいる。今日はずっと雨だろう。丘に登って、女神アナビウワトに語りかけたいが、雨の中の外出はこれといった用事がない場合、心配をかけてしまう。  ドレスの裾の泥汚れを落とすのは、神殿に仕えているトモロコ家の者たちだ。その手間を考えると、おとなしくしておいたほうがいい気もした。 (言い訳だわ)  動かない理由を作っている。雨であっても、とくに用事がなくとも出かけたことはある。雨の日の足拵えをすればいいだけだ。ドレスの汚れを気にせずに、泥となった土の上を歩いたこともあった。それなのに、行かない理由として彼等の手間を思い浮かべた自分は卑怯だ。  いつもの自分とは違っている。原因はわかっているが、理由はわからなかった。 (祈りの間に行こうかしら)  丘の上でなくとも、女神に祈りはささげられる。心の底から語りかければ、世界そのものである女神に声が届かないはずはない。ましてや、ここは神殿だ。女神の気配が満ちているこの場所なら、迷いを打ち明けるのに最適だ。 (だけど、もし誰かがいたら)  ひとりきりで静かに祈りをささげたい。誰の気配も感じずに、ひとりきりで。  雨の丘なら、誰も来ることはないだろう。しかし、なぜ行くのかと誰かに理由を聞かれたら、どう答えたらあやしまれずに済むのかがわからない。  悪いことをしているのではないのだから、堂々とすればいい。だが、雨の丘に登るなど、何かあったと思われる。詮索はされたくない。されても困る。アリナ自身、自分の気持ちが把握できていないのだから。  グズグズと堂々巡りの思考を続ける肉体は、身動きができないでいる。見えない鎖に縛られているみたいだ。  天井に向けて、手を伸ばしてみる。指の向こうにラコットの笑顔が浮かんで、胸の奥が熱く震えた。  きらめく緑の瞳がアリナを見つめている。細められた目はやわらかく、やさしいまなざしに包まれると、あたたかな体温が肌を伝って体の内側に流れ込んできた。目を閉じれば、抱きしめてきた力強い腕の感触が、ありありと思い出される。  ほうっと悩ましい息をこぼして、アリナは幻のラコットの体に寄り添った。  雨の音が滝の音色を引き寄せて、意識を包む。細かなしぶきが肌にかかる冷たさと、ラコットのぬくもり。しっかりと抱きしめられ、支えられたときの安心感。すっぽりと腕に包まれたときの、心のざわめき。  足首にまとわりつく水の冷たさと、濡れたやわらかな彼の息。ふんわりと重ねられた唇からは、想いの乗った息がこぼれた。  ――俺の妻になれ。  耳心地のいい中低音の声が、鼓膜を震わせる。 「ラコット様」  唇が勝手に動いて、彼の名を紡いでいた。森のような緑の瞳の奥を探索したい。キラキラとゆらめく葉陰を受けて、彼の心に分け入りたい。きっとあの滝のある景色のような、すばらしい光景に出会えるはずだ。  確信に似た予感に、肌がさざめいた。  未知の世界へ飛び立つ前の、ワクワク感に包まれる。  日に焼けた長い指に手を取られて彼の心の森を散策すれば、楽しい時間になるだろう。彼と共に手を取り合って、あらゆるものに目を向けて、無心に景色を身に受けて過ごす時間は、何もかもを忘れられるほど、すばらしい体験になるに違いない。  夢想に身をゆだねてほほえんでいれば、遠慮がちなノックが聞こえて我に返った。 (私は、何をしていたの)  夢見心地から戻ったアリナは、後ろめたい気持ちを抱えつつ急いで起き上がり、深呼吸をして「はい」と返事をした。扉が開かれ、入ってきたのはエクトルだった。 「お邪魔ではないですか」 「いいわ。いらっしゃい」  隣のクッションを軽く叩くと、エクトルは飛び跳ねるようにしてアリナの横に収まった。 「あの、これ……一緒に食べようと思って、持ってきたんです」  油紙の包みを差し出されて受け取り開くと、ひと口サイズの木の実を練り込んだ焼き菓子が入っていた。 「まあ、おいしそう」  エヘヘと笑うエクトルが、得意げに胸をそらす。 「僕が作ったんです。木の実をくだいて粉と混ぜて、焼くところも全部です」 「すごいわ、エクトル。あなたはお菓子作りもできるようになったのね」 「へへ……でも、ほかのみんなに手伝ってもらいながらなんですけど」 「手伝ってもらいながらも、きちんと作り上げられるなんて、すばらしいわ。がんばったのね」 「はい!」  声を弾ませたエクトルの目が、食べてほしいと言っている。ひとつをつまんで口に入れれば、さっくりと歯ざわりがよかった。 「うん、おいしいわ」 「よかった!」  胸を両手で押さえたエクトルに、アリナはにっこりした。 「これ、上手にできたから、王家にもお持ちするってお父さんが言っていたんです」  王家と聞いて、アリナの心臓は跳ねた。 「王様も召し上がるのね」 「はい。それと、ラコット様も」  彼の名前を聞けば、心音が高まった。 「ラコット様は、すばらしいお方なんですよ。僕にもよく声をかけてくれて、民にも親しまれているんです。貴族の方々との交流だけでなく、よくあちこちに出かけて、身分の隔てなく声をかけているんですよ」 「そうなの」  彼の話をうれしそうに語るエクトルから、慕っているのだと伝わってくる。 「ラコット様はとても強くて、かっこいいんです。弓の腕も達者で、飛んでいる鳥だって射落とせるんですよ。だから僕、弓はラコット様に教えていただいているんです」 「まあ。ミズーリに、ではなくて?」 「お父さんは、いっぱいすることがあって、忙しいんです。僕だけじゃなくて、一族全員の面倒を見なくちゃいけないから。だから、もともと伯父さんに弓を習っていたんですけど、ラコット様が自分の練習時間に修練場に来たら教えてやろうって言ってくださって」 「それで、王城に通っているの?」  しっかりとうなずいたエクトルが、ほんのわずかうらやましくなった。自分の気持ちにうろたえながら、質問を重ねる。 「ねえ、もっといろいろと聞かせてくれない?」 「もちろんです。アリナ様は聖女の中の聖女ですからね。王家のことは、いっぱいお伝えしておかないと! だって、王家も聖女も、国を守ってくださる方々なんですから」  屈託のないエクトルの物言いに、アリナは胸を突かれた。 (王家も聖女も……そうだわ。エクトルの言うとおり、どちらも国を、民を支えて育む存在なんだわ)  あらためて意識したアリナの目の奥には、ラコットの微笑が浮かんでいた。  * * *  さっくりと歯を立てて焼き菓子を噛み砕き、ラコットは窓の外の雨音の向こうにいるアリナを思った。  皿に盛られている菓子は、エクトルが作ったものだと聞いた。彼はどうしているのかと問えば、アリナの元へ菓子を持って行ったと答えられた。  いまごろ、アリナの隣でエクトルはさまざまな話をしていることだろう。 (主に、俺の話をな)  ずるい手段だろうか。いいや、そんなことはない。  浮かんだ疑念をすぐさま否定し、彼女が自分に少しでも親しみを持ってくれればいいと願う。  昨日の漁では、いい魚が手に入った。アリナは肉よりも魚を好むと聞いて、釣った魚の中で一番活きのいいものをアリナに出してくれとエクトルに託した。彼女は食べてくれただろうか。 (俺からだと聞かされて、手をつけなかったとも考えられるな)  はっきりと拒絶の言葉を向けられたわけではないが、妻になれとの申し出に返されたのは「私は聖女」だった。 (断りの言葉として、あれ以上ふさわしいものもない)  重たい息を吐きだして、お茶を喉に流し込む。彼女とエクトルはずいぶんと仲良しらしい。もっとも、エクトルはすべての聖女たちにかわいがられているから、アリナだけとは言えないが。 (エクトルなら、聖女の私室にも行ける)  トモロコ一族である上に子どもの彼は、神殿内のどこへでも出入りが可能だ。だから彼にアリナへの伝言を託した。聖女たちが弟のように扱っているエクトルなら、アリナの心にもすんなりと言葉を届けられるだろうから。  むろん、自分を必要以上によく見せようとは思っていない。等身大の自分自身で彼女の心を動かせなければ、未来を共に歩めるはずもないからだ。 (頼んだぞ、エクトル)  彼には、自分がどんな人間なのかを、アリナに伝えてほしいと頼んである。昨日の今日が雨でよかった。神殿に足を運ぶ民が少なくなるし、聖女たちも出歩かないだろうからだ。たっぷりと話をする時間ができる。  アリナの姿を見に行くことはできないが、時間を置くのも重要だ。清らかな唇を奪ったのだから、しばらく顔を合わせたくはないと思われていてもおかしくない。  唇に指を乗せて、彼女の肌の感触を思い出す。ぽってりとした愛らしい唇は、想像以上にやわらかかった。華奢な体はしなやかで、倒れそうになった腰を抱きしめたときのたおやかさは、力を込めれば形を崩してしまうのではと危ぶむほどだった。  清楚で可憐な容姿からは想像もできないほど、強い意志を秘めた空色の瞳。雨が上がれば、空は彼女の瞳とおなじ晴れやかな色になることだろう。  心に住まう彼女の面影を追い求め、ラコットは窓の外に目を凝らした。降り注ぐ雨の幕に遮られて、神殿の姿はおぼろげにしか見えなかった。だが、彼女はその中にいる。確実に。 「アリナ」  音になるかならないかの、かすかな声で彼女を求めた。愛おしい。触れれば、さらに欲しくなった。自分の隣に立つのは、彼女しかいない。ほかの誰にも務まらない。 (俺の妻になれ)  念じるように想いを飛ばす。神殿から目を離し、暗く沈んだ空の向こうへ視線を投げる。 (女神アナビウワトよ。アリナを俺から奪わないでくれ。彼女以外に心をささげるにふさわしい女性はいない。王妃としても、アリナほどぴったりとくる女性はいない。民に慕われ、敬われているアリナこそ、王妃になるべきだ)  祈りとも語りともつかない想いを振り返り、なんて自分勝手な言い方だろうと、フッと口の端を持ち上げた。 (王妃になるべきだ、とは、傲慢な言い方だな)  俺の妻になれ、という言葉もかなり尊大だったなと反省する。だが、撤回する気はない。それほど強く彼女を求めているからだ。懇願よりも強く彼女を求めている。あきらめていたものが、手に入れても問題はないとわかったのだ。抑えていた気持ちが、あふれるのも当然だろう。  吸い込まれるように唇を奪ったが、恥じる気はさらさらない。あれは正直な自分の気持ちだ。なじられても、謝罪をする気はまったくなかった。 (ブラモアは彼女を手放した)  未確定のウワサを信じて婚約を解消し、別の女性を妻とした。彼女に執着を持たない男でよかったと、己の幸運にほくそ笑むと同時に、アリナは彼に心を残しているのかと気になった。 (聖女だと言い切ったのだから、心残りはないはずだが)  丘でひとりたたずんでいた姿が、脳裏にこびりついている。いずれは結ばれる相手だと思い続けていたのだから、簡単に気持ちの切り替えができるはずもない。彼女から婚約解消をしたのではなく、ブラモア側から申し出があったと聞いている。 (気持ちは揺れているはずだ)  そこにつけ込むようなことをしているとは、自覚している。だが、彼女の気持ちが癒えるまで待っていたら、それこそ取り返しがつかなくなるのではないか。聖女としての矜持をより強くして、誰も寄せつけなくなるのではないか。 (俺には、時間がない)  次の誕生日までに、彼女の首を縦に動かさなければならない。次期王妃候補として、次々に貴族令嬢たちを紹介されている。その誰にも心は動かなかった。  ラコットのすべては、アリナの虜になっている。 (アリナ……かならず、俺の妻にしてみせる)  山と空の交わる場所に目を向けて、女神アナビウワトに宣戦布告をするくらいの激情を瞳に乗せると、ラコットは雨にけぶる景色をにらみつけた。
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