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◆第二章 流れる立場と心の居場所-1

 胸を抑えてうつむいて歩いていれば、意識が自分の内側にのみ向いてしまう。足を止めたアリナは顔を上げて、空を見上げた。 (私は、聖女)  役目を終えても、自分を待っている人はいない。だから生涯聖女でいようと決めたのに、ラコットが現れた。 (これは、試練なのかしら)  女神アナビウワトに試されているのかと、まぶしい空に目を細める。ゆったりと薄い雲が広がっている青空は、地上をやさしく包んでくれている。生きとし生けるものすべてを守り、育んでくれる女神アナビウワトが、果たしてそんなことをするだろうか。 (いいえ……するかもしれないわ)  空は時に荒れ狂い、人々に恐怖をもたらす。それが明ければ普段よりも美しい青空が広がるのだ。この試練を乗り越えて、聖女としての心の在り方を身につけろと言われているのではないか。 (きっと、そうよ)  動揺をしているのは、覚悟が決まっていないから。元・婚約者が別の女性と結ばれる姿を見て、心がざわめいているからだ。  なんともないと理性で考えていても、深層の部分では落ち着いていない。だから心が乱れて、ラコットの申し出に揺れてしまっているのだ。 (そう。私は、揺れている)  まずは認めることだと、アリナは目を閉じて深くゆっくりと呼吸を繰り返した。日差しを肌に感じる。風はかすかも感じられない。まっすぐに降り注いでくる太陽の祝福を受ける彼女の髪は、金の粉がふりかかったようにまばゆかった。白い肌は雲よりも澄んでいて、見る者がいればうっとりと吐息をこぼしていただろう。  だが、彼女の周囲には誰もいない。  アリナに向けられる視線は、ひとつもなかった。  それなのに彼女の心に、一対の瞳が浮かび上がる。木の葉の色をした、キラキラとまたたく美しい瞳だ。深く美しい緑の世界が、アリナの魂を誘っている。やわらかな苔に似た、ふんわりと包み込まれるであろう予感を、しっとりと感じさせられる瞳に胸が疼いた。  ぽってりとした花びらみたいなアリナの唇が薄く開いて、焦がれるような吐息が漏れた。  緑の輝きに身を投じたい。  幻の腕に腰を抱かれる。  揺るぎのない力強さと、心地よい肌のぬくもり。心をざわめかせる声が、鼓膜の内側から聞こえてきた。  ――アリナ。  もっと、名前を呼んでもらいたい。ほほえみを受けて、微笑を返し、手を取り合って豊かな大地を歩んでいく。  そんなイメージがアリナを包み込んでいる。  自然と唇が笑みの形に変化して、アリナは夢想の中にたたずんだ。  どのくらい、そうしていただろう。 「アリナ様!」  弾ける声に呼ばれて、夢の世界から現実へと引き戻される。声の主は子犬のように、満面の笑みを浮かべて駆けよって来た。 「エクトル」  柔和に相手の名前を呼べば、エクトルと呼ばれた少年がぶつかる寸前で止まった。茶色の髪と茶色の瞳を持つエクトルは、ミズーリの息子だ。まだ十歳ながらよく気のつく子で、聖女たちは皆、弟のようにかわいがっている。 「どうしたの?」 「海に小舟を浮かべるのです。それに乗せていただいて、釣りができるんですよ」 「まあ、すごいわね」 「はい! それで、だから僕……大きな魚を釣って、アリナ様に食べてもらえるよう、がんばりますね」 「楽しみにしているわ」  モジモジしているエクトルの頭を撫でると、エヘヘとうれしそうに目を細められた。心がほっこりとあたたまる。 「だから、今日はアリナ様のお話相手はできないんです。ごめんなさい」  ペコリと頭を下げられて「いいのよ」と答えると、にこっとしたエクトルは「行ってきます」と言って、また子犬のように走り去ってしまった。  見送って息をつき、彼の未来に思いをはせる。エクトルはいずれ、ミズーリの後を継いでトモロコ家の当主となる。聖女たちの世話を引き受け、王族の台所も守る重要な役目だ。当主となるのは何事もなければ十五年後。けれどエクトルは、もうすでに自分の役目を把握しており、今の自分にできる精一杯をこなそうと努力している。  聖女たちの話し相手だって、そうだ。あまり外出をしないアリナのために、彼はさまざまな話を集めて披露してくれる。アリナが彼と出会ったころ、彼はまだ赤子と子どもの狭間にいた。そのころから聖女たちにかわいがられていたエクトルは、物心がつきはじめると自分から文字の勉強をはじめ、色々なものに興味を持ち、トモロコ家の次期当主としての自覚を小さな体いっぱいにみなぎらせて、がんばっていた。  ここに来たばかりのころ、彼の存在にどれほど慰められたことか。  今はもう、寂しさを感じていた当時のことが、遠い昔……それこそ、前世での出来事かと思うほどに、自分とはかけ離れた思い出になっている。つまりは、それ以前の思い出も遠い過去となっているはずだった。 (それなのに、どうして私は動揺をしたのかしら)  元・婚約者ブラモアの婚儀の最中に心の揺らぎはなかった。すべてが終わり、眠る直前になって、静かな寂しさに見舞われた。 (あれは、名残があったのではなく、遠い思い出を懐かしんでいただけかもしれないわ)  きっとそうだ。そうであってほしい。俗世への未練など、少しも残っていない。聖女の中の聖女と呼ばれるようになって、俗世とは違う世界で生きていくのだと決めた。民衆もそれを望んでいるから、アリナは生涯聖女になる、というウワサが広がっているのだ。 (期待に、応えなければ)  誰もがそう望んでいる。生涯聖女になるのは、名誉なことだ。誰もがなれるわけではない。  耳をすませば、ハープの音が響いてきた。空気をかすかに震わせる旋律に引き寄せられるように、足先を向ける。奏でているのは、数か月前に聖女となった少女だろう。神殿に入るとき、ひとつだけ持ち物を運び入れてもいいことになっている。彼女が持ち込んだのは、ハープだった。  壁を巡って音の出所を見ると、予想通りだった。微笑を浮かべてうっとりと弦をはじいている姿は神々しいほどだった。まだ十二歳の彼女は、白銀の髪に白い肌をしている。色素の薄い彼女の瞳は、アリナよりもずっと淡い水色だった。  誰もが彼女を、水の妖精のようだと称している。アリナも同意見だった。奏でられる旋律は、ゆるゆると流れるせせらぎみたいにやさしかった。立ち止まり、目を閉じて音楽に意識をゆだねる。  旋律はだんだんと飛び跳ねるようにテンポを上げて、大きなうねりへと変化した。勢いよく奏でられる演奏は、滝の姿を連想させる。  とめどなく流れ落ちる水と、陽光を受けてきらめく飛沫。水面を打つ力強い音と、波紋となって広がるゆらぎ。それらはやがて新たな流れとして、大地の隙間を進んで海を目指す。  ――アリナ。  ハッとして、目を開けた。周囲を見回しても、ラコットの姿はない。頭の中から響いてくる呼び声に、気持ちが揺れる。あの場所にふたたび行きたいと、誘惑が湧き起こる。  大地がぬかるみ、グラグラと揺れる感覚におちいっていると、音楽が止まった。 「アリナ様」  ハープを奏でていた少女が、恥ずかしげに頬を染めている。 「いらしていたのですか」 「ええ。すばらしい音色に導かれて」 「そんな……すばらしいだなんて」  真っ赤になってしまった少女に近づいて、膝を折った。うつむいている彼女の顔をすくい上げるように見る。 「本当よ。あなたは、とてもステキな奏者だわ。女神アナビウワトへささげる祈りに、あなたの演奏を合わせたいくらいよ」 「ですが、そんなことはいままでしたことがありません」 「そうね。だけど、あなたの音色はとてもすばらしいわ。聞く人の心を揺さぶるものがあるの。だからきっと、女神もよろこんでくださるわ」  少女は照れながら、小さく弦をつま弾いた。 「もしもそうなら、よろこんで奏でさせていただきます。でも、私の演奏は女神に届きますでしょうか」 「あなたは聖女だもの。きっと届くわ」 「でも、まだまだ未熟です。あの、アリナ様。これから、聖女の務めのこと、もっと教えていただけませんか? 順番に、急がなくてもいいと言われているのですけど、はやくアリナ様のような、立派な聖女になりたいのです」  純真な瞳の輝きに、アリナは頬を持ち上げた。 「ええ。新たな聖女を立派に育てるのは、先に務めをおこなっている私たちの役目ですもの。――では、今から祈りの間へ行きましょうか」 「はい!」  ハープを抱えて立ち上がった彼女の笑顔のまぶしさに照らされて、アリナの心に影が差した。 (私は、それほど立派な聖女ではないのよ)  モヤモヤとしたものを抱えたまま、アリナは少女と共に神殿の中に入った。  * * *  城に戻ったラコットは、自室に入ると体を投げ出すように長椅子に腰かけた。たっぷりとしたクッションが彼の体を受け止める。背もたれに腕をかけて天井を見上げて、悩みの息を吐きだした。 (アリナ)  はじめて彼女に触れることができた。想像以上にたおやかで、羽のように軽い体だった。儀式の時は圧倒されるほどの神々しさを放つアリナの、腕に包んだ時の頼りなさは情愛の炎に燃料を注いだ。  庇護欲をそそられたラコットの胸は、溶岩のように熱くドロドロと煮えたぎっている。彼女をかならず手に入れるという決意と共に、彼女とならば王としての責務をまっとうできるという確信を持った。 (王妃としての姿と、ひとりの女としての生き方を、アリナならば見事にこなしてみせるはずだ)  そんな女は、彼女のほかにいるはずはない。キスを受けてもなお、毅然としていたアリナ。彼女の高潔さは尊敬に値する。国民も、彼女が王妃になればよろこぶに違いない。 (ひとりの女として、俺は彼女を愛している)  彼女の心からにじみ出ている、身にまとう雰囲気に惹かれている。  ――もっと地位が高く、国造りに有益な相手と結ばれるべきです。 (それこそまさに、君を示す言葉じゃないか)  彼女の発言を思い出し、とっさにそう返せなかった自分に歯噛みする。聖女の中の聖女と呼ばれる彼女のほかに、誰がいるというのだろう。 (国民からの信頼も厚く、血筋としても申し分ない。容色が美しいだけで、慕われているわけではない)  清楚な高貴さ、女神に対する献身的な態度、わけへだてなく向ける笑顔のすべてが、彼女を聖女たらしめている。 (彼女が王妃になるのだと知った国民たちは、熱狂的な歓喜の声をあげるだろう)  歓声のまぼろしを聞きながら、ニンマリする。 (国のための王妃を望めと言うのなら、アリナ……それは君にほかならないと、気がつかないのか?)  心の中で語りかければ、じっとしていられなくなった。彼女を求めるだけでなく、己自身も国王としてふさわしくならなければ。 「誰か、いるか」  部屋を出て声をかければ、すぐに近衛兵がやってきた。 「外出する。今日の予定は、特になかったはずだが」 「は!」 「ひとりでいい。ああ、いや……ミズーリは昼食のための猟に、すでに出かけたのか」 「はい。その息子、エクトルは海に向かったとのことです」 「次期当主としての修練を兼ねての漁だな」  うなずいたラコットは、目的地を定めた。 「海へ向かう」  民の生活に身を投じ、王としての視点でどう治めるかを考える。国は民が支えているのだと、父王から言われ続けていた。支配階級が増上慢になったとき、国は崩壊すると。 (アリナを求めるのなら、俺は彼女にふさわしい男にならなければな)  ニヤリと頬を持ち上げたラコットは、王城の窓から見えるきらめく海に目を細めた。
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