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◆第一章 聖女の矜持と王の純真-4

 * * *  唇に触れる体温に魂をすべて奪われそうで、アリナは首をねじって顔を離した。後悔と名残が糸を引いて唇に絡みつく。目を閉じて誘惑を堪えると、深くて重いため息が頬に触れた。  背を支えられ、きちんと立たされる。彼の手は腰にあったが、さきほどまで指先から伝わってきた激しい“何か”が消えていた。  顔を見れば、彼は目を閉じて口を堅く結んでいた。眉間にはシワが寄っている。なにかを堪えているらしい。だから彼の肌から発せられていた感情が、伝わらなくなったのだとわかった。  整った顔立ちをじっと見つめていると、精悍な頬に触れたくなった。キリリと引き締まった眉と、形のいい鼻筋。意識の硬そうな唇。閉じられているまぶたの奥にある、やわらかな森の光に似た緑の瞳。  もう一度、そこに自分を映してほしい。彼に見つめられたいと、心が疼いた。心臓が皮膚を突き破って、彼に寄り添いたがっている。 (どうして)  覚えたての感情を理解できずに、アリナは胸に手を乗せて、理性から解き放たれたがっている心を抑えた。  彼のまぶたが持ち上がる。暗く沈んだ緑にドキリとした。焦点はアリナの目ではなく、鼻のあたりをただよっている。視線を掬い取りたいけれど、やり方がわからない。 「あの」  おずおずと声をかければ、苦笑を与えられた。口元に浮かんだ苦々しいものは、アリナにではなく彼自身に向けられている。  問いたいことがあるのに、言葉が見つからない。モヤモヤと浮かんでいるものは、形にならなかった。掴もうとしても指の間をすり抜けてしまう疑問に、焦燥に似た感情が湧き起こる。  どうして焦りを感じているのか。それともこれは、焦りではないのだろうか。不安とも少し違う。もどかしい、という言葉が近いかもしれない。  彼は無言でアリナの腰を引き、滝から離れた。腕から逃れるという選択肢が思い浮かばず、アリナは彼と共に滝から離れて水際に戻り、岩の上に足を乗せた。  濡れた足に、あるかなしかの風を感じる。  彼の腕は水から上がっても、アリナから離れなかった。顔は背けているというのに、抗いがたい何かと戦っているみたいだ。 「あの」  ふたたび呼びかけてみたが、やはり問いは言葉に変えられなかった。沈黙が落ちる。その隙間を、鳥のさえずりが流れていった。滝の音は変わらず響いているというのに、夜の室内よりもずっと静かに感じられる。  音があるのに、無音の世界に取り残されてしまったみたいだ。自分の体内の音だけが存在している。ドクン、ドクンと脈打つ鼓動が、鼓膜を内側から支配していた。腰にある腕からは、迷いが伝わってくる。押し込めようとしてもにじみ出てくるなにかが、アリナの肌をくすぐっていた。 「あの」  また、呼んでみた。彼は何も言わない。 「どなた、でしょうか」  基本的な問いが、口をついて出てはじめて、アリナは彼が誰なのかを知らないままだったのだと気がついた。驚いた彼の目がアリナを映す。その瞬間、とてつもなくホッとしたのは、どうしてなのか。 (私を、認識してくれている)  うれしかった。彼に、ここにいるのだと知ってもらえたことが、この上もなくうれしい。 (どうして)  自分の存在に目を向けてもらえることが、うれしいだなんて奇妙だが、胸をよぎったのはまごうことなく“よろこび”だった。 「俺がわからないのか」  ささやきに似た独白にうなずけば、そうかと吐息を漏らされた。彼はアリナから手を離し、まっすぐに向き合って背筋を伸ばした。視線を持ち上げて、彼の目を見つめる。緑の瞳は濃い光を放っていた。 「俺の名は、ラコット。ラコット・アリノルだ」  聞き覚えがあるだろうと言外で告げられて、彼の名を噛みしめながらうなずいた。 (次期国王……だから、見覚えがあったのね)  彼の誕生日は毎年、儀式がおこなわれる。その時に幾度となく姿を互いに目にしていたはずだが、聖女であるアリナは目を伏せていたので、しっかりと顔を覚えていなかった。 「三年後、俺は王位を継承する。そのときに、王妃もまた誕生する」  しきたりは知っていると、うなずきで示した。 「来年の誕生日には、未来の王妃を決めておかなければならない」  王妃として立つための、養育をする期間を必要とするからだ。 「有力な貴族の娘が、役目を担うのではありませんか」  自分ではないと告げれば、心に見えないナイフが刺さった。なぜ自分は傷ついているのだろう。 「役目など」  苦しげにうめいて、ラコットが首を振る。 「俺の妻は、人間として遇したい。王妃である前に、ひとりの女性……俺の妻として、扱うつもりだ」  細められた瞳は、未来の妻を見つめているのだろうか。心の内に描いている理想を見つめるまなざしに、心がざわつく。そこにいるのは誰なのか、知りたくなった。 (ああ、私なんだわ)  妻になれと言われたことを思い出して、ざわめきがときめきへと変化する。彼はまっすぐに想いをくれた。自分との未来を期待している。 (だけど、私は聖女として、女神アナビウワトに生涯をささげると誓ったわ)  婚約者が別の女性と結ばれた昨夜、そう決意をしたばかりなのだ。毅然として、彼の申し出を断らなければ。 「私は、聖女です」 「二年後には、その任は解かれる。一年あれば、王妃としての準備を整えられるぞ」  いいえと首を横に動かす。 「私は生涯を、女神アナビウワトにささげると誓いました」  ズキリと痛んだ胸から、熱くドロリとしたものが流れ出た。ジクジクと痛む胸を抑えて、誰にも分け隔てなく向ける微笑を満面にたたえる。 「ですから、いくら王太子様がお望みになられても、お受けできません」 「俺は、君以外の誰かを妻にするつもりはない」  眉根を寄せて首を振るラコットに、いいえとアリナも首を振った。 「もっと地位が高く、国造りに有益な相手と結ばれるべきです」 「俺は皇子である前に、ひとりの人間だ」 「王族にお生まれになったのならば、生涯を国のために尽くすべきではありませんか」 「それは……聖女として選ばれた自分に対する言葉でもあるのか?」  片目をすがめたラコットに、アリナは微笑で返事した。否定も肯定もしない。どちらでも、好きなように解釈してもらってかまわない。  痛む心は揺れていて、その通りだと言いきれなかった。  やりきれない思いに歯を食いしばり、うめきながら頭を振ったラコットは、傷ついた獣みたいだ。抱きしめて癒したい衝動にかられたが、手首に爪を立てて堪えた。 (気持ちが弱っているんだわ)  漠然と抱えていた未来が、婚約者の婚儀を執り行うことで泡のように弾けて消えた。だから動揺をしているのだと、結論づける。聖女として心身ともに清らかに、女神に尽くしているのだと思っていたが、心の奥では年頃の娘らしい願望を抱えていた。  昨夜のおだやかな悲しみも、唐突に沸き上がった恐ろしい感覚も、きっとそれが原因なのだ。 (私は、聖女を終えて人の妻となり、家庭を築くことを心の奥では望んでいたのね)  あるいは、そうなるものだとおぼろげに決めつけていたのではないか。婚約解消の知らせを受けたときは、なんとも感じなかったのだが、元・婚約者の婚儀を目の当たりにして、ようやく実感が持てたのだ。 (だから、動揺してしまった)  今、この胸にある不可解な感情も、それに起因するものだと決めつけてラコットを見つめる。  愁いを含んでもなお澄んでいる緑の瞳の奥に、強い決意がきらめいていた。 「あきらめるつもりはない」 「……え」 「俺は、かならず君を妻にする」  手を取られ、甲に唇を押し当てられた。心が震えたのは、彼の瞳が圧倒されるほどの想いを浮かべていたからだ。 「君以外に妻はいらない」  小さな声は、草木を轟かせるほどの大音量として胸に響いた。 「俺の妻に、なってくれ」  ゴクリと喉を鳴らして、彼を見つめた。緑の瞳は底の知れない深い森に変貌していた。足を踏み込めば、二度と帰っては来られない。 「私は……聖女です」  かすれる声は、全身の力を振り絞ったものだった。少しでも気を抜けば、彼の瞳に呑み込まれてしまう。  体が小刻みに震えて、逃げ出したいのに体はピクリとも動かなかった。永遠とも思える時間が流れて、先に視線を外したのはラコットだった。  緊張を抜くような吐息を漏らして目を伏せる彼は、何を張り詰めていたのだろう。 「もう少し、ここにいるか?」  滝に顔を向けた彼につられて、水音に目を向ける。美しく輝く滝は、ふたりのやりとりなど気にするふうもなく水しぶきを舞わせている。清涼な景色に心を試されている気がして、恐ろしくなった。 「戻ります」 「そうか」  手を取られれば、火花を感じた。指先がピリピリして、彼の表情をうかがったが変化は見られない。自分だけが感じているのだと、足元に目を落とした。濡れた足に木の葉がついている。歩いているうちに渇くだろう。  惜しい気がして滝を振り向けば、「気が変わったのか」と声をかけられた。 「いいえ」  また、ここに来たい。帰りはしっかりと道を覚えていようと、アリナは顔をまっすぐ持ち上げた。  * * *  無言で森を抜ければ、アリナはすぐにラコットの手をすり抜けて去ってしまった。礼の言葉はなかったが、深々と頭を下げられた。永遠にお別れだと言われた気がして、抱きしめたくなったが、彼女を警戒させるだけだと腕に力を入れてとどめた。 (俺の気持ちは、まったく通じなかったな)  口の片側を持ち上げて自嘲しながら、去っていく彼女を見つめる。なよやかで華奢な体のどこから、あれほど強い決意が生まれてくるのだろう。  かすれた声ではあったが、きっぱりと断られた。自分は聖女だと言い切った、気高い彼女のまなざしは空よりも青く澄んでいた。 (美しいな)  姿が建物の影に隠れて見えなくなった。振り向いて、森を見つめる。青々とした緑の葉をゆらめかせる森の上に、広い空が広がっていた。太陽の明かりを広げて地上に下ろす青空は、木の葉のずっと高みにあった。山頂の一番高い木に登って手を伸ばしたとしても、けっして届くことはない。 (俺の手も、彼女に届かないのだろうか)  繋いでいた手に目を落とし、軽く握ってみる。すべらかな肌の感触が指に残っていた。腕には、細い腰の感覚があった。 (俺の手は、アリナに届く)  うんと伸びをして大きく広がり、空の輝きを受けるだけの木の葉とは違う。姿が見えなくなった彼女を求めて、手のひらから神殿に視線を移した。  情動のままに彼女を奪いたくなった。必死にこらえていたことを、彼女に悟られはしなかったろうか。気を緩めれば豪雨となって彼女を覆いつくそうとする想いの強さに、我ながら戦慄する。それほどまでに想っていながら、よくぞ今まであきらめられると考えていたものだと、自分を正しく把握できていなかったことに呆れた。  彼女の婚約が解消され、元・婚約者であるブラモアが妻を得た理由は、アリナは生涯聖女になるのではと、真実の決定事項のごとくウワサが広まっていたからだ。 (あれは、アリナが本心からそう望んでいると、誰かの口から漏れて広まったのか?)  生涯聖女になれる聖女は、めったといない。以前の生涯聖女が没したのは、八十七年前のことだ。彼女は美しい金髪と海のように深い瞳をしていたらしい。 (アリナは、空色の瞳だ)  共通点を人々は見出したのだろうか。アリナ自身も、その話を聞いて自分もそうなりたいと望んだのだとしたら、決意をいつ固めたのか。 (いや。まだ、そうと決まったわけじゃない)  彼女の口から、生涯聖女になると聞いたわけではない。アリナはただ「私は聖女」と言っただけだ。 (今は、聖女だ。だが、あと二年でその任は解かれる)  アリナの不思議な清らかさ、儀式に臨むときの荘厳な雰囲気は、女神が乗り移ったと錯覚してもおかしくはない。それがウワサの元となって、人々の口の端を渡り歩いているうちに、まことしやかにささやかれるようになってしまっただけの可能性もある。 (ウワサに彼女が揺らいでいるとも、考えられる)  なんにせよ、卑怯なことをしたと彼女の姿が見えなくなって、冷静さを取り戻した心に手を置き、ラコットは物憂い息をこぼした。  涼やかな態度をしてはいたが、内心は動揺していることだろう。婚約破棄をされただけでも、相当な衝撃だったはずだ。そこに、元・婚約者の婚姻の儀式を任されたのだから、心中が乱れて当然だ。  昨夜、ひとり丘にたたずんでいたアリナの姿を思い出す。彼女は、しんみりとした空気をまとっていた。自分の想いに突き動かされ、性急に唇を奪った己を恥じる。 (何が、ひとりの女性として扱うつもり……だ)  彼女の気持ちを無視して、情愛という欲望に押し流されておきながら、よくも言えたものだなと自嘲する。きっと彼女は、そんなラコットに気がついていたのだろう。だから申し出を受けなかったのだ。 (時間をかけて、丁寧に俺の心を伝えなければ)  気を抜けば、手がつけられなくなるであろう激情を抱えて、ラコットは愛しい人の残滓を取りこぼさないよう、ゆっくりと指を畳んだ。
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