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◆第一章 聖女の矜持と王の純真-3

 * * *  朝日を受けた水が白く輝いて舞い落ちていく。川のせせらぎよりも力づよい音を立てて、豊かに流れる水の姿にアリナは心を奪われた。 (なんて、清涼な……)  これほど美しい景色があったのかと、目を大きく開いて網膜に焼きつける。緑の影が水面に揺れている。空を映した中心に、白い水しぶきを立てて清らかな水が流れ込んでいた。まさしく命を育み育てる姿だと、滝の姿に女神の心を見つけたアリナは、感激に打ち震えた。  足を踏み出せば、つま先が水に入った。気にせず前に進んで、足首までを流れに浸す。滝つぼから広がってくる水の動きはゆるやかに、アリナの足首をくすぐった。ひんやりとしているが、気持ちをあたたかくしてくれる、愁いを洗い流してくれる水の心地に深呼吸をすれば、土と緑の香りよりもずっと深い水の匂いが体に沁みた。 (ああ)  魂で感嘆の吐息を漏らし、アリナはそのまま先に進んだ。意識はすべて滝に奪われている。ふらふらと前に進む足元が、ふいに水底の感覚を捕らえ損ねた。 「あっ」  体が沈む。そのまま滝つぼに呑まれるのかと思った体は、力強い腕に支えられた。我に返って振り向けば、眉間にしわを寄せた青年がいる。腰にしっかりと、彼の腕が回っていた。 「ここから先は、水深が深い。泳ぐことになるが、できるのか?」  目をぱちくりさせて、ゆるゆると首を振る。泳いだことなどない。ほっと息をついた青年が「よかった」とほほえんだ。悲しげな気配のある微笑に、アリナの心臓がドキリと跳ねた。急に彼の体温が気になりはじめ、たくましい腕や肩に触れている胸筋に意識が向いた。  自分とは違う体は、大地のように力強く、太陽みたいにあたたかい。なよやかなアリナを腕の中にすっぽりと包んでしまうほど、大きくたくましい彼の存在をはじめて正確に認識すると、首筋が熱くなった。 「滝に近づきたいのなら、こちらから回りこめる」  青年はアリナを支えたまま、慎重に移動した。迷いのない足取りから、彼はここに幾度も来ているのだとわかった。  足元に力が入らない。彼に支えられていなければ、水に沈みそうだ。 (私、どうして)  心がぼんやりしてしまっている。彼に触れられている箇所がなければ、自分の形を見失ってしまいそうだ。それなのに心臓は先ほどから、ドクドクとうるさいほどに存在を主張していた。  今まで、こんな感覚に見舞われたことはなかった。 (いいえ……似たものを、感じたわ)  昨夜の感覚を思い出して、小さく身震いすると彼が足を止めた。 「どうした」  なんでもありませんと言おうとしたが、声は喉から出てくれなかった。ちいさく首を振れば、腰にあった腕の位置が変わり、横抱きに持ち上げられた。 「あっ」 「朝の水は、とくに冷たいからな。足首から冷えたんだろう」  軽々と持ち上げられたアリナは、おそるおそる彼の肩に手を乗せた。ビクッと彼の体が震えて、あわてて手を離す。触れてはいけなかったのだろうか。 「ああ、いや……なんでもない。落ちないように、しっかりと俺をつかんでいてくれ」  うなずいて、そうっと彼の首に腕を回した。今度はビクリとされなかった。先ほどよりもしっかりと、彼の体温が布越しに伝わってくる。  体にぴったりと寄り添う薄い布のドレス姿であることが、にわかに恥ずかしくなってきた。儀式の時は、これに刺繍の入った紫のケープを羽織る。出かける時は、外出用のフード付きケーブだ。神殿の周囲であれば、ドレス姿のままで移動する。人前で恥じる格好ではないのだが、自分の体格がはっきりとわかる格好が恥ずかしくてたまらない。 (私は、どうしてしまったの?)  彼が異性だからだろうか。しかしそれなら、神殿の世話をしているトモロコ家の者たちはどうなる。今朝、ミズーリと会話を交わしたときは、なんともなかった。彼とは触れ合わなかったからか。異性に触れられることが、聖女になってから皆無に等しいからかもしれない。 (きっと、そうだわ)  落としどころを見つけて安堵する。けれど心はさわがしいままだった。慣れていないから、落ち着かないだけ。普段にないことだから、緊張をしているのだ。 (滝の姿に心が震えていたから、余計に動揺をしてしまっているんだわ)  なんでもないことだと自分に言い聞かせて、頬を広い肩に乗せた。安定感のある体つきに身をゆだねていると、滝の水音がうんと近くに迫ってきた。 「アリナ」  名を呼ばれれば、じんわりと胸が熱くなった。腹の底から震えが起こり、全身をやさしく包む。不快ではない身震いがあるなんて、知らなかった。彼にもっと名を呼んでもらいたい。この震えを、もっと味わっていたかった。 (本当に、私……どうしてしまったの)  心とは別のところで、理性がとまどっている。青年はためらってから、アリナを下ろした。残念に思ったが、腰を掴まれ支えるように体を添わされてうれしくなった。そんな自分の気持ちにも、疑問が浮かぶ。 「俺の、気に入りの場所なんだ」  先ほども聞いた言葉を、彼はまた、今度はしみじみと口にした。目じりをとろかせた笑顔は、陽光よりもキラキラとしてまぶしかった。目を細めて、彼の顔をじっと見つめる。舞い飛ぶ水のしぶきが、朝日を反射させて彼をより輝かせていた。自分もそうなっていればいいと願ったアリナの頬に、冷たい水の細かな粒が降り注ぐ。  彼に、美しいと思われたかった。  しばらく見つめていると、顔が自然と近づいた。そうなることが当然のように唇が重なり、アリナは細めた目で青年の緑の瞳を見つめた。  みずみずしい若葉に似た瞳は、艶やかに濡れ光っている。森で空を見上げたときと、おなじ景色が広がっていた。なんて心地のいい風景を閉じ込めている瞳なのかと、魂がふんわりと広がって彼の目の中にいざなわれた。  やわらかく、唇が重なっては離れてを繰り返す。何かを確かめるような動きに、アリナの心はますますとろけた。ゆったりと湯桶に浸かって、なにもかもを忘れてくつろいでいるときに似た感覚に包まれる。 「ぅ……ふ」  かすかな呼気を漏らすと、それを拾った唇から、命を思わせる熱い吐息が返された。  互いの体を巡った息の交換をしているうちに、ゾワゾワと艶やかなわななきが肌に広がった。骨の芯からふつふつと熱が生まれて、体のあちこちが炙られる。熱っぽくなった息がこぼれると、唇が離れた。 「アリナ」  先ほどとは違った、蠱惑的な響きの声にめまいがした。揺さぶられた理性が「いけない!」と叫んでいる。 「俺の妻になれ」  何を言われたのか、瞬時には把握できなかった。 「俺の、妻になるんだ」  今度はゆっくりと、子どもに言い聞かせるように告げられる。耳に届いた音が言葉となって、意識に沁みた。意味を理解したアリナは、衝動的に彼を力いっぱい突き飛ばしていた。 「あっ」  足元が崩れて、倒れそうになる。水に落ちる自分をイメージしたが、そうはならなかった。彼の腕がしっかりとアリナを支えている。 「アリナ……君を待つ人はもういない。ならば、俺の妻になるのに何の問題もないだろう」  真剣なまなざしから、目をそらせることができなかった。 「俺の妻になれ」  命令口調であるのに、彼はどこか悲しそうだった。心が切なく疼いて、下唇を噛む。 「わ、私は」  女神アナビウワトに生涯をささげると、誓いを立てたばかりだと心でつぶやく。昨夜のあの奇妙な感覚は、これの予兆だったのか。  恐怖とも期待ともつかない、不思議な感覚がよみがえる。彼の瞳に魂の端が捉えられている。それを引きはがそうと、理性が賢明に叫んでいた。あなたは、女神アナビウワトの聖女なのだと。 「私は……聖女です」  毅然とした声を出したつもりが、弱々しく頼りないものとなった。震える声には迷いが含まれていた。彼はそれを察したらしく、緑の瞳を曇らせる。 「二年後には、任期を終える」  やわらかくなった彼の声は、湿り気を帯びていた。愁いを帯びた緑の瞳は、雨の日の木の葉みたいだ。しとしとと彼の心に振る雨は、なんという名前なのだろう。  寄り添い、傘を差し出したい。あるいは、共にその雨に濡れていたい。  彼の顔が近づいてくる。自分の感情を持て余して、困惑するアリナの唇が、ふたたびやわらかく押しつぶされた。  * * *  滝のしぶきを浴びるアリナの姿は、森に祝福された女神のようだった。輝く金色の髪に空色の瞳。白い肌はわずかに上気して、赤みが差すことで透明感を高めている。この世のものとは思えぬほどに、美しかった。 (愛おしい)  誰にも渡したくはない。女神アナビウワトであっても、彼女を渡したくなかった。  こらえきれなくなって、キスをした。彼女は目を開けたまま、じっとこちらの真意を探るかのように、瞳の奥に視線を向けてきた。真心をむき出しにして、ラコットは彼女を見つめ続けた。  壊さないように、慎重に唇を重ねては離し、また重ねた。彼女の瞳が濡れてくる。受け入れてくれているのだと、心がふっくらとよろこびにあたたまった。  たまらなくなって、想いが口をついて出た。 「アリナ」  彼女の名前に気持ちを乗せれば、望みが喉からあふれ出た。 「俺の妻になれ」  名乗りもせずに、なんて傲慢な物言いをするのかと自分に呆れながらも、止められなかった。 「俺の、妻になるんだ」  アリナに言いながら、自分に誓いを立てるように、一言一句、ゆっくりと発音した。  ハッと目を見開いた彼女に、思い切り突き飛ばされる。だが、彼女の力ごときで揺らぐほど、ラコットは弱くなかった。自分の力で膝を崩したアリナを抱きかかえ、噴き出してしまった想いを音にする。 「アリナ……君を待つ人はもういない。ならば、俺の妻になるのに何の問題もないだろう」  おびえたように、アリナはじっとラコットを見つめた。 「俺の妻になれ」  最上位の聖女として、紫のケープを与えられた彼女にとっては侮辱に聞こえたのか。アリナは下唇を噛んで、うめくように返事をした。 「わ、私は」  瞳が揺れている。だが、視線は逸れなかった。 「私は……聖女です」  弱々しく、頼りない声音だったが、毅然とした雰囲気があった。こんなふうに迫られたことがないので、純粋に恐怖を感じているのだろう。おびえさせてしまったと反省しながらも、彼女を離す気にはなれなかった。 「二年後には、任期を終える」  そうなってほしいと願いながら伝えれば、胸が苦しく、切なくなった。拒否の言葉を聞きたくなくて、顔を近づける。そっと彼女の唇を自分の口でふさいだラコットは、せき止めていた想いは、もう二度と抑えることはできないのだと悟った。  閉じ込めていたせいで、これ以上ないほどにふくらみきってしまった恋しい気持ちが、うなりをあげて激しい流れを生み出している。  このまま、この場で彼女のすべてを奪い去ってしまいたい。
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