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◆第一章 聖女の矜持と王の純真-2

 * * *  夜のとばりを太陽がゆっくりと押し上げて、小鳥たちがさえずりだしたころに、聖女たちは目を覚まして務めをはじめる。  寝台から出たアリナは身支度を整えて、女神に献上するための朝食を受け取りに厨房に出かけた。そこには神殿に代々仕えている料理番の一族がいる。彼等が調理したものを、聖女は神殿の奥にある女神の祭壇へと運び、昨日までの安らぎと今日の安寧を願うのだ。  厨房に顔を出したのはアリナのほかに、同年に聖女となった娘がふたり。料理番のトモロコ家は、女神の食事だけでなく聖女や王族の食事、催事の際の食膳を整えることもする。  広い厨房できびきびと立ち働いている者たちが、聖女の来訪に気づいて頭を下げた。 「おはよう、ミズーリ」  トモロコ家の家長、ミズーリに声をかけたアリナは彼が準備をした食膳に目を向けた。準備はすっかり整っている。主の膳はアリナが、飲み物の壺と果物の皿は別の聖女が手にして、しずしずと女神の祭壇に運び入れた。  女神像の前に膳を置き、ひざまずいて指を組み、祈りをささげて場を後にする。  窓から、紫がかった明るい光が差し込んできて、石造りの柱を美しく染めていた。 (今日も、いい天気になりそうね)  微笑を口元に刷いたアリナは、食堂へ入った。聖女たち総勢十二人がそろってから、食事ははじまる。  トモロコ家の者たちが料理を運び、感謝の祈りをつぶやいてスプーンを手に取った。 「アリナ様、今日はいかがなさいますか」  ミズーリに声をかけられ、少し考えてから返事をした。 「お昼は、こちらでいただくわ」 「わかりました」  にっこりとしたミズーリは、よく日に焼けた肌をした青年だ。ぱっと見は細長く頼りない樹木を思わせる体つきだが、見た目とは裏腹に力持ちでしなやかな動きができる。神殿に出入りができる男はトモロコ家の者のみなので、彼は聖女たちの護衛でもあるのだった。 「ですが、予定がなにか入りましたら、遠慮なく申しつけてくださいね」 「ええ、ありがとう」  聖女の務めは、朝夕の女神への食事の提供と平穏の祈りのほかに、希望のあった貴族を迎えて女神へ願いを伝える手助けをしたり、招かれて祈りをささげたりもする。それらがない場合は、王都をそぞろ歩いて女神の加護が行き渡っているのかを確認し、町の者たちと交流をしたりして、神殿へ戻り女神に見聞きしたものを伝えていた。  聖女は貴族でありながら、庶民ともわけへだてなく接する。だから外出をするときは、貴族の屋敷から送迎の馬車が送られてきた、という場合でないかぎり、万が一のことがないよう、護衛がかならずついていくことになっていた。 「今日は、神殿から出る予定はないのよ」  うなずいたミズーリが下がり、アリナは食事の続きに戻った。  食べ終えて席を立つと、神殿の裏の丘に向かった。ようやく姿を現した太陽が、地上を明るく照らしている。丘の草はみずみずしく輝いているが、森にはまだ朝もやがかかっていた。  森に近い場所で息を吸うと、ひんやりとした湿度のある空気が肺に満ちた。体の中の不浄なものが清められ、排出される心地になる。胸のふくらみに指を乗せて目を閉じると、奥にある自分の魂に意識を向けた。  昨夜、ふいに襲ってきた得体のしれない感覚は欠片も残っていない。気のせいだとは思えない、あの感覚の正体はなんなのか。知りたくて訪れたのだが、名残は見つけられなかった。  目を開けて森の奥に視線を向ける。女神アナビウワトの懐だと言われている森に、足を踏み入れたことはない。豊かな食材と多くの危険を含んでいる森には、知識を持っている者、あるいは、その知識を継承する者しか入れなかった。  ミズーリとともに入れば、ある程度の場所までは行けるかもしれない。  なぜかアリナは、聖女になってからこれまで感じたことのない情動に、背中を押された。どうしても森に入ってみたい。昨日の予感に近い何かが、森に隠されている気がしてならなかった。  どのくらい森を見つめていただろうか。  朝もやが消えて、森の木々の先まで視界に映るようになったころ、足音が聞こえた。振り向けば、どこかで見たことのある青年が立っていた。 (どなただったかしら)  よく思い出せない。聖女となる前に会った人だろうか。それとも、聖女となってから顔を合わせた人だろうか。儀式のときに、聖女は人の顔を直視してはいけないと言われている。まなざしはあくまでも女神にのみ向け、心は女神のみを映すようにと言われている。だから、視界に入る人々の顔は、なるべく意識から外すように努めていた。 「森に、入りたいのか」  青年が声をかけてきた。よく通る声は、耳心地のいい中低音だった。青味がかった黒髪に、緑の瞳。肌は、ミズーリほどではないが日に焼けて健康そうだ。宵闇の森みたいだと、やさしい気配を感じて自然と口元がほころんだ。 「森に入りたいのなら、付き合おう」  首をかしげれば、手を差し出された。 「深い場所まで、とは言わない。景色の美しい場所があるんだ。それほど遠くはない。一緒に行かないか?」  不安をにじませた笑顔に、アリナの手は無意識に吸い込まれて彼の手を掴んでいた。はにかんだ青年と共に、森に足を踏み入れる。 (わ、ぁ……っ)  森に入ったとたん、違う世界に迷い込んだ気になった。足裏から伝わってくる土の感覚は、ふんわりとしていて雲の上を歩いているみたいだった。匂い立つ土の香りと、どこか甘い木の葉の匂い。朝もやは晴れてはいるが、まだ湿り気を残している空気に包まれて、雲の上を歩いているかのように、周囲を見回しながらゆっくりと足を動かす。  青年は急かすことなく、緩慢なアリナの歩みに合わせていた。見上げれば折り重なった木の葉の隙間から、真っ白な光が目を刺すような強さで降り注いでくる。濃淡のある緑の葉裏は、あるかなしかの風にかすかに揺れて、アリナの体に不思議な模様を描いていた。  ちらちらと服の上に揺れる葉陰に視線を落として、クスクス笑っていると幼い少女のころに戻った気分になった。  聖女という立場も、今後はどうなるのかということも忘れて、ただ“今”だけに目を向けて、アリナは青年と手を繋いで森の景色を、空気を、全身で楽しんだ。  * * *  彼女に会いたくなったラコットは、朝食の後に神殿を訪れた。呼び出すための理由はなかったので、ひと目だけでも姿を見ることはできないかと、神殿の周囲をぐるりと巡り、丘に到着した。 (ああ、アリナだ)  丘の上に彼女の姿を見つけて、足早に上っていく。何をしているのかはわからないが、邪魔をしないよう気配を殺して近づいて、森に向かって名目している姿を見つめた。  祈りをささげているのだろうか。  清らかな姿に魅入っていると、彼女は森の奥に視線を向けた。迷っている気配を察して、足音を立てて近づく。振り向いたアリナに手を伸ばして、森へ誘うと彼女の手はラコットに伸ばされた。  触れ合った瞬間、雷に貫かれたような衝撃が走った。心臓が熱く弾けて、肌にはビリビリと痺れに似たものが這っている。こちらの様子に気づいたふうもなく、アリナはおだやかな笑みを浮かべていた。  想い続けていた相手と手を取り合って森に入る。  その事実にあらためて胸を震わせたラコットは、彼女を森へと導いた。おそらくはじめて足を踏み入れたのだろう。目を丸くして、瞳に映るものをあますところなく味わおうと、無心に周囲を見回すアリナの歩みは、幼児のように遅かった。  視界だけでなく、全身で森を味わう彼女は、ラコットの存在など忘れてしまったのではないかと思うほど、熱心に周囲に目を向けたり見上げたり、何がそんなにおもしろいのかクスクス笑ったりしている。  たわいないことに触れて、よろこんでいる子どもそのままの、少女らしい反応がとてもまぶしい。なんて清らかな女なのかと、ラコットの胸は甘く疼いた。 (愛おしい……な)  想いを噛みしめるラコットの指に力がこもる。ビクッとしたアリナが、目をぱちくりさせた。 「はぐれたら、大変だからな」  なるほどとうなずいたアリナの指にも、力が入った。しっかりと指を絡めたふたりの姿を、見とがめる者はここにはいない。彼女の立場を考えれば、それはとてもいいことなのだが、誰にも知られないことが、ラコットは少し残念だった。 (子どもっぽいな、俺も)  苦々しく己のあさましい気持ちを笑い飛ばして、アリナの足を連れて行きたい場所へと導く。そこはラコットのお気に入りの場所だった。彼女も気に入ってくれるといいのだが。  流れる水音が近づいてくると、アリナの視線は音の方角へ定められた。森にはじめて入ったらしい彼女は、おだやかな川の流れしか聞いたことがないだろう。驚くに違いないとほくそ笑んで、急きそうになる自分を押さえつける。このあたりは木の根が張り出しているし、大きな岩もそこここに散見できる。万が一にも彼女が足を取られてしまわないよう、慎重にならなければ。  森に入ってからずっと、アリナはひと言も発していない。だからラコットも話しかけなかった。全身で未知の森を味わっている彼女の、邪魔をしたくなかったからだ。  だが、木々を抜けて視界が開けた瞬間、彼女が歓声とも悲鳴とも取れる高く細い声を上げたとき、口を閉じていられなくなった。 「俺の気に入りの景色なんだ。美しいだろう?」  目の前には、ラコットよりも背の高い崖の上から、勢いよく流れ落ちる水の姿があった。それを受ける滝つぼには白い泡が立っている。ふたりが立っている足元の水深は浅く、手のひらサイズの角の取れた石が見えていた。 「日の差し加減によっては、あそこに虹が浮かぶんだ」  残念ながら、今は虹のかかる角度ではなかった。だが、朝日を浴びて輝く水の流れは、充分に美しい。何度も見ているラコットでも、ため息をこぼすほどなのだから、はじめて目にしたアリナには、すばらしい光景のはずだ。  立ち尽くし、無言になってしまったアリナを横目でうかがうと、彼女は目も口もポカンと丸くして、圧倒されていた。身動きすら忘れている彼女の頬に、赤みが差している。空色の瞳はキラキラと輝いていて、気に入っているのだと伝わった。 (連れてきてよかった)  彼女と並んでこの景色をながめる日が来ないかと、どれほど望んできたことか。片恋の期間に浮かべた夢想を現実にできたよろこびを、ラコットは静かにかみしめてアリナを見つめた。
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