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◆第一章 聖女の矜持と王の純真-1

 おだやかな悲しみ、というものがあるなんて知らなかった。  アリナ・モナミスは女神アナビウワトの神殿の裏にある、小高い丘の上で空を見上げていた。いまは漆黒の闇が世界を包み、それをわずかでもゆるめようと星々がまたたいている。星々の寄り集まっている、天上の川のあたりは闇が薄れて藍色になり、しらじらと淡く発光していた。流れはアリナが見つめる空の先を区切る森の木々に引っかかって、途切れてしまっている。その向こうには何があるのか、アリナは知らない。  王都の奥深く、王城よりずっと奥にしつらえられている神殿からは、王都の先にある海の姿までもが一望できる。けれどアリナは、海に背を向けて山のうねりに向かっていた。  女神アナビウワトは、山の向こうから現れて人々を照らし、迷いを消して導いてくれるからだ。  そっと胸に手を当てて、まぶたを伏せたアリナは自分の抱えている不思議な悲しみ、寂しさに似たものの原因を探ろうとした。 (どうして……それほど深く想っていた方ではないというのに)  親同士の決めた許嫁。子どものころ、よく顔を合わせて無邪気に遊んでいた幼馴染。恋をするより先に、婚約者だと紹介された相手が、別の女性と結婚をした。祝福の儀式を執り行ったのはアリナと、彼女とともに女神の聖女に選ばれた若い娘たちだ。 (私は、待っていてほしかったの?)  ブラモア・マリス伯爵は、アリナが聖女の務めを終える二十歳まで待たなかった。二十歳を超えても、聖女の任から解かれることはないかもしれない、とウワサをされていたからだ。  あと二年。  短いようだが、家督を継いで領地を治めていくとなると、二年という月日は長くもあった。そもそもアリナが聖女に選ばれたのは十二の年だ。そこから数えれば六年も経っている。彼が別の女性と恋に落ち、将来を約束するには充分な時間があった。  ブラモアと最後に言葉を交わしたのは、聖女になる前夜だった。彼ははにかみながらも真剣な表情で、アリナの務めが無事に終わるように願っていると言った。そして役目が明けた暁には、幸福な家庭を作ろうと。  果たされなかった約束に思いをはせて、息の塊を吐き出すと目を閉じた。恋しいわけではない。時間の流れと約束が、切なく感じられただけだ。 (私は、聖女だもの)  色恋を覚える前に神殿に入り、日々の務めを果たしてきた。こちらでの生活と聖女であるというプライドが、すっかり身に沁み込んでしまっている。それなのに、どうして一抹の寂しさを感じてしまったのだろう。 (まだ、聖女としては未熟だということね)  クスリと口元に笑みを浮かべて、ゆるゆるとかぶりを振る。神殿に戻ろうと山に背を向けて、歩きはじめたアリナの耳に草を踏む音が届いた。自分よりも重いそれに歩みを止めると、足音も止まった。歩きだすと、また聞こえる。誰かが近くに潜んでいるのだ。 (いったい、誰が)  王城の敷地内には決められた階級の者しか立ち入りは許されていないが、神殿のあたりは誰もが自由に行き来できる。深夜に森に入る人間がいるとは思えないが、許可を持っている猟師は奥の山中に入ることもあった。足音の主は、そういった人物なのか。あるいは女神に祈りをささげるため、訪れた人物なのだろうか。  しばらく待ってみたが、足音は動かなかった。ふたたびアリナが歩を進めれば、足音がまた聞こえてくる。こちらの動きに合わせているらしい。 (どうして)  周囲にぐるりと首をめぐらせてみたが、人影は見えなかった。闇に姿が沈んでしまっているのかもしれない。恐怖は感じなかった。ほんのりと感じる視線はやわらかく、敵意は感じられない。手負いの獣が救いを求めているような気配があった。 (私に、祈りを頼みに来たのかもしれないわ)  しかし、それを言い出せずに迷っているのだと考えて、アリナは足音の主が声をかけてくるのを待った。 (私から声をかけて、おびえさせてはいけないもの)  どんな人物なのかはわからないが、こんな時間に女神に祈りを捧げようと考えているのなら、人にあまり知られたくないに違いない。ひっそりと様子をうかがっている相手から声をかけてくるまでは、待っていよう。  立ち止まって空を見上げて深く息を吸い込めば、先ほどまで胸に絡みついていた静かな悲しみは消え去った。聖女としての矜持が体の隅々にまで満ちている。  婚約者が別の女性と結ばれたことは、よかったのかもしれない。このままずっと、聖女として一生を終えることができるなら、とても名誉なことだ。自分には合っていると口許に笑みをただよわせて、こちらをうかがっている相手が現れるのを待つ。  星々のきらめきはまぶしいほどで、アリナの見事な金色の髪を淡く発光させている。透けるような白い肌を、より白く見せている闇は静穏を保っていた。夜は恐ろしいものではなく、安らぎをもたらすものだ。この国の――地上の生きとし生けるものすべてが、心地よい安堵の腕に包まれますように。  自然と祈りの形に指を組んで、月のない星夜を見つめる。月のない日は、はじまりを意味する。何かをはじめる場合は、朔の日が最良とされていた。元婚約者のブラモアが結婚と共にマリス家の当主となるには、最適の日だ。アリナの両親は複雑な気持ちだろうが、ふたりの承認があったから、ブラモアはアリナとの婚約を解消できた。 (お父様とお母様は、私がこのまま聖女として一生を終えることを、お望みなのかしら)  朽ちるまで女神アナビウワトに仕え続ける聖女は、国王と同等あるいはそれ以上に尊い存在として扱われる。たぐいまれな美貌と青空色の瞳を持つアリナは、神の使いにふさわしいと幼少期より言われてきた。そんな娘が、永久の聖女として務めたとなれば一族の誉れでもある。モナミス家は伯爵という地位以上の栄誉を向けられることだろう。  フフッと微笑を口許にただよわせて、俗世的な考えを体の中からこぼしたアリナは、あと二年で務めを終えたいのか、このまま務め続けたいのかと自分に問うた。  答えは出ない。  どちらにもなりたくて、どちらでもよかった。 (すべては女神アナビウワトの心のままに)  自分の内側から意識を現在に引き戻せば、いつのまにか視線を感じられなくなっていた。それほど強いものではなかったから、気配を取りこぼしただけかもしれないと意識を研ぎ澄ませてみたが、すこしも感覚に触れなかった。 (あきらめて、帰ってしまったのかしら)  聖女の中の聖女と呼ばれているアリナに、声をかけたくとも気が引けてしまったのかもしれない。自分としては、特別な存在という気はしていないのだが、世間的にはそうではない。周囲の評価に包まれて、遠慮をしたのだと結論づけたアリナは後ろ髪を引かれながらも神殿に戻り、自分の部屋を目指した。  石造りの廊下に、やわらかな布製の靴の音がかすかに響く。歩くたびに体に絡み、まとわりつく薄く軽いドレスはひっそりとした衣擦れを発している。  星の光が降り注ぐ音が聞こえそうなほど、静かな夜。何かがはじまる予感が、ふいに胸を突いてきた。  ハッと息を呑んで立ち止まり、周囲を見回す。  誰の姿も見えないのに、何かがヒタヒタと自分に迫ってきている気がして肌が粟立つ。恐怖とも期待ともつかない不可解なものが、肌にかぶさってきた。 (何、これ)  自分を抱きしめて、そろそろと視線をめぐらせてみたが、ここで暮らすようになってから親しみ続けている景色しか目に映らない。得体のしれない感覚から逃れたくて、足早に自室を目指した。  神殿の最奥がアリナの部屋だった。入ってすぐの場所は応接間となっており、ぶ厚い布で区切られた先が寝室だ。部屋を区切っている垂れ幕の色は紫。最上位の聖女を示す色だった。  布をくぐって寝台に飛び込むと、毛布をかぶって体を丸めた。誰の気配もない、アリナだけの空間であるというのに、体にまとわりついた不思議な予感は消えてはくれない。 (何かが、起こるんだわ)  歓迎すべきものなのか、警戒すべきものなのか判然としない。予感は、気のせいだと思うには強すぎて、揺さぶられる心を抑えて歯を食いしばる。  朔の日は、何かをはじめるのに適している。同時に、何かがはじまる時期でもあった。婚約者であった男の結婚を執り行ったことで、自分の運命に大きな変化が訪れたのだと受け止める。 (私を待つ人は、いなくなってしまった)  心おきなく聖女として生きていける。心の奥を揺さぶるものは、きっとそれだ。 (女神アナビウワト……私をお求めになられるのですか。だとしたら、よろこんで私の命をささげましょう。この国を、地上を守るために魂のすべてを務めに使います)  誓いを継げても、胸騒ぎは収まらなかった。試されているのだと考えて、アリナは寝台から抜け出すと窓際に向かい、膝をついて星空に祈りを注いだ。 「女神アナビウワトの名のもとに、大地は豊かに富み栄え、人々は安寧を手に入れる。生きとし生けるものを代表して、感謝の意を示します。海の恩恵を大地にも与えていただくために、大地に落ちる慈雨を集めた清らかなる水の流れよ。大地の子らの願いを海へと運べ。すべては命の平穏のために。女神アナビウワトの加護のもと、おだやかな暮らしがあまねくすべての生き物を包みますように」  言葉の最後に肺に残っていた息のすべてを吐き出して、新しい空気を体に満たすと心のざわめきが落ち着いた。  やはり自分は聖女のままで一生を終える運命にあるのだと、確信めいた希望を胸にかかえたアリナは、誰にともなく心の内で感謝を述べて立ち上がり、寝台に戻って横たわった。  とても幸福な運命が待ち構えている。  予感がクスクスと心の奥を震わせる。さきほどまでの不穏な気配は何だったのかと、疑問を浮かべるほどに満ち足りた気持ちで目を閉じて、明日の務めのために意識を夜気に溶かして寝息を漏らした。  * * *  やはり恋しいと、目を細めた皇子ラコット・アリノルは、神殿の奥にある丘で星をながめる聖女アリナを情熱的に見つめていた。  彼女を見染めたのは、三年前の十八歳の誕生日に、立太子の儀式をおこなったときだった。女神アナビウワトの聖女たちのなかで、ひときわ目を惹く彼女の清らかさに、ラコットの魂は吸い込まれてしまった。儀式が終わってすぐに、彼女はどこの誰なのかを調べさせた。  モナミス伯爵のひとり娘だと知ったときには、婚姻の申し込みを現王に許諾される身分であることをよろこび、続けて報告された婚約者の存在に落胆をした。  聖女となって神殿に上がる前に、硬く将来を約束したと聞いて、この想いは深く閉じ込めてしまおうと己に誓った。清楚な花のごときアリナの微笑を曇らせ、枯らせたくはない。思煩わせることもないと、気持ちを押し込めて彼女を遠くから見つめ続けた。  片恋のままで終わるはずの、ラコットにとっては衝撃的で切なく、苦しく胸を爛れさせるほどに熱い初恋に、時は救いの手を差し伸べた。  アリナの婚約者、ブラモアが別の女性と結婚したのだ。  列席したラコットは、アリナがどんな様子であるのかをうかがった。彼女は淡々と婚礼の儀式を進め、ひと粒の涙もこぼさなかった。それどころか、笑みまで浮かべて元・婚約者とその妻を祝福したのだ。  心の中はどれほど苦しかったろうかと想像し、心を痛めたラコットは眠れなかった。王城を抜け出して神殿の奥へ向かい、星を見ながら心を静めようと考えていたら、先客がいた。  星明りに淡く輝く姿に、女神が降臨したのかと目を見開いた。  よく見れば、しんみりとした空気をまとっている恋しい人だった。儀式の最中は笑顔であっても、内実は悲しんでいたのだと、ラコットは胸を痛めた。彼女の寂しさを分かち合える立場にいない自分を呪い、はかない美しさを放つアリナを見つめ続けた。  やがて彼女はゆるゆると丘を降りはじめた。神殿に戻る彼女を見送るつもりで、ラコットも移動をはじめたが足音に気がついたのか、アリナは歩みを止めて周囲を見回した。気配を殺せば警戒を解いて、彼女は神殿へと戻っていった。  見届けたラコットは、王城への道を進んだ。彼女の婚約者が別の女性と結ばれたのは、彼が家督を継ぐべき年齢、二十五を迎えたことと、アリナは生涯聖女として神殿で生活をするというウワサのためだ。 (彼女は、それを望んでいるのだろうか)  待つ人のいなくなった彼女が、聖女で居続けることをためらう理由はなくなった。十二の年からずっと聖女として仕えてきた彼女にとって、家に戻るよりも神殿のほうが住み慣れた場所になっていることだろう。 (だが、俺が彼女を妻にしたいと願えば、王城に迎えることはできる)  そもそも聖女に選ばれるというのは、貴族の令嬢たちにとっては名誉なことで、それによって務めの後によりよい縁談を迎えられるという利点をもたらす。身分の低い娘でも、聖女に選ばれたとなれば手の届かないはずの階級に嫁入りをすることも可能になる。アリナはもともと伯爵家の令嬢である上に、聖女の中の最上位に据えられているので、王家に嫁ぐことになったとしても、なんら不思議ではない立場にある。 (アリナは、聖女の任が解かれる日を望んでいるのだろうか)  さきほどの姿からは、俗世に戻る気はないように感じられた。彼女はあの丘で女神アナビウワトに、生涯をささげると誓っていたのかもしれない。  首を振って、ラコットは広い王城の廊下を進み、重厚な扉に手を伸ばした。自室に入り、窓際に寄って外をながめる。彼の部屋の窓からは、神殿の姿がよく見えた。 「アリナ」  名を呼べば、胸が苦しく絞られた。彼女をあきらめようと決めた理由がなくなった。女神アナビウワトを軽んじるつもりは毛頭ないが、彼女の人生を神殿に捧げたくはない。 (俺の愛を伝えれば、彼女は応じてくれるだろうか。来年、俺は二十二歳になる。三年後には王位を継承する)  来年の誕生日には、将来の王妃を決めておかなければならない。それまでに彼女を説得できるだろうか。 (してみせる)  アリナのほかに、妻にしたい女はいない。この心はすべて彼女に支配されている。どんな手を使ってでも、想いを遂げてみせるのだと、ラコットは目元を引き締めて山の向こうに流れる星の川をにらみつけた。 (女神アナビウワトよ。俺の想いを阻むのならば、阻めばいい。あなたを尊崇する気持ちに揺るぎはないが、アリナをあなたに譲る気はない。彼女とともに、俺はこの国を、民を守る未来を得てみせる)  誕生日を迎えるまでに、かならずアリナの首を縦に動かしてみせると、ラコットは固い決意を恋焦がれ続けて来た胸に固めた。
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