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第6話

「綾さん。先ほどはありがとうございました」  受け付けの部屋から店内に戻ると、光から礼を述べられた。  何のことかすぐに思い浮かばず、綾はきょとんとした顔を向ける。 「私のかわりにルミエラとサリュウに行ったでしょう? そのお礼です」 「えっ? ああ……」  苦笑を向けられ、綾はようやく思い出した。ルミエラはランジェリーショップで、サリュウはフラワーショップ。いずれも光に頼まれて行った店だった。綾はカウンターへと近づき、光に笑みを向ける。 「ふだん行かないようなお店だったので緊張したけれど、楽しかったです」  ルミエラもサリュウも、店内に足を踏み入れることを躊躇ってしまうほどハイクラスな店だった。しかし、スタッフの女性たちがとても話し上手だったものだから、そんなことなど忘れてしまい、ついつい長居をしてしまったのだ。そのときのことを思い返していると、カウンターの内側で開店準備をしていた光から、唐突に切り出された。 「そうですか。ところで、先ほどルミエラの恭子さんから連絡が来ましてね」  意味深な視線を向けられて、綾は表情をこわばらせた。窺うように光を見ると、嬉しそうな顔をしている。その笑顔の理由がなんであるかだなんて愚問に等しい。世間話をしていたときにもらった招待状の件に違いない。綾は居心地の悪さを誤魔化すために、乾いた笑みしかできなかった。 「来週、来期の展示会があるそうですね。シャルマンとルミエラ合同の」 「えっ、ええ……」 「恭子さんから、是非とも二人で来てほしいと誘われました。招待状はあなたに渡してあるからと」  とどめのようににっこりとほほ笑まれてしまい、綾は何も言えなくなってしまった。確かに光が言う通り、ルミエラの恭子から招待状を二枚もらっている。  シャルマンはルミエラの姉妹店であり、綾が贔屓にしているランジェリーショップだ。夏と冬になると二店合同で受注会を行っており、次の半期に展開されるコレクションを予約することができる。  しかし誰でも参加できるものではない。元々これは顧客に向けての催事だ。恭子から招待状を渡されたのは、恐らく光が関係していると思われた。光に渡すように恭子から言われた紙袋には、一体何が入っているのだろう。恭子から渡された紙袋の中には、黒い箱がいくつか入っていた。だがそれよりも気になるのは、光と二人で来て欲しいと恭子から言われたことだった。  「ど、どうして光さんと一緒なんでしょうか……」  動揺を抑えながら尋ねると、光はあっさりと返事した。 「バレンタインデーがあるからでしょうね」 「バレンタインデー、ですか?」  聞き返すと、光は頷いた。 「ええ。その時期に発売されるコレクションが、男女ペアになっているようでして」  光から視線を向けられて、綾はルミエラで見せられたカタログを思い浮かべた。確かに二月に発売される予定のものは、男女ペアになっている。鮮やかなピンクのランジェリーとペアになったデザインのボクサーパンツがカタログに載っていた。 『光さんに贈ってみたらいかがです? きっと喜ばれると思いますよ』  そのとき恭子から向けられた意味深な笑みと言葉が脳裏をよぎったけれど、綾は慌ててそれを頭から追い払った。恭子が勧めたとおり贈ったら、きっと光は今以上に迫ってくるだろう。  掛けられる言葉をそのまま受け取れたらいいのだが、側にいると不安要素は増える一方だ。それなのに、光から迫られる度それを忘れて流されてしまいそうになっている。今はどうにか踏みとどまっているけれど、もしも今以上に迫られたなら多分拒めない。綾がそんなことを考えている間にも、光は話し続けている。 「それに併せて、カップルに来てほしいのだと思います。恋人とともにランジェリーを選ぶ女性は注目を浴びますし、そういった姿を目にすることで男性の目を意識してランジェリーを選ぶ女性が増える。まあ、恋人や夫の為に男性用のものを買い求める人もいるでしょう。それを期待して受注会という特別な客が集まるところにカップルがほしいのでしょうね、きっと」  なるほど、と綾は思った。  そのような発想は、経営している側でなければ思い浮かばない。 「それで、綾さんには申し訳ないのですが、来週の水曜日、午後一時にルミエラに行く予定を入れさせていただきました」 「は?」  急に告げられたものだから、綾は素っ頓狂な声を上げた。だが、光は嬉しそうな顔をしている。そういえば恭子から誘われた理由は納得できたけれど、肝心の受注会への参加についてはまだ考えあぐねていた。  本音を言えば、このようなものは一人でゆっくり見たいところだ。しかし、恭子から招待状を受け取ったとき、是非とも二人でと言われている。  その上、光に直接連絡が来ている以上、一人で行ってもらうわけにはいかないだろう。せいぜい一時間ほど我慢して付き合うだけだ。それで事足りる。綾がそう自分自身に言い聞かせていると、突拍子のない言葉を光から告げられた。 「綾さんのサイズは確かEカップの65でしたよね?」  正確なサイズを言い当てられてしまい、綾は驚きの余り体を石のように硬直させた。 「綾さんのサイズは、そう多く仕入れないそうなので、気に入ったものがあったら受注会でオーダーしてほしいと恭子さんから言われました。来週注文するものもありますし、なんなら一緒に買いそろえましょうか?」  光から満面の笑みを向けられてしまい、綾は何も言えなくなった。目を点にしながら見ていると、それを全く気にもせず光は手を動かし始めた。 「さて、おしゃべりはここまでです。今日は綾さんにお願いしたいことがあります」  それまで笑みを浮かべていた顔が真剣なものになった。綾はそれに気づき、気持ちをすぐさま切り替える。 「今夜、一組のカップルが来店される予定になっています。私が男性のゲストと二人きりで話をする間、綾さんは女性のゲストの側に居てもらえますか?」 「は、はい……」 「先日私の知り合いが来たでしょう? 彼女の夫が、パートナーと一緒にこれから来ることになっています。この店とゲストたちを守るために、お話しないとならないことがあるんです。そう長くは掛からないと思いますので、よろしくお願いしますね」  向けられた笑みはいつも通りではあるけれど、わずかだが不安が滲んでいるように見えた。それが気になったけれど、綾は光に頷いたあと、いつものように開店準備を再開させたのだった。  東条深紅の夫が、若い恋人とともにやってきたのは、それから三十分後のことだった。  彼らが来るなり、光は深紅の夫・東条一馬だけを伴い個室へ入っていった。残された若い女性はカウンター席に腰掛けて、落ち着かない様子で個室をちらちら眺めてばかりいる。綾はカウンターの中に入り、不安げにしている彼女に声を掛けた。 「あの……。何かご用意いたしましょうか?」  すると、彼女は顔をハッとさせたが、すぐに顔を俯かせた。所在なさげにしている姿を目にして、綾も無意識のうちに個室へ目を向けてしまう。しかし、そうやってみても光が出てくる気配はなく、不安ばかりが募ってくる。  先ほど、光から彼女の相手を頼まれたはいいが、どのような話をしたらいいのか分からなかった。綾は内心焦りながらも、当たり障りのない話題を探し始める。そして暫く経った頃、ようやくあるものが浮かんだ。 「もし良かったら、温かいお茶でもいかがです? 淹れたお茶の中で、きれいな花が開くものがあるんです。香りもいいですし、いかがです?」  どうにか笑顔を作ってみたが、うまく笑えている自信がない。しかし、今は目の前にいるゲストをもてなさなければならないし、綾は必死になっていた。それが伝わったのか、やがて彼女は不安げな顔でこくりと頷いた。 「それでは今ご用意いたしますね。とても香りがいいお茶なのですが、その香りがお好みに合うといいけれど……」  早速湯を沸かし、ガラスの器を用意した。花茶が入っている缶から丸まったものを取り出して、器に入れる。そして器に湯を注いだ後、ガラスの蓋で閉じた。綾は一連の動きを手早く行ったあと、ゲストにそれを差し出した。 「どうぞ。きれいなお花が、ゆっくりと開きます。熱いので、少し冷ましてからお飲みください」  ガラスの器の中にある丸まったものが、ゆっくりと姿を変えていく。湯の中で開いていく白いものは、やがて大輪の花となった。その様子をゲストとともに見ていると、か細い声が聞こえてきた。 「きれい……」 「きれいですよね。私も初めてこのお茶を飲んだとき、そう思いました」  綾がそう言うと、ゲストは美しい顔を上げた。 「これ、香りもいいんですよ。そろそろ蓋を開けますね」  慎重にガラスの蓋を開けると、お茶の香りに交じって華やかな花の香りがした。その香りは、初めて光と顔を合わせた記憶をよみがえらせる。そのときのことを思い出し、胸の奥に鋭い痛みが走った。 「もしかしたら、私のせいでしょうか……」 「えっ?」  ゲストを見ると、ガラスの器を眺めたまま沈んだ表情を浮かべていた。 「私が一緒だから、東条さんは……」  ゲストはそう言うと、また個室へと目を走らせた。するとほぼ時を同じくして個室の扉が開き、光とスーツ姿の男性が中から出てきた。二人は表情をこわばらせながら、何かを小声で話している。それを見たとき、言いようのない不安が綾を襲った。 「奥様と話し合われた方が良いと思います。そうでなければ、またこの店にやって来ますでしょうし」 「ええ、そうさせていただきます」  ようやく会話が終わったようで、スーツ姿の男性はカウンター席にいたゲストに近づいてきた。その間彼女は不安げな表情で相手を見つめている。綾が二人の姿を交互に見ていると、カウンターのなかに光が戻ってきた。 「綾さん、お二人のお見送りをお願いします」 「は、はい……」  綾はそう答えると、店から出て行こうとしている二人を追いかけたのだった。  一日の営業を終えたあと、綾は光とともに二階の住居フロアで寛いでいた。  寛いでいるといっても、綾はもやもやとしたものを抱えたままソファに腰かけている。それは先ほど店にやって来たカップルのことを気にしているからだった。  あの二人はどうなるのだろう。そして、あの夫婦はどのような話をするのだろうか。光なら何か知っているとは思うけれど、それを聞いていいものか分からない。綾が複雑な気持ちを抱えながら黙り込んでいると、隣に光が腰かけた。 「先ほどはありがとうございました。助かりました」 「いえ……」  言葉少なに綾が返事をすると、何かを察したのか光が話し始めた。 「先日やって来た女性は、以前付き合っていた人でした。別れてからずっと連絡を取っていなかったので、先日は驚きました」 「そう、ですか……」 「ええ。彼女がこの店にやって来たのは、夫がこの店に通っているからです。しかも自分ではない女性と。彼女はここがどんな店か知っているのでね」  光を見ると、苦笑していた。 「この店にやって来る人間たちは大なり小なり特殊な嗜好があります。その一つに「セックスを誰かに見られることで興奮する」というものが有るのですが、彼女の夫は、そういった嗜好を持ち合わせている人間です。だからこのような店にやって来るようになったんです」  落ち着いた声で聞かされたものは、余りにも衝撃的な内容だった。綾は静かに話している光を見たまま、その話に耳を傾ける。 「妻を心から愛しているのに、抱き合っても何かが足りない。一度でも倒錯的な快感や興奮を知ってしまった人間は、心と体の両方を満たされない限り求めてしまうようになる。一番ベストなのは愛する女性が自分自身と同じ行為を楽しんでくれることなんですが、生憎彼女はそのような嗜好は持っていなかった。だから欲望を満たしてくれる相手とともにその行為に耽るようになったんです」 「それって、つまりは浮気じゃないですか……」 「ええ。不貞行為です。妻以外の女性とセックスしているのだから。でも、彼にとって、この店でする行為は自慰と同じ感覚だと思います。だってパートナーに対しては信頼しかないのですから」 「信頼?」  綾が聞き返すと、光が頷いた。 「綾さんに側にいてもらった女性と彼の間には、男女の愛情は存在しません。あるのは信頼だけです。エスコートサービスを介して知り合い、時間をかけて信頼関係を築いたそうです。ところで綾さんはエスコートサービスを知っていますか?」 「いえ、そういったものは何も……」 「エスコートサービスは、第三者が仲介となって男女を出会わせるサービスです。食事の場をセッティングするまでが仕事。男性の会員は皆それなりの地位についているものが多く、女性の会員は容姿に優れている方もいるし賢い方もいる。そういった場を通じて知り合った二人が、それ以降どのような付き合いをするかは個人の判断に任せているところが多いですね」 「それって、結婚相談サービスとかと同じもののような気がするんですが……」  恐る恐る聞き返すと、光がため息をついた。 「そのまま結婚する方も、中にはいるでしょうね。でも、結婚相談サービスと決定的に違うのは、男性会員の中に既婚者がいるということです。もちろん女性会員の中にもいるケースもありますが、そう多くはないでしょうね。巷ではパトロンとなる既婚者男性を探している独身女性が増えていますし、双方ウィンウィンな関係を求めてエスコートサービスを利用される方が増えているようです」  自分自身が知らないだけで、世の中には様々なものが存在している。男女関係に関しても、様々な形があって、その中には理解できないものもあるのだろう。光が話していることは、そういったもののひとつで、綾は急に不安になった。 「そういったもので知り合い、お互いの私生活に干渉しないことや行為に関して口外しないなどについて弁護士を通じて契約を結んでいるんだそうです。だが、そういったことは、妻は知らない。勿論夫が特殊な嗜好を持っていることも彼女は知らないから、自分ではない女性を伴ってこの店に通っていることを知って、浮気を疑ったわけです。だから彼女はこの店にやって来て、浮気を確かめようとした。でも、私はそれを教えるわけにはいきません。幾ら過去に親しい付き合いをした女性であっても、そんなことをしてしまえば、店の信用は失われてしまうから。だから先ほど二人きりで話をしたんです」  淡々と話したあと、光は深いため息をついた。 「以前の私なら、浮気したと謝って、ほとぼりが冷めたら今度はもっとうまくやればいいと言ったでしょう。でも、できませんでした」 「なぜ、ですか?」  綾が聞き返すと、光は黙り込んだ。部屋に響く時計の音が、いつもより大きく聞こえる。身動き一つしないまま口を閉ざしてしまった光を見つめていると、独り言のような小さな声が聞こえてきた。 「あなたを好きになってしまったからですよ」  思いがけないことを聞かされたせいで、綾の頭は真っ白になった。
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