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第3話

 その店は、繁華街から少し離れた場所にある。  大通りから路地に入った先にある雑居ビルの一階がその店だ。  店と言っても看板らしきものは全くない。  入り口と思しき扉がライトに照らされているだけだった。  その扉の周囲には、インターフォンとセキュリティ用レンズが取り付けられていた。最新のセキュリティが施された入り口は、ただのバーにしてはいき過ぎている感がある。実際、何もしらない人間がそれを見たなら、怪訝な顔をしてしまうだろう。しかし、その店を訪れるゲストたちの「非日常」を守るためには必要なものだった。 【Dulce Noche】(ドルチェ・ノーチェ)   スペイン語で「甘い夜」を意味する店名は、オーナーである光がつけたものだった。  その店に、今宵もゲストたちがやって来る。  光が望んだように、非日常の世界と時間を求めるゲストたちが。 「綾さん」  急に呼び止められて、綾は振り返った。  カウンターの内側で、たくさんのボトルが並んでいる棚を背にして光が立っている。  柔らかなライトに照らされた彼の姿は、いつもとなんら変わらない。  プレスされた白いシャツ、折り目がきちんとついている黒のパンツに銀縁メガネが光の「制服」だ。  穏やかな笑みを向けられながら、綾はゆっくりとカウンターへ近づいた。 「なんでしょう、光さん」 「ちょっと地階(した)に行ってきますので、ここをお願いします」  そう言って光が掲げたものを見て、綾はぎょっとした。綾が驚くのも無理はない。見せられたものが、束ねたロープだったからだ。綾が猫のような目を大きくさせたからか、光は苦笑しながら地下へと続く階段を下りていった。光の姿が完全に見えなくなった後、綾は物憂げな表情で大きく息を吐く。  ゲストが望めば、光はその縄で相手を縛るという。といっても、本格的に縛るわけではないらしい。店に時折やってくる緊縛師から、初歩的な縛り方は教わったようだが、その方法を用いろうとしないようだった。そのことに興味を持ったゲストから理由を尋ねられ、光はこう答えていた。 『縛ろうとする相手の全てを受け止めることができないから』  綾はその言葉の意味が分からなかった。この店で働き始めて、そろそろ一か月が過ぎようとしている。それなのに、慣れないばかりか狼狽えてしまう毎日だ。性的なものに不慣れな自分を気遣ってくれている光に、申し訳ない気持ちばかりが日に日に募る。  こんなとき、いつも思ってしまう。どうして光はこんな頼りない自分を雇ったのだろうと。幾ら必死になって頼み込んだとはいえ、それだけで雇われたとは到底思えなかった。勢いに圧されたわけではなさそうだし、何かしら思うことがあってのことだろう。もしかしたら、自分を憐れんでいるのかもしれない。面接のときに、すべてを打ち明けたから。そのときのことを思い出し、綾は所在なさげな顔でカウンターの内側、光の定位置に目を向けた。そのとき、チリンと澄んだ鐘の音が鳴る。  この店にやって来るゲストたちは、入り口の側にあるチャイムを押すことになっている。店内と入り口の間にある部屋でやってきたゲストの顔をチェックしたあと、綾がいるこの部屋へ招き入れるのだ。  急いでその小部屋へ向かいモニターを見てみると、女性が一人映っていた。もう一台のモニターには、会員情報が表示されている。それをチェックしてから、綾は着ている黒いワンピースと髪の乱れを直し、入り口の扉へと向かう。 「いらっしゃいませ、東条さま」  にっこりとしながら扉を開くと、小柄な女性が立っていた。上品な雰囲気を漂わせたその女性は、白い息を吐きながら優しそうな笑みを浮かべている。綾が中に入るよう促すと、甘い香りを漂わせながら入ってきた。  受付で料金を受け取り、ロッカーの鍵を渡そうとしたとき、ほっそりとした指にはめられている結婚指輪に気がついた。既婚者であってもこのような店を利用する人間はいるが、男性に比べれば女性はそう多くない。複雑な気持ちのまま、ゲストをバーフロアへ案内すると、タイミングよく光が地階から戻ってきた。光は、来店したばかりのゲストを見るなり表情を曇らせる。だがすぐにふだん通りのものになる。綾は、それを見逃さなかった。 「こんばんは、光さん」  ゲストが、柔らかい声で光に挨拶する。無意識のうちに光へ目を向けると、偶然にも目が合った。綾はとっさに目をそらしてしまう。 「いらっしゃいませ、東条さま。こちらへどうぞ」  おずおずと前を見ると、ゲストが光に話しかけていた。居心地の悪さを感じてしまい、綾は二人の姿を見ないようにしながら、カウンターの内側に入ろうとした、そのとき。 「綾さん。東条さまを地階に御案内してきます」  綾は声がした方へ目を走らせた。視線の先では、二人が揃って階段を下りようとしている。それを眺めているうちに、不安が心に広がり始めた。綾の視線に気付いたのか、ゲストを案内していた光が足を止める。 「あと、申し訳ないのですが、入り口のライトを消しておいてください」 「えっ?」 「地階にいるゲストがお帰りになる頃連絡しますから、それまで二階で休んでいて構いません」  店主である光から、そう言われてしまえば、そうするしかない。  綾は心を覆い尽くしそうな不安に耐えて返事した。 「わかりました。それではライトを消したら、二階にいますから、何かありましたら呼んでください」 「ええ、ゆっくりしていてください」  見慣れた笑みを向けられて、綾は光達がいなくなるまでそこを眺めていた。  綾は、テーブルの上に置いたマグカップを見つめながらため息をはく。  光がゲストとともに地階に降りてから、もう二時間以上が経った。  部屋の真ん中になるソファに座ったまま壁に掛かっている時計を見ると、日付が変わる少し前だった。あの女性の前に来ていたゲストたちは、いつも日付が変わる頃店をあとにする。そろそろ光から連絡が来るかもしれないが、その前に店に行こうか迷っていると、部屋の扉がガチャリと開いた。綾はすぐさま扉に目を向ける。 「光、さん?」  綾が目を大きくさせて呼びかけると、光が近づいてきた。 「ただいま戻りました」  そう言って光は何の迷いもなく綾の隣に腰を下ろした。そのことによってソファの座面がたわむ。綾は無意識のうちに、光の匂いを嗅いだ。ふだん通りの匂い、葉巻とコロンの匂いしかせず、ほっと胸をなで下ろした、そのときだった。 「寝かせてください。疲れました」  光がいきなり寝転んだ。しかも腿の上に頭を乗せて。つまり膝枕だ。 「え? あ? ええっ?」  急にそうされてしまったせいで、綾は当然のことだがあたふたとなっていた。逃げるだけなら立ち上がれば済む話だ。縋るように足を掴まれているけれど、それだって力ませに振り払うことだってできる。しかし、それができないのは、甘えられることが嬉しいからだった。  しかし、だからといっておとなしく受け入れたらダメだ。  綾は揺らぎそうになっていた気持ちを引き締める。  面接で初めて顔を合わせたとき、綾は一瞬にして恋に落ちた。  そして、それからずっと苦しい痛みを抱えながら光の側にいる。  光を目当てに店にやってくる女性客は多い。  しかも、その大半が光と過去になんらかの関わりがあったと思われる女性ばかりだ。  女性達が言い寄るたびに、光はそれをうまくはぐらかす。ただしはぐらかすだけで断らない。そんな光景を見続けていれば、幾ら光が甘い言葉を囁いてきても鵜呑みにすることなどできないのだ。それに、光が女性達と親しげにしている姿を目にするたびに、不安と悋気に振り回されてしまう自分が嫌だった。だから必要以上に関わらぬようにしているのだが、綾の心は揺れ動く。  うれしいのに、苦しい。  好きなのに、言えない。  そして今も強く拒めないまま、膝枕をしてしまっている。綾が苦々しい気持ちを抱いたまま光を見下ろしていると、ふくらはぎに何かが触れた。温かいそれは、肌の感触を楽しむように撫でている。それまで脚を押さえ付けていた腕がようやく解けたのだし、そこから立ち去るだけでいい。でも、やっぱりできなかった。 「光さん、何してるんです?」  綾がふて腐れた顔で問いかけるが、返事がない。返事こそないけれど、手はしっかり動いているから寝ているわけではなさそうだった。綾は少しだけぶっきらぼうに言い放つ。 「眠いのでしたら、ベッドで寝てください」  するとすぐに眠そうな声がした。 「もう少し、このままで……」  それまで肌を撫でていた手の動きが、徐々に緩慢なものになってきた。光の様子を窺っていると、寝息らしきものが漏れ始めた。どうやら寝入ってしまったらしい。綾は困った顔でため息をつく。  光は時折子供のように甘えてくる。何かを確かめようとするように。初めの頃こそきっぱりと拒んだものだが、惚れた弱みかそれを許してしまっている。そんな自分に綾はあきれ果てていた。光から掛けられたたったひと言で、ほっとしてしまった自分にも。 『ただいま戻りました』  その言葉を聞いた瞬間、心を覆い尽くした不安などすぐに消えうせた。  それは、ただの思い違いかもしれないが、自分のもとに帰ってきてくれた気がしたからだった。  伝えられなくとも思うだけなら。眠っている間、触れるだけなら。  綾はわずかに乱れた髪に指を差し入れる。  柔らかな髪を指でもてあそびながら、光の頭をなでているうちに、綾はいつしか眠りに落ちていた。
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