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第2話

 綾は、驚きの余り目を大きくさせた。  買い物袋を持ったまま、店の入口で立ち尽くす。  なぜ、姉がここにいるのだろう。  綾は息をするのも忘れて、カウンター席からこちらを振り返る姉・歩(あゆむ)を凝視した。 「綾さん、お帰りなさい」  光の声が耳に入り、綾は我に返った。声がした方へ目をやると、カウンターの内側、姉の向かいにふだん通りの彼が立っていた。白いシャツに黒いスラックス姿の光を見たら、体から力がすっと抜けていく。ようやくこわばりが解けたので、綾はカウンターへと向かった。  姉から向けられる視線のせいで、何も悪いことなどしていないのに、悪いことをしているような気にさせられた。一刻も早く光のもとへ行きたくて、自然と早足になってしまう。ようやくカウンターの内側へ入ると、綾はすぐさま光の側へ寄り、姉へと目を向ける。 「お姉ちゃん? どうして?」  引きつった喉を振り絞って尋ねると、姉の目が鋭いものに一変した。 「どうして、って。お母さんから聞かされたのよ。会社を辞めて、住み込みしながらバーで働くことになったって」  鋭い視線とともに厳しい言葉を向けられて、綾は再び体を石のように硬直させた。この店で働き始めるまでのことが、フラッシュバックのように次々と頭に浮かんでくる。  短大を卒業したあと働き始めた会社は一流企業だった。そこに運良く入社できたのは、老舗料亭を営んでいる両親の口利きによるものだった。その会社の重役たちが店を頻繁に利用していたのである。その縁で入社したはいいが、そこで待っていたのはコネクションで入社したものへの嫉みだった。  負けん気の強い姉・歩とは違い、綾はむしろ甘えん坊だ。しかし、料亭を営むがゆえ多忙な両親と心配性過ぎる姉に気を遣い続けたせいで、言いたいことが素直に言えなくなっていた。そんな自分を変えたいと思っていたけれど、そのきっかけが見つからないまま、時間ばかり過ぎていた。  そんなある日、帰宅途中で見かけたこの店の求人を見たとき感じたのだ。これがきっかけになるかもしれないと。そう思ったからこそ、清水の舞台から飛び降りるような覚悟で面接を申し込んだのだ。  綾が思い詰めた表情で姉を見つめていると、側にいた光が鋭い視線からかばうように前に出る。  それに気づいた綾は、無意識のうちに縋るような目を広い背中に向けた。 「歩さん、とお呼びしてもよろしいですか?」 「えっ、ええ。構いません……」  光の影になっているせいで見えないが、うろたえているような声だった。  光は何を話そうとしているのだろう。それを考えると、綾は気が気でない。 「綾さんから伺いました。新橋の料亭くるすが御実家だと。実は父が生前よく利用していたんです。今は兄と弟がお世話になっていると思います」 「えっ!?」 「それに私自身も、女将には随分とお世話になりました。といっても、私は退職してしまったので、それからは疎遠になっておりますけれど。真由子さん。いえ、女将はお元気ですか?」  綾は驚きの余り、目を大きくさせた。それは、光が母と懇意にしていたこともそうだが、母を名前で呼んでいることを初めて聞いたからだった。  料亭の女将をしている母を、名前で呼ぶことができる人間はかなり限られている。父や家族はもちろんだが、店にやってくる贔屓の客の中でも、母が特別扱いしている人間だけだ。  今でこそ、路地裏にあるバーの店主をしてはいるが、光の経歴を振り返れば、母と付き合いがあったとしても何ら不思議なことではない。田崎商事と言えば、国内でも有数の一流企業だ。光はその会社の創業一族の次男で、かつては経営の中核を担う部署で辣腕を振るっていたという。そのままそこにいたならば、役員として名を連ねていただろうと、かつての光を知るゲストたちは話していた。  それなのになぜ、光はその世界から夜の世界へ来たのだろう。  夜の仕事や接客業を卑下するつもりはないけれど、綾はそれが謎だった。 「母は元気にしております。実家に立ち寄ったときに伝えますね」 「そうしていただけると嬉しいです。こちらも近々御挨拶に伺わせていただきます」 「いえ、そこまでしていただかなくても……。お店もお忙しいでしょうし……」 「ええ。実はこの店くらいなら一人でやっていけると思っていたのですが、どうにもならなくて、それで求人広告を出したんです。ここにくるゲストは皆身元がしっかりしている人間ばかりだし、私の友人たちしか来ません。でも、だからといってもてなす側としては手を抜くことができない。だから、信用がおける人間を探していたのです。そうしてやってきたのが綾さんでした」 「でも、綾は世間知らずで甘えん坊です。そちら様が求められているような働きができるとは思えません」 「それは歩さんが『お姉さん』として綾さんを見ているからですよ。綾さんはとても気が利くし、何より明るい。機転を利かせてくれるおかげで、私はとても助かっています」  二人の表情が分からないから、聞く分には普通のやりとりに聞こえる。しかし、火花が静かに飛び散っているような気がした。綾はハラハラしながら、光の背中を見続けていた。 「綾さんはこの一か月頑張ってくれました。その努力を私は評価しておりますし、その分の待遇とお給料を彼女に与えているつもりです。だから、どうか御安心を」  低く落ち着いた声で光がそう告げると、姉はそれ以上何も言おうとしなかった。 「光さん、先ほどはありがとうございました」  姉を見送ったあと、綾は隣にいる光に頭を下げた。  それは、過保護で口うるさい姉を黙らせる為に、光が自身の家の話を光がしたからだ。  光は実家を良く思っていない節がある。それに綾が気づいたのは、度々店にやってくる彼の兄との会話を耳にしたときだった。そのとき耳にした言葉を思い返していると、肩に温かいものが触れた。 「綾さん。頭を上げてください。従業員を守ることは店主として当たり前のことなんですから。それに、いつかはこうなると思っていましたし」 「えっ?」  思いがけない言葉を聞いて、綾は勢いよく頭を上げた。  肩に置かれた手が、店の中に入るよう促してくる。 「いえね。面接のときに言っていたでしょう? 心配性な姉がいると」  そろそろ師走を迎える頃だ。肌に突き刺さるほど冷たいところから、葉巻と洋酒の匂いが混ざり合う店内へ戻りながら、綾は光の話に耳を傾ける。 「実は私の兄も心配性でね。この店を開いた当初、連日のようにやって来ましてね。それを思い出したんですよ。だから、いずれはこうなると思って覚悟していました」 「覚悟って、そこまで……」  苦笑しながらも、綾は内心でほっとしていた。しかし、光に迷惑を掛けてしまった。もしも光が実家の話をしなければ、姉はしつこく食い下がっていただろう。それに、ここはただのバーではない。それに気づく前に姉が帰ってくれて良かった。万が一姉がそのことを知ったならば、有無を言わさず家に連れ戻そうとするだろう。ここを訪れるゲストの身元がしっかりとしたものであってもだ。この店がどのような店であるか知ったときのことを思い出せば、苦笑いしか出てこない。綾は自嘲的な笑みを浮かべて、小さなため息をついた。 「これじゃ、あなたとの結婚を許してもらうときは命がけだ」 「えっ?」  店で働き始めた初日のことを思い出していると、突拍子もない言葉が聞こえてきた。  それに驚いてしまい、綾はつい大きな声を上げる。 「だって、そうでしょう? あなたを頂くわけですし、きっと猛反対されるでしょうね」 「そっ、その前に私と光さんは恋人でもなんでもありませんから! 従業員と雇用主の関係でしかありませんからっ!」  大慌てで訴えるが、光はいたって平然としていた。 「だから、言ったでしょう? その関係だってあなた次第だと。懸命になって口説いているのに、あなたはいつまで経ってもなびいてくれないし」  ずいと顔を寄せられて、綾は何も言えなくなった。櫛ですっきりと整えられた髪、秀でた額。涼しげな瞳。すっと通った鼻筋のしたにある唇は形がいい。その唇から発せられる言葉を信じたいのにできない。綾は口を閉ざしたまま表情を曇らせたのだった。 「私は用事がありますので、出かけてきます。戸締まりをちゃんとして、寝ていてくださいね」  店が閉店したのは、午前二時を少し過ぎた頃だった。  最後のゲストを見送った後、綾は光とともに閉店あとの片付けを行っていた。  それが終わると、用意していたコートを羽織った光が、マフラーを首に巻きながらカウンターから外に出る。  光は度々店がはけた後、どこかへ行ってしまう。  そして、綾が寝ている間に帰ってきて、同じベッドで眠るのだ。  そのときに抱き締められているのだろう。目が覚めたとき彼の匂いと体温に包まれていることに気がついて、ほっと胸をなで下ろしてしまう。そんな毎日が当たり前のようになって、もう一か月が過ぎた。  光がどこへ行っているのか気にならないわけではない。恐らく聞けば教えてくれるとは思う。しかし、聞きたくないことを聞いてしまうようで怖かった。綾は心に広がる不安から目を反らし、出かけようとしている光を追いかける。 「ちゃんと鍵を掛けておきますね」  光を見送ろうと店の入口に立ち、綾は笑みを向ける。 「ええ、では行ってきます。帰りにデニッシュを買ってきますので、起きたら一緒に食べましょうね」  白い息を吐きながら、光が綾に笑みを向ける。そして挨拶を済ませた後、彼はどこかへ向かって歩き始めた。綾はその後ろ姿を見つめながら、寂しげな顔をする。  いつまで光と一緒にいられるのだろう。  いつまで幸せな目覚めが続くのだろう。  夜の闇に溶けていく光の姿を眺めながら、綾は寒空の下そんなことを考えていた。
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