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第1話

 胸元に温かいものを感じ、綾は目を覚ました。  緩やかに戻ろうとしている感覚と意識の中、胸の谷間に柔らかいものが押しつけられた。何せいま目覚めたばかりだ。胸元に押し当てられたものがなんであるか、すぐに思い浮かべることは難しい。綾は揺蕩う意識の中、それを探ろうとして手を伸ばす。すると指先に、絹糸のようなものが触れた。密に生えそろった柔らかい茂みに指を潜らせてみると、触れた物がもぞもぞと動き出す。 「……綾?」  掠れた声が耳に入り、綾は軽くため息を漏らす。それと同時に目覚めを促すように温かい息が柔肌を掠めたものだから、体が勝手に震えてしまった。そのとき、腰に回された腕が力を取り戻したようで、しっかりと抱き直された。空いた手で光の肩を探り当て、どうにか引き離そうとしたが無理だった。 「光さん、おはようございます。あの……、前から言ってますが私を抱いたまま寝ないでください。というか境界線を守ってくださいと――  ため息交じりに咎めの言葉を掛けると、乳間に温かいものをやんわりと押しつけられた。  そして、乳房の膨らみ始めるあたりに、突然鋭い痛みが走る。 「いっ……」  綾はきれいな顔を歪ませて、とっさに逃げようとした。だが、逃げられない。  背が高く、しっかりとした体つきの男・光から逃げられるわけがないのだ。  しかし、綾はどうにか光を体から引き剥がそうと抗う。腰を抱きかかえている腕に小さな手を掛けて、なおも抵抗を試みるが、そのようなものはささやかな抵抗にもなっていなかった。綾が体を捩らせるたび、シーツに広がった長い髪が揺れる。部屋に差し込む午後の日差しを受けながら、黒髪が波打った。 「境界線など、あってないようなものじゃないですか」  それまで胸の谷間に執拗に吸い付いていた光が、意地悪い顔して起き上がった。綾は恨みがましそうな目で光を睨めつける。しかし、にらみ付けた相手は全く動じていなかった。 「それに、綾は私が眠ろうとすると、甘えるように体をすり寄せてくるんですよ。好きな相手からそうされて、我慢なんかできるわけがないでしょう?」  光から好きな相手と言われて、綾は一瞬だけ表情を曇らせた。思う相手からそう言われたら、普通は手放しで喜ぶところだろう。しかし、それができない理由がある以上、掛けられた言葉を鵜呑みにはできなかった。だから綾は、あえて突っぱねる。 「ねっ、寝ちゃっているからそんなこと分かりません!」    シャツを着直そうとしたら、光の手があわせからするりと忍び込んできた。  細く長い指が肌に触れたとき、綾は体をビクッと震わせる。  綾の胸元や乳房のあいだには、赤いキスマークが幾つも残されている。それらは全て光が着けたものだった。光が今さっき着けたばかりの鮮明なもののほかにも、うっすらピンクになっているものもある。光の指は、それらをたどりながら胸元に向かっているようだった。  胸元に向かって指が動くのに合わせて、体が徐々に熱を帯びていく。胸元を眺めている光を見ると、満足げな笑みを浮かべていた。視線に気づいたのか、笑みを浮かべる涼しげな目と視線がぶつかったそのとき、一瞬のうちに体の奥がカッと熱くなった。  それはまるで、体の奥に火がついたような感じだった。熱のせいで呼吸がどんどん浅くなり、どくどくと音を立てて心臓が早鐘を打つ。  指先は胸元までたどり着いたあと、喉へと伸びた。それまでよりも更にゆっくりとした動きで肌を這い上がる。そしてついに薄く開いた唇にたどり着いた。綾は息をするのを無意識のうちに止めてしまう。それと同時に光と目が合った。指がゆっくりとした動きで唇をなぞる。その間、魔法にでも掛かったように全く体が動かなかった。  薄い皮膚をなぞっていた指が、わずかに開いた唇の合間にゆっくりと入り込んだ、そのとき。突然無機質なアラーム音が部屋中に鳴り響き、差し込まれ掛けた指がピタリと止まった。すっと視線を逸らされる。 「またタイムアウト、ですか」  唇のあわせから指が引き抜かれたと同時に、綾はそれまで止めていた呼吸をし始める。光は表情を特に変えないまま、綾の前から去っていった。ベッドが光の動きに併せてギシリと軋む。  電子音を発していたのは、ベッド脇の机に置かれていた光のスマートフォンだった。綾の目の前で光はそれを手に取り、すぐに着信に応じ始める。 「どうした?」  それまでの丁寧な口調ではない。ということは、電話の相手は親類か親しい友人だろう。もしかしたら、過去に関わり合った女性からかもしれない。そう思ったら、体の熱がみるみるうちに冷めていった。 『男はセックスしたいがために、好きとか愛してるっていう言葉を簡単に口にする生き物だから、真に受けちゃダメよ』  姉から言い聞かせられた言葉が頭をよぎり、綾は光を見つめたままため息を漏らす。光から寄せられる好意を素直に受け止められないのは、この言葉によるものが大きい。しかし、それだけではなかった。 「……分かった。用意しておく。じゃ、また」  余りにも短いやりとりだった。だが、それで十分なのだろう。  綾は、光が電話をし終えると同時に、逃げるようにそそくさとベッドから離れたのだった。
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