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和明が料理上手な理由

 はあと湿っぽいため息が聞こえてきたので目をやれば、森崎が机の上に突っ伏していた。  和明はまたかと心の中でため息をつく。 「おいしい日本食が食べたいです……」  独り言のようだが、それにしてははっきりした声だった。森崎は、シンガポールへ来てしばらく経つとこのセリフを必ず口にする。それを分かっているだけに、和明はわざとらしくため息をついた。 「お前ね、どうせ一週間もしないでお茶漬け食べたいだの味噌汁飲みたいだの言うんだから、簡易味噌汁とか持ってくればいいだろう? それにこっちのスーパーにだって売っているんだから―――― 「社長、新巻鮭のお茶漬け作ってください」  和明が文句を言い出すのを待ち構えていたように、森崎が椅子に座ったままくるりと振り返った。ふて腐れたような顔を向けられて、和明は苦笑する。 「おい、森崎。新巻鮭がシンガポールにあるわけないだろ。市販のお茶漬けならスーパーに売っているし―――― 「新巻鮭がいいんです! 昔伊豆で作ってくれたじゃないですか! あれがいいんです!」 「昔といったってあまりにも昔過ぎだろ……。あれはたまたま新巻鮭があったから作ってやっただけで……」  かつて伊豆で暮らしていたころ、腹を空かせた森崎に新巻鮭を使って茶漬けを作ってやったことがある。そもそも新巻鮭はそのときたまたまあっただけの食材で、シンガポールにあるわけがない。なのに今頃それを求められても正直困ってしまう。和明はとりあえず何か食わせてやろうと、森崎をマンションに連れて行こうとした。  いくら日本支社の社長を務めていても、一年の大半はシンガポールで過ごすことになる。  それは主なクライアントが東南アジアを中心にいるからで、日本を飛び出して世界を相手にしたいという志をもつ医師を彼らが望むところにいかせるためだということもある。  そのため和明は、シンガポールのマンションの一室を借りている。  とはいえほとんど寝るためだけに借りているようなものだった。  亜紀と再会するまでは、仕事を終えた後夜な夜な飲み歩いて、ついでのように女を誘っていたものだった。そして一夜限りの関係を結んだ女たちとは、一切連絡を取り合うことはしなかった。それを森崎は何かにつけて言い出すが、その大半は彼女自身の要求を和明にのませるためだった。 「社長、そういえば先日のパーティで知り合った女性とはどうなったんです?」  何かを思い出したように森崎が和明に問う。  和明は都合が悪そうに彼女から目をそらした。 「たしかシルヴィアさん、でしたよね?」 「ああ?」 「そのシルヴィアさんが最近オフィスにお越しになられて困っていると、モニカが話しておりました」 「オフィスに来られても迷惑だから、とにかく断れとモニカには伝えてある。それが?」  すると森崎は冷ややかな目で和明を見始める。  侮蔑をにじませるそのまなざしに気がついて、和明は顔を引きつらせた。 「社長って女の敵ですよね……」 「だからそれがどうした?」 「いえ。近々日本で亜紀さまと再会を果たされるおつもりなのですから、そろそろ身辺整理はしっかりしていただきたいな、と」  じっと何かを訴えるようなまなざしを向ける森崎に、和明は白旗をあげることになった。 「わかった。じゃあうまいもの食わせてやるから、買い物付き合え」  すると森崎はうれしそうにその場で飛び跳ねる。  その姿は彼女が幼いときとまったく変わっていなかった。 「社長って本当に料理上手ですよねえ……」  和明が住んでいるマンションの一室で、森崎はおいしそうに肉じゃがを頬張っている。  それを眺めながら和明は、琥珀色の酒を飲んでいた。 「まあ、昔からやっていたからな。上手にもなるだろ」 「和食に関してはお店出せますよ、たぶん」 「なんだ、そのたぶんって……」  付き合いが長い分森崎は遠慮がない。それを分かっているのだが、それを耳にするたび苦々しい気持ちになってしまう。和明はグラスに残っている酒を一息に飲み干した。 「社長が料理得意になったのは、お母さまを早く亡くしたせいですか?」  急に表情を曇らせた森崎が和明に問いかけた。  その時一瞬和明の脳裏に今は亡き母親の姿が浮かんだ。  和明が料理を一人で作り始めたのは、まだ彼の母親が生きていた頃だった。  物心ついたときには料理を作っていた母親が、徐々に沈んだ表情を浮かべ始めた頃から料理を作らなくなった。通いの使用人たちはなるべくなら和明たちに関わらぬようにしていたこともあり、彼らの世話をするものはいなかった。だから和明は料理をしなくなった母親に変わって、料理を覚えようとしたのは自然の成り行きと言っていいだろう。包丁も触ったことがなかったから、はじめのころはよくケガをしたものだった。切り傷や火傷を負いながらも、何とか食べられそうなものを作ったとき、達成感というものを和明は初めて知ったと言っていい。  そしてその料理を母親に持って行ったところ、和明の母親・佳奈子は驚いていた。  その料理を食べたとき、母親が笑顔になったのを見て和明は喜びを感じたものだった。  和明はその後手際を覚え、それに伴い料理の腕がみるみるうちに上がっていった。  その時のことを思い出し、和明は自分の手のひらを眺める。  それから間もなくして佳奈子は自らの命を絶った。  和明はそれをも思い出し、顔をゆがませる。 「料理は食べてくれる人がいて、初めて料理になるって聞いたことがあります」 「なるほど、だから料理を作れということか?」  苦笑いしながら森崎を見ると、すっかり料理を平らげていた。  森崎は食べ終えた後の食器を片付けようと席を立つ。 「ついでに栄養士と調理師免許を取れば、失業しても居酒屋ぐらいは開けますよ、たぶん」 「だから、最後にたぶんとつけるなら言うなよ……」 「料理を毎日食べてくれる人だったらいいですね。そうすれば作り甲斐があるでしょう? 少なくとも私に作るより」  森崎が意味深なまなざしを向けてきた。  和明はそれを眺めたあと、グラスに酒を注いでそれを一気に飲み干した。
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