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波千鳥

「森崎、頼みがあるんだが……」  社長室でラップトップと向き合って格闘している森崎に、和明は遠慮がちに話しかけた。都心にほど近い場所にある高層ビルのワンフロアに、和明が代表を務めている外資系医療コンサルタント会社の日本支社は間借りしている。とはいえ、和明と森崎そして数人の社員がそこにいるだけだった。  そのフロアの奥まった場所にある社長室でのことである。当然のことだが、その部屋には和明と秘書である森崎しかいない。森崎はキーボードをたたく手を止めて、すぐ側にいた和明をじろりと睨みつけた。 「社長、仕事の邪魔です。頼みたいことがあるならメモに書いておいてください」 「急ぎだ。今週末に伊豆に行くんだが、浴衣を一そろい用意してくれ」 「はい!?」 「俺はこれから上条の爺さんとこに行かなきゃならんから、頼んだぞ」  唐突に和明から頼みを押し付けられて、森崎は目を大きくさせたまま石のように固まっている。そんな森崎を気にもせず、和明は社長室から出ていこうとした。 「しゃ、社長、浴衣? 伊豆? どういうことです?」  机から身を乗り出して森崎が焦った顔で尋ねると、扉に手を掛けながら和明が振り返った。 「言わなかったか? 週末は亜紀と伊豆で過ごすと」 「それは聞いてますが、浴衣って言われても急すぎて……」 「今回は確かに急ではあるが、頼む。仕立ては無理だろうから、亜紀のサイズがあれば既製品でも構わん」  そこでようやく森崎は和明の意図に気が付いた。要は、亜紀の浴衣姿が見たいだけなのだと。森崎は笑いを押し殺す。 「確かに、今からだと仕立て上がりは間に合いませんが……」  森崎が言いにくそうに話すのも無理はない。店で反物を買い求め、仕立て上がりまでには、どんなに急いでも一か月ほど時間がかかる。反物を切って、縫い上げるだけで、すぐに着られるようになるわけではない。それは浴衣だとはいえ、同じことだ。それを和明が知っているわけもなく、森崎は無理な頼みを聞かされて困り果てた。だが、すぐにひらめいた。 「亜紀さまのお母さまにお尋ねしてみましょうか?」 「は? 森崎? お前、いったい……」 「聡子(さとこ)さまの御実家は、確か呉服屋でしたわよね。もしかしたら、浴衣を御用意されているかもしれないなと思いまして」 「今は廃業しているがな」  皮肉めいた笑みを和明から向けられたが、森崎は特に気にもせず返事した。 「でも、多分用意されていると思いますよ」  すると考え事をしていたらしく、和明が顔をはっとさせたのを森崎は見逃さなかった。 「可能性があるなら連絡しておいてくれ。もし用意されてなかったら、既製品でも構わん」 「分かりました。それではすぐに手配いたします」  そう言うと、少しだけ表情を緩めたあと和明は社長室から出ていった。  森崎が亜紀の母親・聡子(さとこ)に連絡を入れたのは、それからすぐのことだった。聡子に尋ねると、偶然にも数年前に亜紀のためにと浴衣を用意させていたらしい。そこで森崎は、亜紀と和明が週末伊豆に行くことを教えたあと、和明から浴衣を頼まれたことを伝えると、聡子はとても喜んでいた。電話口からでも十分分かるほど。 「亜紀だけが浴衣というのもあれよね、茜ちゃん」 「やっぱり、そうですよね。でも、社長はそれでいいらしいです」 「味気ないわよ、それじゃ。そう言えば、夫が着ていた浴衣があるから、それも用意しておくわね」 「ありがとうございます」 「ああ、でも、もしかしたらつんつるてんかもしれないわ」 「え?」 「だって、茜ちゃんも知っていると思うけれど、体つきは今の和明さんと同じくらいだけど、身長がね。夫も背が高い方だけど、今の和明さんに比べたら、ねえ……」  森崎の記憶の中にある、過ぎし日の亜紀の父親は背が高かったし、それは今も変わらない。だが、和明に比べると、確かに少々低かった。しかし、気にはしないだろう。だって――。 「社長はどうだっていんですよ。どうせ、亜紀さまの浴衣姿を見たら、それで満足なんですから」  森崎が呆れながら話すと、受話器の向こうから、楽しそうな笑い声が聞こえた。それにつられて、ついつい森崎自身も笑っていたのだった。  その後、森崎は上条家へ向かった。そこで聡子から見せられた浴衣を見て、ほうと感嘆のため息を漏らす。藍染めとはいえ濃い色合いではなく、少しくすんだ水色に近い浴衣には、波を思わせる模様のほかにふっくらとした愛らしい鳥が二匹ならんで描かれている。衣文掛(えもんが)けに掛けられた浴衣を眺めていると、聡子から話しかけられた。 「これは波千鳥(なみちどり)といってね、ちゃんと意味があるのよ。どんなに厳しくとも、世間の荒波を一緒に乗り越えて行きましょうっていう願いが込められているの」  森崎が見つめる中、聡子がしみじみと浴衣の柄を眺めながら話す。 「だからね、夫婦円満の意味があるのよ。それに、もう一つ意味があるの」  ふふと嬉しそうに聡子が話す。 「千鳥(ちどり)はね、勝運祈願とか目標達成って言う意味も持ってるのよ。千勝を取るから千取り、昔の人って語呂合わせが好きだから」 「そうだったんですか……」 「ええ。和明さんの願いが叶えばいいなと思ってるわ。その願いは、もちろん亜紀と幸せになることであってほしいけれど……」  それまで楽しそうにしていた聡子が、急に表情を曇らせた。 「思い過ごしであってほしいけれど、和明さんの思い描いている結末は、主人と違うような気がするの」  思い詰めた表情で話す聡子を見て、森崎は言葉を詰まらせた。それは、森崎自身もそう感じていたからだ。この計画を和明から聞かされたとき、亜紀を自由にするために、上条会を一掃するとしか聞かされていない。  始めの頃こそ、言葉通りに受け取っていたが、近頃急に亜紀を遠ざけ始めた和明の姿を見て、森崎は不安を感じずにはいられなかった。聡子も、自分と同じような不安を抱いているような気がする。だが、胸の裡にある不安を聡子に悟られまいと、森崎は無理やり表情を明るくさせて話しかけた。 「大丈夫ですわ、聡子さま。社長が亜紀さまを大事に思われていることだけは間違いありません。それに亜紀さまだって……」  和明の部屋で再会したとき、亜紀が見せた表情は女の表情だった。恐らく亜紀は、和明に対して好意以上の感情を持っているはずだ。そうでなければ、あのような表情などできる訳がない。そう確信していた森崎は、聡子に笑いかけた。 「聡子さま、あとは社長と亜紀さまにお任せいたしましょう。私達外野は、そっと見守るくらいでちょうどいいんですから」  森崎がそう話すと、聡子は思い詰めた表情でそうねと言いながら頷いた。
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