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プラナカンの翡翠色

「森崎、これは?」  和明はシンガポールのオフィスで、机の上に置かれている小物入れを指差した。見慣れぬ小物入れは、手のひらに乗る程小さい。水色と緑色が混ざったような色合いに、思わず亜紀のことを思い出していた。彼女の誕生石はアクアマリンだ。薄い色合いの水色が美しい宝石は、偶然にも父親が亡き母親に贈った指輪にもついている。その指輪を彼女に渡したのは、もう遠い過去のこと。  和明は亜紀と再会できるときを待っていた。そのときが来たならば、それまで周到に立てた計画が動き出す。そして全てを終えたら、そのときは――。  そのときのことを考えたとき、和明の表情はにわかに曇った。そのとき、和明から尋ねられた森崎は、小さな小物入れと上司を交互に眺め、苦笑した。 「社長、シンガポールに来てから何年経っていると思っているんです?」  あきれたような声に気がつき森崎を見ると、彼女は口を尖らせて睨み付けていた。その様は、幼い頃を彷彿とさせる。 「俺は仕事だから、ここにいるんだ。観光じゃない」  そう言い切ると、森崎は不満げな顔をした。 「へー、そう言いながら、昨日はどんな夜を過ごしていたんですかね」 「は?」 「昨夜本社から緊急の連絡が入ったんですが、社長と連絡が取れないからと私のところに電話が来ました。それでプライベートの携帯に電話したけど、一向に出ない。あれほど、行方不明にだけはならないでくださいと何度も申し上げていたのになんなんですか」  不満を訴えながら、森崎がじりじりと詰め寄ってくる。咎めるような目で自分を睨み付けている姿は、相当な迫力があった。和明は知らず知らずのうちに後ずさりし始める。それは、暗に森崎に咎められている気になったからだった。  確かに昨夜は仕事帰りに馴染みのバーで酒を飲んだ後、隣り合った女性と過ごしていた。恋愛感情など必要のない関係を求められることは、嫌ではない。だが、行為が終わると途端に虚しくなるし、そろそろこんなことも辞めようとは思う。しかし、それができないから仕方がない。和明は開き直ることにした。 「馴染みの店で酒を飲んでただけだぞ」 「社長がお酒に強いことは十分存じ上げております。でも、だからといって朝まで連絡がとれないってどういうことですか。あっ!」  何かに気がついたのか、森崎が声を大きな声を上げた。その声を耳にしたとき、和明は無意識に表情をこわばらせてしまう。それを目にして、確信したのだろう。森崎はわなわなと体を震わせた。 「もしかして、また、ですか……」  呆れたような声だった。和明はまずいと思い、とっさに目をそらしてしまう。シンガポールに来てからというもの、そんな夜を過ごしたことも一度や二度ではないし、秘書としてやって来たばかりの森崎にそれを感づかれてしまったことがある。  そのとき森崎は多いに怒った。亜紀という大事な存在がいるにも関わらず、何をしているのだと。どうやら彼女は、和明が幼い亜紀と交わした約束を忘れてしまったと思ったのだろう。実際には、その約束を忘れたことは一度もない。  だが、時折無性にやり切れない時がある。そしてそんな感情を持て余したとき、和明は決まって酒場で酒を飲み、声をかけてきた女を抱いていたのだった。  特に亜紀に恋人が出来たと彼女の父親から聞いたときはひどかった。彼女を幸せにするのは自分ではないと誰かに言われたような気がして。しかし、それから数年後、今から四年前だ。彼女がその恋人と別れたと教えられたとき、喜びよりも悲しみが勝り、また酒を飲んで彼女ではない女を抱いた。それからというもの、和明は流されるままに彼女以外の女を抱いてきた。  そんな和明の姿を見続けた森崎は、次第に咎めることもしなくなった。何を思ってそうしなくなったかは和明には分からない。感情と肉体を切り離した行為には、なんの意味も価値もないということを知ったのかもしれないし、それとも別な理由があるからかもしれない。だが、今目の前にいる森崎は、かなり怒っているようだった。 「社長、今ご自分が何をすべきか、分かっていますよね。もう賽は投げられた。そんな状況でそんなことをされると――」 「森崎。分かっている。もう言うな」  森崎の言う通りだ。彼女と見合いをするだけになっている今の状況で、していいことではない。それが分かっているのに、できなかったのは焦っていたからだった。森崎の父親を通じて、自分の父親に亜紀との見合いを申し入れたが、一向にいい返事が返ってこない。  何せ上条家といえば、江戸時代から続く名家のひとつで、かつては政治家との繋がりが濃かった家だ。ただの成金あがりの境家が見合いを申し入れていい家ではない。時代錯誤と言われようが、未だそれは存在しているし、和明はそれを知っている。  だが、上条家は娘の結婚に焦っているし、こちらが婿養子になることを伝えればいい。それに、境家はやっかいものを追い出せるし、政治家になる夢を父親は果たせるのだから何が問題なのだろう。未だ色よい返事をしてこない父親に、和明は焦っていたのである。  だが、だからといってやっていいことではない。父親が受け入れたらそのときは、何を置いても今居る場所から離れなければならないのだから。和明は心の中でため息をつく。森崎を見れば、思い詰めたような表情で小物入れを見つめたまま立っていた。 「お前が何を言いたいのか、よく分かっているつもりだ。だから、もう何も言わなくていい。俺もそろそろこんなことは辞めようと思っていたし、今がそのときなんだろう」  和明は、森崎につられるように水色の小物入れに目を向けた。すると森崎がその小物入れを手に取って、愛おしげに撫で始める。 「これシンガポールのお土産で有名な陶器なんですよ」 「で、それがなんで俺の机の上に置かれているんだ?」  和明が尋ねると、森崎は上司に目を向けた。 「お気づきになられませんか? この美しい翡翠色」  そう言われたとき、和明は気がついた。そういえば、森崎も亜紀の誕生石を知っていると。和明は途端にバツが悪そうな顔をした。 「アクアマリン、彼女の誕生石だな」 「ええ、早くお会いしたいでしょう……。私も早くお目にかかりたいです。あの時はまだ本当にかわいらしいお嬢様でしたから」  亜紀と最後に顔を合わせた日から、もう二十六年の歳月が過ぎようとしている。彼女の父親とは連絡を取り合ってはいるが、聞けば彼女はまるで人形のような生活を送っているという。その内容を聞くたびに、和明の胸はぎりぎりと締め付けられた。  だが、すべてのことから完全に諦めているわけでなく、医師としての誇りだけは失っていないという。そんな彼女の話を耳にするたび、一刻も早く会いたいと思わずにいられない。和明は表情を曇らせ、窓の外に広がる高層ビルの群れを眺め始めた。 「社長、そういえば先ほど父から連絡が入りました」  振り返ると、森崎は小物入れを大事そうに撫でている。  翡翠色。青と緑の混じった美しい色。和明の同僚である中国生まれの男は、翡翠のネクタイピンを好んで付けていた。翡翠は夫婦円満のお守りで、妻とそれぞれ翡翠のアクセサリーを贈りあい、それを身につけることが互いの愛情を示しているのだと彼は誇らしげに話していた。その話を聞いたときのことを振り返っていると、森崎が静かに告げる。 「お父さまが、ようやく縁談を進めるよう手配をしたとのことです」  森崎から笑みを向けられ、和明はジャケットの内ポケットから素早くスマホを取り出した。  そしてその一か月後、和明は亜紀と再会を果たすことになる。
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