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第32話

 マリィの店・シャルムには、客は来ない。  一応バーではあるが、強力な結界が張られているため、許されているものにしか店の入り口は見えないことになっているらしい。真は、店の前に立ち、扉を凝視した。  いつもならなんのためらいもなく扉を開けることができるのに、今日に限ってそれができない。先ほど気づいたことのせいで、急いでやって来たものの、いざ扉を前にしたら、途端に勢いが削がれていった。それは。身勝手な言葉をマリィにかけてしまったことを申し訳なく思ったからだった。  この二か月のあいだの記憶を消してほしいと頼んだら、マリィは理由を聞かずに承諾してくれた。そのときマリィは何を思っただろう。好きだと言われたあとだけに、その相手からそんなことを頼まれたマリィの立場になって考えると、どんどん苦しくなってくる。  だが、そうでもしなければ、彼女が姿を消した後つらすぎる。始めの頃こそ最悪だったけれど、今では心の一番柔らかいところに住み着いてしまった相手だから。その相手が心の奥で所在なさげにしている。そんな気がした。真はそこから広がり始めた痛みを振り切るように、扉のノブに手を伸ばす。そして、いつもと同じように開けたのだった。  重い扉を開くと、見慣れた光景が広がっていた。  セーレがたしなむ葉巻の匂い。そしてリーシャが好きなドビュッシーの曲が流れる店内を目にしたものは、オーセンティックなバーだと信じて疑わないだろう。天井からつり下げられたライトの光が、磨き込まれたカウンターを照らしている。いつもと何ら変わらぬ光景を目にしたとき、真は無意識のうちにほっと胸をなで下ろした。 「よお、お疲れさん。今日は何飲む」 「え?」  唐突に声を掛けられ、真はカウンターの中にいるセーレに目を向けた。  白いシャツに黒いズボン、これもいつも通りの格好だ。  だが、何かが違う。  真はいつもとは違う空気を感じ取り、ついマリィを探し始めた。  いつもなら、マリィはカウンターの席に座ってセーレと口げんかをしている。扉を開けると、真っ先に駆け寄ってきて、強引に奥の部屋へ連れていこうとするのにそうではなかった。急に不安が募ってきて、真は焦り始める。 「真、マリィなら奥の部屋にいる」 「えっ?」  店の入り口できょろきょろとしている真に、セーレは落ち着いた声で告げた。 「なんでも、お前を驚かせてやるんだと張り切っていたから、まあ、すまんが付き合ってくれると嬉しい」  真がカウンター席に着くと、セーレからグラスを差し出された。中にはいつもと同じように、琥珀色の酒が入っている。幻想的なピアノの調べに耳を傾けながら、真はグラスに口をつけた。  結婚していたときは、妻が家にいないことが当たり前になっていたし、それに焦りを感じたことがない。  しかし、今はマリィがそこにいないだけで焦りを通り越して動揺している。それは、彼女がいつ目の前から消えるか分からないことが大きい。  この二か月、いろんなことがあった。マリィと関わっていなかったなら、我が身に降りかかった不幸の原因を知らないまま過ごしていただろう。そして、全てを諦めて味気ない生活を送っていたに違いない。それに、マリィの加護のおかげで海外事業部への復帰も果たせた。このとき、真はあることに気づく。  海外事業部に統括室ができたのは、悠木の提案によるもので、インドにいたときから創設のために根回しをしていたらしい。そして統括室のメンバーも、その頃から決めていたようだった。ということは、海外事業部に復帰を果たせたのは、マリィの加護ではなく悠木の尽力があったからこそではないか。真はそこに気づいたのだった。  しかし、冷静になって考えれば、部内に新しい部署を作ることは難しい。それは真自身がよく分かっていることだ。真が推し進めていた部内の再編だって、一年以上に渡り地道に賛同者を増やしていたから実を結ぶ一歩手前までこぎ着けたのだから。 『あなたがこれまでやって来たことがあったからよ。加護はその結果が出るのを早めるだけだから』  ああ、そうか。そういうことか。マリィからこの言葉を告げられたとき、分かったつもりでいたけれど、時間をおいて考えてみるとその言葉の意味がよく分かる。悠木の尽力、そして自分自身がそれまで努力していたものに、マリィの加護が重なって結果が出たということだ。真が、酒を飲みながらそんなことを考えていると、セーレから声を掛けられた。 「何かあったのか?」  真は、口に運んでいたグラスをカウンターに置いて、向かいにいるセーレを見上げた。  いつも何を考えているのか分からぬ鉄面皮の男の表情が、不安げなものになっている。  そういえば、いつもセーレから気に掛けてもらっていたことに、真は今更ながら気がついた。 「いや、何もないよ」 「真、お前忘れてないか? 俺たちが人間の心を読み取ることができることを」  そのとき向けられた黒い瞳が、ぼんやりと光った。真はうっと息を飲む。  しばらく銀色に光る瞳から目が離せないままでいると、セーレが苦笑した。 「マリィが待ってるから、これ食ってさっさと行け」  そういって差し出されたものは、白い皿だった。その上に細長いものが乗っている。一見すれば干したごぼうのように思われるが、今までの経験から彼らがまっとうなものを出すわけがない。真が皿の上に乗せられたものを凝視していると、細長い指が干物をつまんだ。その指を目で追いかけると、セーレがそれをポリポリと音を立てて食べ始めた。 「うん、なかなかうまいが、味が足らんな。塩こしょうで和えたら、いいかもしれん。ちょっと待ってろ」  そう言って、セーレは出した小皿を引っ込めたあと、慣れた手つきで干物をちぎり、塩こしょうで和え始めた。真がその様子を見ていると、セーレはできあがったものを新しい皿に盛り付ける。 「ほれ、これなら食えると思うぞ」  差し出された皿に盛り付けられたものを、真は指でつまんだ。  そして、恐る恐る食べると、飲み込んだ瞬間体の奥がカッと熱くなった。  股間がむずむずと疼き出したと思ったら、じんじんと火照りだす。 「……これ、なんなのか、聞いていいか?」  嫌な予感しかしないが、それを隠して尋ねると、にやりとずる賢い笑みを向けられた。 「マンドラゴラの男根を干した物だ。俺が手ずから作ってやった強壮剤だから、効果は抜群。有り難く食えよ」 「はあ?」 「今日は寝かせてもらえないと思うから、頑張れよ、真」  真は、目を大きくさせて盛大なため息をついた。
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