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第30話

 甘い匂いに気がついて、真は目をさました。  重いまぶたを開くと、目の前でマリィが心地よさそうに眠っていた。  すやすやと寝入るマリィの寝顔は、ついぞ先ほどまで乱れに乱れた彼女とは思えない。  初めて彼女の姿を目にしたときから、もう二か月近くが経っている。その間、肌を重ねた数は多いけれど、どこまで彼女のことを知っているのだろうか。そんな疑念が頭に浮かぶ。  親密さで言えば、四年近く結婚生活を続けた元妻よりも、二か月セックスだけの付き合いをしているマリィの方が勝っている。それを考えると、付き合いが長いからと言って、親密さは比例しないということがよく分かる。要は相手にちゃんと向き合おうとすること、そして行動することが必要だ。それがないと、幾ら長く付き合っても、関係はなんら変わらないのだから。  それを分かっているつもりだったが、実際はそうではなかったらしい。  妻の浮気に端を発した一連の出来事は、不幸なんかじゃない。妻に向き合おうとしなかったからだ。  それを『裏切られた』と思っていた自分が愚かに思えてきて、真は苦笑した。  裏切っただなんて、相手に対していかにも誠心誠意尽くしたような言い方だ。  実際は、年齢差を言い訳に逃げていただけなのに。  すると悠木と再会したとき、告げられた言葉が頭の中に浮かんできた。 『あのときは、まさかやり直せるとは思っていなかった。でも、目の前に絶好の機会が舞い込んできた。だから、俺は必死になった。なりふりなど構わずに。それがいい結果に繋がっただけだ』  年を重ねると、がむしゃらに足掻くことができなくなる。  それは外聞だったり見栄だったり、そんな余計な垢にまみれてくるからだ。  学生時代は、しょうもないことに一生懸命になっていた。だが、今は……。  真が現在の己の姿を思い浮かべていると、眠っていたマリィがもぞもぞと身じろぎした。 「う……ん、真?」  寝ぼけたような声に気づいたときには、腕を首に回されていた。細い腕が絡まりついてきて、そのまま引き寄せられる。柔らかな唇が押しつけられたとき、マリィの甘い匂いに包まれて、得も言われぬ程の多幸感が胸いっぱいに広がった。  マリィが好きだ。たとえ彼女が自分と異なる存在であっても。  しかし、マリィへの恋慕の情に気づいた瞬間、胸に鋭い痛みを感じた。  いずれ彼女は彼女自身がいるべき場所に帰る。そして自分ではない雄を伴侶に選ぶのだ。  この柔らかな体も、唇も、自分ではない雄のものになる。それがどうにもつらかったのだ。 「マリィ」  ――好きだ 「マリィ」  ――このまま俺の側にいてほしい  足掻いても足掻いても、どうにもならないこともある。それもまた真実だ。  だから真は、叶うはずもないことを胸に秘め、マリィの名を愛おしげに呼んだ。  するとマリィが、か細い声で話し始める。 「真……、好きよ」  すり寄せてきた体をしっかり抱き締めると、彼女の体が細かく震え始める。 「このまま一緒にいられたらいいって言ったのは嘘じゃないわ……。でも……」 「……それ以上、言うな」  マリィを抱き締めたまま真は言い捨てた。思い知らされたばかりのつらい現実を、マリィの口から聞きたくなかったのだ。しかしマリィは、泣きじゃくりながら頭を振った。その頭を抑えつけ、宥めるようになめらかな肌をさすりながら、真は身を切られるような痛みに耐えた。 「マリィ、頼みがある。お前たちがいなくなるとき、俺の記憶を消してほしい」  真がそう言うと、マリィが勢いよく顔を上げた。ぼろぼろとこぼれた涙が頬を濡らしている。マリィから涙で濡れた黒い瞳を向けられて、真はいたたまれない気持ちになったが、目をそらすことなく見つめ返した。 「……分かったわ」  真が真剣な目で見つめ返すと、マリィは小さく頷いた。  それを目にした直後、真はマリィを再び抱き締めた。 「そのとき」がいつなのかは分からない。けれど、マリィの様子からさほど遠くないことが覗えた。時間がないと自覚したとたん、急に気持ちが焦り始める。募る焦りは不安を呼び起こした。揺れる甘い匂いを胸いっぱい吸い込んでみたけれど、勿論それは消えてくれるわけがない。しかし、今はマリィといずれ離ればなれになることは考えたくなかった。  幾ら足掻いたところで、どうにもならないことはある。  それを思い知らされて、真は苦い思いを抱いたまま、いつの間にか意識を手放していた。
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