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第4話

 胸の奥に溜まっていたものが涙となって溢れたあと、急に申し訳ない気持ちが沸き起こってきた。  それというのは、この五年の間、悠木と連絡を取らなかったからだった。  悠木の異動と縁談が重なり、公私ともに忙しくなったのが連絡を取らなくなった理由だ。  だが、それ以外にも訳がある。  離婚しインドへ厄介払いされた悠木と、上司の娘との縁談が決まり出世街道を歩もうとしていた真。二人の状況が天と地ほどの差があるように感じられて、いたたまれない気持ちになったからだった。  悠木がどんな男か、十分過ぎるほど分かっている。  己が不幸に見舞われても、親しい人間の成功を我がことのように喜んでくれる男だ。  しかし、結婚相手の父親が悠木を苦しめ続けた末にインドへ行かせた男なだけに、悠木に関われば面倒なことになる。結局自分は天びんにかけただけなのだ。世話になった先輩と自分の未来を。そう思うと後ろめたい気持ちばかりが募ってくる。  だが、悠木は己の才覚で苦難を乗り越え、幸せを掴んだばかり。  片や自分は……。  我が身の不幸を振り返ったとき、禍福はあざなえる縄のごとしという言葉が頭をよぎった。  良いことと悪いことは交互にやってきて、誰しも平等に与えられているのだろう。  だとしたら、いつかは現状を抜け出せることができるだろうけれど、それがいつかは分からない。  真がなかなか明けない夜に思いを馳せていると、急に悠木が話し始めた。 「そう言えば、あいつも会いたがってたぞ、お前と」 「えっ?」 「美咲だよ。何度か一緒に食事しただろ?」  美咲とは、悠木の妻だ。確か法律事務所で働いていたと記憶している。  最後に顔を合わせたのは、悠木が離婚する少し前だったはずだ。  それまで女っ気がなかった悠木が突然結婚すると聞いたとき、周囲の人間たちと同じように真も驚いたものだった。しかも、その相手とは十歳年が離れているというではないか。若い女性との結婚を聞きつけた口さがない同僚達は皆、悠木のことを「犯罪者め!」と罵っていた。その言葉の裏には、羨ましさが含まれていたことは間違いない。 「結婚式、来てくれるよな?」  悠木が最初の結婚をしたときのことを振り返っていると、急に尋ねられた。真は悠木へと目を向ける。 「俺たち夫婦の再出発の日だ。祝ってくれると嬉しい」  照れくさいのか、悠木は鼻をぽりぽりと掻きながら苦笑していた。再出発という言葉を耳にして、急にどのような経緯でそうなったのか興味が湧いた。 「どのような経緯でそうなったのか、気になるところです。あのときのことを、俺は知ってるから」  そう話すと、悠木が急に表情を曇らせた。恐らく五年前のことが頭に浮かんだのだろう。  実際、離婚したばかりの悠木から打ち明けられた話を思い返すと、自然と気持ちが沈んでくる。  あのような不幸な出来事があったにもかかわらず、二人は夫婦に戻った。五年という月日の中で、それぞれ思うことがあったのではないかとは思うが、それだけでやり直せるほど簡単なことではない。何かきっかけがあったはずだ。それぞれの思いが、変わっていなかったことを確かめ合えたきっかけが。真は真剣なまなざしを悠木に向けた。 「インドから帰国した日、彼女の姿を見かけたんだ。しかも、二人が初めて出会った場所で。そのあと、二人で話し合うことができた。あの頃はお互いに疲れていたからできなかったからな……」  しみじみと話す悠木の目は、どこか遠くを見ているようなものだった。真はそれを見たとき、その当時のことを悠木はようやく過去にできたような気がした。それと同時に、今の状況を過去のものとして思える日が自分にもやってくるのかどうか分からず、不安が募る。  明けない夜はないと信じていても、ときにそれが揺らぐことがある。  一抹の不安に心が揺れたとき、急に悠木が肩を組んできた。 「あのときは、まさかやり直せるとは思っていなかった。でも、目の前に絶好の機会が舞い込んできた。だから、俺は必死になった。なりふりなど構わずに。それがいい結果に繋がっただけだ。だからな、槙野」  ぐっと体を引き寄せられた。 「必ず夜は明ける。俺はお前に何度もそう言ったはずだ。そのときが来たら、必死になって足掻け。なりふりなど構わずに。今はそのときを待つんだ」  悠木がインドへ行ったとき、彼が本社に戻ることはないだろうと、まことしやかに囁かれたものだった。悠木に非がないことは明らかなのに、あの出来事を隠そうとして常務が決めた異動だったから。  だが、悠木は「そのとき」を待ち続けたのだろう。彼の言葉の通りに。だから、今こうして幸せをつかみ取ったのだ。それを思うと、いつの日にか自分にも「そのとき」がやってくるのではないかと思えてくる。ただ、それがいつなのか分からないから不安になってしまう。  しかし、今は信じるしかない。悠木が常々話していた通り、明けない夜はないのだと。  そのときが来たならば、今の悠木の通り必死になって足掻こうと、真は思った。 「じゃあ、招待状送るからな」  そう言った後、悠木は帰路についた。最愛の妻が待つ家へ向かう姿は、幸せそうに見える。  それを見送りながら、真は結婚していたときのことを思い返した。  別れた妻との間に、男女の愛情があったかどうか分からない。ただ、多少なりとも好意を抱いたから結婚を決めたのだが、結婚したあとその感情が深まったかどうか問われたら困ってしまう。もしかしたら、お互い何かが欠けていたのかもしれない。大切な何かが。  とはいえ、もう離婚している相手とのことをあれやこれや考えても詮無いことだ。現に彼女は再婚したし、子供も生まれている。それに何より、真自身やり直したいという気持ちがない以上、結婚は離婚したときから既に過去のものになっていた。  浮気相手と一緒にいる妻を見たとき、わき起こった感情は嫉妬ではない。  それは、仕事相手から裏切られたものと同じような感情だった。  あの結婚は、契約と同じようなものだった。夫婦という体裁をとってはいたが、現実は上司から娘の未来を預けられただけで、夫という体で彼女の保護者となったようなものだった。  四年に亘る結婚生活を振り返っているうちに、いつの間にかあの長屋へ足を向けていた。入り口に立ったとき、ついあの香りを探してしまったけれど、それはどこにもなくて寂しさを感じたものだった。同時に夢だと思い込んだ女の姿が浮かんできてしまい、妙な気持ちになってきた。  だが、真は踵を返した。  心に芽吹いた感情がなんであるか、考えることもないままに。
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