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第3話

 悠木から届いたメールに書かれていた店は、昨夜の店にほど近い場所だった。  店へと向かう途中でそれに気づいた真は、記憶を頼りにしながらあの店へと足を向けた。  大通りの裏にある小さな路地には人気がなかった。低層のビルが幾つかあるが、そのいずれにもテナントが入っている様子はない。うら寂しい通りを進んでいくと、あの店が入っている長屋に行き着いた。 「確か、ここだ……」  しこたま酒を飲んでしまった末に行き着いた場所だ。酔っていたため、どこがその店なのか覚えていない。ただ、あの甘い匂いだけははっきりと覚えている。その匂いに引き寄せられた先で、見てしまったものが脳裏をよぎる。  あれは不思議な光景だった。鮮やかな赤い髪を振り乱し、恍惚としながら腰を振る女の姿は、とても扇情的だった。しかも、視線に気づいたのか向けられた瞳は金色で、とても人間とは思えない。やはり夢だ。しばらく女を抱いていないから、酒のせいで溜まっていた劣情が沸き起こり、それであんな夢を見てしまっただけだ。真は長屋の店を一通り見渡したあと、そう言い聞かせ踵を返そうとした。  だが、引き留めるかのように、あの夜と同じ匂いがした。真は思わず振り返る。甘いがさほど鼻につくような匂いじゃない。むしろ(すが)しささえ感じさせる不思議な匂いだった。その香りに誘われるように、真は長屋へと近づこうとする。だが、そのとき、ジャケットの内ポケットに入れていたスマホが震えだした。それではっとなり、真は我に返る。ぶるぶると震えるスマホを取り出して、着信を確かめると悠木からだった。 「もしもし?」 「槙野、今どこにいる?」 「あ、ええと、そろそろ着きます」 「そうか、なら良かった。じゃあ、俺はお前を待ちつつ飲んでるからな」 「はい、多分あと数分でつくと思いますので、待っててください」  悠木と待ち合わせした店は、この路地の一つ奥にある。だから急いで行けば、数分で着くはずだ。  電話を切ったあと、真はもう一度長屋を見渡した。  やはりあれは夢だ。そしてあの女は幻。そう自分に言い聞かせたが、そう思い切れずにいる。  それに、叶うことならもう一度あの女に会いたいと思い始めていた。それだけ美しい女だったから。  だが、きっともう会うことはないだろう。あの店がこの長屋のどこにあるのか分からないし、万が一その店が分かったとしても、あの女は客だったかもしれない。それならどんなに探しても無駄だ。  鼻をかすめた甘い匂いを追いかけてみたけれど、もうすっかり消えている。  真は長屋に心を残しながら、悠木が待つ店へ向かうことにした。 「災難だったな、お互いに」  そう言われて真は表情を曇らせた。  確かに悠木の言う通り、災難以外何物でもない。  五年前、離婚した悠木がインドへ行ったあと、真に見合い話が舞い込んだ。悠木をインドへ行かせた部長の娘との縁談である。当時、真は海外事業部の次のエースとして期待されていたし、その期待に応えるような結果を出していた。そんな男に目を付けたのが現在常務として権勢を振るっている元海外事業部部長だった。  大学を卒業したばかりの娘と見合いをし、トントン拍子に結婚したが、二人の夫婦生活は四年目を迎えることなく破綻した。妻の浮気が理由である。しかも、その相手は真の後輩だった。  更に義父に当たる常務からは、娘が不貞を犯したのは、真が不甲斐ないからだと言いがかりを付けられてしまい、その上海外事業部推進課課長から総務部福利厚生課長課長へ異動させられた。そしてその後、妻の浮気相手はどういうわけか昇格し、真がいた職へ就いたのだ。つまりは、妻と課長の椅子をその男に奪われたということになる。  男盛りとはいえ三十五歳の真との結婚生活は、一回り下の妻にとってはつまらないものだったかもしれない。その証拠に結婚したばかりの頃から、いろんな理由をつけて実家に帰ってばかりだったし、仕事で遅い時間に帰宅しても妻の姿はなかった。  だが、真は真なりに、妻に寂しい思いをさせないように心を尽くしたつもりだった。大学を卒業したばかりの妻と過ごす時間をどうにか捻出したかったけれど、何せ取り引き相手が海外だ。それに責任ある職に就いている以上難しいものがある。だから実家に帰ることも、友人たちと頻繁に遊び回っていることも大目に見ていた。  しかし、離婚する一年前から妻の様子が変わった。遅い時間にまで出歩くことは多かったけれど、やがて外泊するようになっていた。それをそれとなく義父に尋ねてみたところ、実家には来ていないという。始めの頃は遊んでいる間に、友人の家に泊まっているとばかり思っていたが、そうではなかった。  会社に出勤したとき、妻が運転する車から自分の後輩が出てきただけでなく、別れを惜しむキスまでしていたのを見てしまい、妻の浮気を知ったのだ。そしてその直後義父に呼び出され、離婚するよう迫られた。  どうやら妻は浮気相手の子供を身ごもったらしく、外聞を気にする義父は早々に離婚させて、浮気相手と結婚させようと思ったらしい。そして離婚が成立したあと、真は突然異動させられた。離婚して一年後のことである。  気心が知れた悠木と酒を飲んでいるうちに、気が緩んでしまったのだろう。離れていた五年のあいだの出来事を話しているうちに、ついついそんなことまで話していた。そして、全てを話し終えたあと、悠木がぽつりと零した言葉を耳にして、真は静かに目を閉じた。 「まあ、よくあるっちゃある話ですよ。運がなかった、それだけです」  胸の裡を吐き出すようにしてそう言うと、体の力が抜けていった。義父から掛けられた言葉の通り、自分が至らなかったせいもあるだろうが、やるせない気持ちにさせられる。だが、同時に悔しさもあった。妻の浮気を知ったときや、突然の異動を知らされたとき、その気持ちがふつふつと沸き起こったのを今でも覚えている。しかし、だからといって何もできないまま時間ばかりが過ぎていく。常務が権勢を振るっている限り、自分には未来がないと思わされたものだった。  恐らく悠木だって、五年前同じ思いを抱いたはずだ。考えてみれば、互いにその男に振り回された者同士だ。多くを語らずとも、悔しい気持ちがよく分かるのだろう。悠木は、真の隣で静かに酒を飲みながら聞いていた。 「俺もお前も、これからだ。俺が日本に戻ってきたからには、お前を今のままにはしておけない。必ず海外事業部にお前を戻してやるから」  いきなり肩を抱かれ、励まされた。だが、日本に帰国したばかりの悠木には今はなんの力もないし、常務が会社にいる限りは難しい。それを十分分かっているけれど、悠木の優しさが有り難かった。真はだまったまま、頷きを繰り返す。 「今の推進課は酷いありさまだ。当たり前だ。采配を振るう男がコネ頼みの情けない男だからな」  悠木が話していることは事実だった。娘婿として迎え入れられた男は、義父である常務の言いなりで、自ら動こうとしない。その結果、推進部は活気を失っているし、そこにいる人間も覇気がない。皆、課長の顔色をうかがうようになっているのを真はよく知っている。 「あと二年耐えろ、槙野」 「え?」 「あと二年もすれば、常務はいなくなる。そのときまでに俺はお前の戻るポジションを作るから、それまで待てと言っているんだ」  肩を組む悠木を見ると、泣いていた。どんな些細なことであっても、我が身のことのように考えてくれる男の言葉が胸にしみる。たとえ掛けられた言葉が言葉だけのものであっても、悠木の気持ちが嬉しくて、真も泣いていた。
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