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第2話

槙野(まきの)課長」  急に呼びかけられて、(しん)は現実に引き戻された。視線を上げると、そこには課員の峰岸(みねぎし)が、怪訝そうな表情を浮かべて立っている。 「どうした、峰岸」  仕事以外のことを考えていたことを悟られないうちに尋ねると、すっとクリアファイルを差し出された。中には数枚の用紙が入っている。 「これ、海外事業部から急ぎでと頼まれまして」  どうやら至急の届け出らしい。差し出されたファイルを受け取って中身を確かめてみると、住所変更届とともに身上異動届が入っていた。 「ありがとう。すぐに処理するよ」  礼を言うと、峰岸はぺこりと頭を下げて自分の席へ戻っていった。入社して間もない峰岸の背中は、どこか頼りない。だが、自分だってそういう時期があったことを思い出し、気を取り直して渡された書類のチェックをし始めた。するとその書類に書かれている名前を見たとき、真は驚きの余り大きな声を出してしまう。 「ええっ!? 再婚?」  自分が出してしまった声が、思いのほか大きかったせいで、課員たちを驚かせてしまったらしい。彼らの視線に気づき、真はどうにか誤魔化そうとして、何事もなかったかのように仕事を再開させた。  真が驚くのも無理はない。なぜなら、届け出をした職員が、離婚した相手と再婚したからだ。しかも住所変更後の住所が、結婚していた当時住んでいたマンションになっている。見覚えのある住所を目にしたとき、真は苦笑した。  彼は、――悠木浩樹(ゆうき ひろき)――は、真にとって兄貴分のような存在だった。右も左も分からない新入社員のとき、公私ともに随分世話になった男である。真が海外事業部から企画事業部へ移ったあとも、その付き合いは続いていた。しかし、この五年のあいだは疎遠になっている。  とはいえ、世話になった先輩の結婚を嬉しく思わないわけはない。  だが、真は素直に喜べなかった。 それは、自分自身に突然降りかかった不幸のせいだろう。  離婚と左遷、これらが相次いで起きた身としては、複雑な気持ちになって当たり前だ。  五年のあいだ、いろんなことが起きた。それらを振り返っているうちに、真の表情は自然と沈んだものになっていた。だが、幾ら気落ちしても、仕事はしっかりやらねばなるまい。たとえ左遷された先の仕事でも。そう思い返し、真は気を取り直し仕事を再開させたのだった。するとそのとき、机の上にある電話が鳴った。 「はい。労務管理課、槙……」 「槙野! 元気だったか?」  名乗りきらないうちに、受話器の向こうから元気な声が聞こえてきた。懐かしい声に、真はすぐに破顔する。電話を掛けてきたのは、届けを出した本人だった。 「悠木さん。相変わらず元気ですねえ……」 「なんだよ、おまえ。そのらしくない声は。おまえの良いところは、張りのある声だって言っただろ!」  いきなり発破を掛けられてしまい、真は苦笑する。悠木といた頃のような気合いも気力も、今ではすっかり萎れてしまっている。だが、それを見せたくなくて、真は腹に力を込めた。 「すみません。総務は営業と違って印象づける必要がないので、つい……」 「総務だろうが営業だろうが関係ない。おまえの声は張りがあるけど落ち着いていて、頼りになりそうな印象を相手に与えるんだ。持って生まれた声をもっといかせよ、って散々教えただろ?」  張りのある威勢のいい声が、いかに今が幸せなのか物語っている気がした。それに羨ましさを感じずにいられない。一年前の離婚がなかったら、そのような感情は抱いていなかっただろう。真は沈んだ表情で、小さなため息を零した。 「ところで、だ。届けは着いたか?」 「え? ああ、はい。先ほど峰岸から受け取りました。このたびは御結婚おめでとうございます」 「でも、同じ相手との再婚だけどな。あのときは、本当に世話になった。感謝してる」  悠木が言うあのときとは、五年前のことだ。ある女性から執拗なストーキングを受けてしまい、その手が妻に伸びたことによる離婚である。離婚した直後、悠木はそれを隠していたが、二人きりで酒を飲んだとき、つい気が緩んでしまったのだろう。その話を聞いたとき、真はそのようなことが本当にあるのかと驚いたものだった。  悠木が、頑なに被害を隠し通したのには理由がある。それは行為を繰り返していた相手が、大事な取り引き相手の娘だったからだ。幾度となく取り引き相手に相談したようだが、娘を愛する父親は聞く耳を持たなかったらしい。その上、悠木の上司は取り引きが終わるまでは持ちこたえてくれの一点張り。  そうこうしている間に、相手は妻に電話を掛けた。悠木は、その内容までは教えてくれなかったけれど、妻が不信を抱かずにいられないような内容のものだったらしい。疑心暗鬼になったであろう妻から問い詰められたとき、順を追って説明すれば離婚は回避できたと思う。だが、できなかった。真はその理由もまた知っているだけに、なんと返せばいいのか迷った。 「そうだ、今日、飲みに行かないか?」 「えっ?」  返事に困っていると、唐突に酒に誘われた。真は、つい声を上げてしまう。 「と言っても、晩酌程度だ。遅い時間にはならん。一応新婚だからな」 「それなら付き合いますよ。昨日深酒してしまったせいで……」  したたかに酒を飲んでしまい、その後目にした衝撃的な光景が脳裏に浮かんできた。 そのことを口走ってしまいそうになり、真は慌てて口をつぐむ。あれは夢だ。その証拠に、気づけば自宅のベッドで休んでいたではないか。そう自分自身に言い聞かせたあと、真はゆっくりと口を開く。 「なかなか酒が抜けなくて、かなりつらいんですよ。実は」  声を潜めて言うと、受話器の向こうから呆れた声がした。 「おまえ、酒弱かったからなあ。まあ、そういうことなら、仕方がない。俺だけ飲むから、それに付き合え。場所はメールするから」 「ええ、ではお待ちしてます」 「あとな、届け出、なるべく早めに頼むぞ。いつどこへ行かされるか、分かったもんじゃないからな」  確かに、悠木の言う通りだ。真は、つい苦笑してしまう。振り返れば、悠木がインドへ行ったのは、(くだん)の件が理由だった。当時の上司が事件を隠したいばかりに、インド支社の立ち上げともっともらしい理由をつけて追い出したことを真は知っている。そして、それは悠木も感づいていただろう。  五年のあいだ、悠木は一人で奮闘し、インド支社を立ち上げた。もともと才気煥発な男である。離婚した直後ではあったけれど、逆境ともとれる状況を生来の負けず嫌いで乗り越えたことくらい、容易に想像できた。  真は、すぐに届いた書類をチェックし始めた。特に問題がないようだし、これならすぐに届け出は受理されるだろう。チェックを終えて返事する。 「分かりました。今日中に総務部長へ上げときます」 「頼んだぞ。じゃ、あとでな」 「はい、では失礼します」  別れの挨拶を告げたあと、すぐに着信は切れた。それと同時に、真はチェックし終えた届けを持って席を立ち上がり、総務部長がいる部屋へ向かったのだった。
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