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《番外編》三十三個のキスのあと 2

 アイスを食べ終えたときにはすでに深夜1時になっていた。明日も仕事があるし、このまま寝室に向かう。羽織っていたガウンを脱いで田沢はパジャマに着替える。ふわふわとした手触りのパジャマは田沢のお気に入りだった。横沢に言わせるとずいぶん色気がないらしいが、心地よい睡眠に色気が関係あるのかと彼女が噛み付くと、横沢は苦笑いを浮かべただけだった。  パジャマに着替え終えた後、田沢は勢いよくきれいに整えられていたベッドに飛び込んだ。深い藍染のベッドカバーは二人で一緒に染めたものだった。  二人が付き合いだしたころ、忙しい仕事の合間を縫って旅行を楽しみながらいろんなものを一緒に作ってきた。旅先で体験工房を見つけると二人で申し込んで、焼きものや染色を楽しみ、それを旅の土産にする。たとえからだのつながりがなくとも、心は確実に寄り添いあっていたのだし、それで田沢は満足していたのだ。 ――――不倫をしていたころはあんなに欲しくて堪らなかったのに  思えばあのころは相手の心が欲しくて堪らなかった。だけどそれを口にしてしまえば相手の男が自分から離れていってしまうような気がして言えなかった。それに相手に妻子がいることを承知の上で結んだ関係だからこそ、その言葉を言ってしまえば本当に押しつぶされてしまいそうだった。  あれは恐らく不安から来ていたものだろう。相手の心が本当に自分にあるのかわからないからこそ、必要以上に体の関係を求めていたのかもしれない。互いに激しく抱き合って疲れ果てて眠り込んでしまい、翌朝目覚めたとき一番そばにいて欲しい人がいない空しさを知っているからこそ、そのときだけは激しく求めていたのだ。田沢はベッドでうつぶせになりながら、そのころのことを思い出していた。  横沢と付き合いだした頃、互いに忙しいことも手伝ってまともにデートなどできなかった。せいぜい残業帰りに落ち合って一緒に食事を取る程度だ。だけど、それに田沢は不満を感じたことはない。側にいてほしい人と人目を憚ることなく一緒に出歩けて食事をとるといったものが、とても幸せなことのように思えていたからだった。  そうしていたとき流れで旅行の話になったとたん、横沢が顔を曇らせた。その理由がわからず田沢は戸惑ったものだが、そのとき横沢から告げられた言葉でその理由が明らかになった。 ――――俺、勃起障害なんだ。だから抱きたくても最後まで抱くことができない  話の流れで旅行の話をしただけだというのに、横沢はいつまでたってもキス以上のことをしようとしないことを遠まわしに責められていると思ったのだろう。そのときの横沢は困り果てたような顔をしていた。それを聞かされた田沢は、最初は驚いたものだがすぐに頭を切り替えて、横沢にこう告げた。 「セックスよりも大事なものってあると思う。だけどセックスも大事なことだと思う。でも今は二人で一緒に時間を過ごしたいの、セックス以外で」  女として愛する男に求められ、その腕に抱かれる喜びはすでに経験している。そしてその行為から得られる幸福感も田沢はすでに知っていた。だけどそれは愛する人の側にいることができないことと引き換えにして得たものだった。  だから田沢は体のつながりよりも心のつながりを選んだ。横沢の側にずっといたい、二人で一緒の時間を過ごせることがいかに幸せなものなのかわかっているからだ。  一緒にいられるときは二人で過ごし、一緒に何かを作ったり、それぞれが違うことをしていても同じ空間にいられることが幸せだった。互いのぬくもりを分け合うように抱き合って眠る夜も、横沢と一緒にいられるだけで田沢は幸せを感じていた。  そして変化は唐突にやってきた。いつものように金曜の夜二人で過ごしたあとベッドの中で抱き合って眠っていると、横沢の様子がおかしいことに気づいた田沢は彼に声をかけてみた。するとそのときそれまで彼女を抱きしめていた横沢の手がもぞもぞと田沢の体を撫で始めた。  まるで官能をたかめるような手の動きに田沢は戸惑ったものだが、そのとき彼のペニスの硬さを感じ思わず彼女は横沢に抱きついた。無言の同意である。だが、横沢はいつまで経ってもそれ以上のことをしようとしない。それにじらされている気分になった田沢は横沢に抱きついたまま、抱いて欲しいと告げた。するとそれまで遠慮がちだった横沢の手の動きが大胆なものへ変わり、ようやくその夜二人は結ばれたのだ。  その日からもう半年が過ぎた。今では問題なく二人は抱き合っているし、互いへの思いを伝えあうようなセックスをしていた。そこには激しさこそないが穏やかな心地よさばかりがあった。ただ時折横沢が見せる激しさに飲み込まれそうになるが。田沢がふかふかの羽毛布団の上でそんなことを考えていると、洗い物を済ませ終えた横沢が寝室に入ってきた。 「またそんな格好で寝るつもりか?」 「気持ちいいんだもーん」 「ほら、さっさと寝ろよ。明日も仕事だろ」  横沢がベッドでうつぶせになっている田沢の尻を軽く叩いた。田沢は寝返りを打ちながら、羽毛布団の中にもぐりこむ。すると突然横沢に抱き寄せられてしまい、彼の胸に顔を押し付けられていた。横沢は田沢の着ていたパジャマのすそをたくし上げ、もぞもぞと彼女の体を撫で始めた。 「誰よ、さっさと寝ろって言ったの」 「俺だけど?」 「で、今何してるの?」 「セックスしたくなったから、誘っているんだけど」  人のパジャマを色気がないと言っているくせに、自分こそ色気のない誘いをしていることに気づいていないらしい。田沢はぷっと吹き出してしまう。 「普通はもっと色気のある誘い文句を言うんじゃない?」 「俺に色気を求めないでくれ。非常に困る。それよりも……」 「ん?」  横沢の手がパジャマのズボンにかかる。少しためらっているのか、その手は田沢の尻を優しい手つきで撫で始めた。 「黙って俺に抱かれてろ」  そういうと横沢は田沢の尻を鷲づかみにし、ぐいと彼の体を押し付けてきた。田沢は横沢の硬くなったペニスの感触を腹に感じ、何も言わずに横沢に抱きついた。  肌の上をやさしく撫でるように横沢の手が動く。少しずつ官能を高めていくようなその手つきがもどかしく感じ始める。田沢は身じろぎをしながら横沢の着ていたパジャマのボタンをはずし始めると、それに気づいた横沢が急に田沢をきつく抱きしめた。 「黙って抱かれてろと言ったはずだが、聞こえなかったのか?」  言葉こそきついが、拒まないところを見ると嫌がっているわけではない。田沢はつい口元が緩んでしまい、ぷちぷちとボタンをはずし続けた。横沢の動きがピタリと止まる。 「積極的にいこうと思うの」 「は?」 「だって、真と同じくらい欲しいし」  すると横沢が大きく息を吐きながら、今度は田沢を包み込むように抱きしめた。 「どしたの?」 「美月、お前ね。どこでそんなセリフ覚えたんだよ……」 「はい?」  横沢の言っている言葉の意味がわからず田沢は横沢を見上げようと顔をあげた。するといきなり唇をふさがれてしまい、先ほどまでの撫でるような手つきではなく荒々しい手つきで横沢は田沢の乳房を揉みはじめた。その性急すぎる動きに田沢は一瞬身を竦ませるが、すぐに横沢の背中に腕を回した。いつもより横沢の体が熱い。横沢の着ていたパジャマの布越しに伝わる彼の体の熱さを手のひらで感じた田沢は、その熱をいとおしむように撫で始めた。  すると、より強く抱きしめられてしまい、田沢が脚を開いた瞬間横沢がそこに体を滑り込ませてきた。田沢は自分の舌を探し求めている横沢の舌を舌先で突っつくと、すぐに激しく舌をからめとられてしまい、互いの唇の隙間から舌を絡ませあっている水音とともに荒い息遣いがもれ始めた。  横沢がそれまで田沢の乳房を揉みしだいていた手を彼女のわき腹に走らせながら、その指先で肌を掠めていく。わずかに伝わる刺激に思わず田沢は身じろぎをした。横沢の指先が肌を撫でるたびにそこから痺れが走り、田沢の体の奥に眠っていた疼きを少しずつ高めていく。  横沢が田沢の頬や耳に唇を押し付けながら、彼女の身に着けていたパジャマのズボンに手をかけた。ゆっくりとした動きでズボンの中に手を差し入れてきた横沢の手は、彼女のズボンをずらしながら下ろしはじめる。横沢が何かに気がついたのか荒い息遣いのまま体を起こした。 「真?」 「そういえば、俺お前からのチョコもらってないな、今年の分」 「はい?」 「ちょっと待ってろ。というかパジャマ脱いで待ってろ」  横沢が意味ありげににやりとしながらベッドから起き上がり、そのまま寝室から出て行った。田沢は何が起きたのか意味がわからぬまま、とりあえずパジャマを脱ぎ始める。パジャマを脱いだ瞬間つめたい夜の空気が肌にあたり、田沢はすぐさま肌触りのよい毛布の中に体を滑り込ませた。  するとすぐに横沢が寝室へ戻ってきて、田沢が体にかけた暖かい毛布をいきなりはがした。驚いた田沢がその毛布を取り戻そうと体を起こし、非難の声をあげようとしたときいきなり口につめたいものが放り込まれ、口中に甘いチョコレートとほのかにシャンパンの香りが広がる。 「ん……。おいしー」  横沢も箱につめられていた一枚のチョコを口に放り込み食べ始めた。 「うまいな、これ」  田沢はベッドの上に座り直し、羽毛布団を手繰り寄せそれを体に巻きつけると、得意げな顔でベッドの端に腰掛けた横沢を見ると、ルームランプに照らされた彼の表情は穏やかなものだった。 「なんか常温だとすぐ溶けちゃうから冷蔵庫にしまっておいたの忘れてた……」  今夜のために田沢が用意したチョコレートは、日本のチョコレートメーカーのものだった。口中に広がるチョコの甘さのなかにシャンパンの涼しげな香りが広がり、飲み込むとのどから鼻に抜けていく。まるで淡雪のようなその儚い香りに田沢がうっとりとなっていると、彼女を現実に引き戻すような横沢の言葉が耳に入った。 「やっぱり」 「あげるのを忘れたわけじゃないのよ。ただちょっと抜けてただけで……」  正直に言えば本当ならばチョコフォンデュが終わり、風呂に入ってからチョコと一緒に買ってきたシャンパンとともに楽しむつもりだった。だが横沢が用意したチョコのおかげですっかり彼女の頭から抜け落ちてしまっていた。田沢がバツの悪そうな顔でいいわけじみた弁明をしていると、横沢はシャツを脱ぎながらも、ひとつふたつとチョコを食べていた。 「もう15日になってんだけど……」  表情こそ変わっていないが14日にもらえなかった不満をあらわにしている横沢の姿は、子供じみて見える。40にもなろうとしているおっさんが何をそんなに拗ねているのかと田沢は顔を引きつらせながら眺めているのだが、本音を言えばその姿がうれしかったりする。  田沢はベッドの端に座っている横沢を背後から抱きしめながら、彼が持っていた箱につめられた生チョコに手を伸ばした。 「一応聞くが、これ俺のために用意したんだよな……」 「そうだよ。一緒に食べようと思って」 「一緒に、ねえ……」  横沢のむきだしになっている背中に田沢は体を押し付けるようにしながらまた生チョコに手を伸ばしたところ、その手を横沢に掴まれてしまいその指先をぱくりと口に含まれた。指先から横沢の口の中の感触が伝わり、田沢はわざと非難めいた言葉を口にした。 「私の指、チョコじゃないんだけど」  田沢の言葉が聞こえているのかいないのか、まったく無視している横沢はその指を音を立てながら舐めている。ねっとりとした動きで舐めしゃぶられているうちに、田沢は先ほどまでの横沢の愛撫を思い出してしまい、彼の背中にしがみつきながら甘い吐息を漏らし始める。  横沢は持っていたチョコの箱をベッド脇のチェストに置くと、田沢のほうへ振り返り彼女にキスをしながらゆっくりと圧し掛かる。田沢はそれを迎えるように横沢の首に腕を回した。横沢の舌が甘いチョコレートの味がする。一緒に食べたシャンパンのチョコの香りが口内に広がっていた。それを楽しむように舌を絡ませあっていると、いきなり冷たい何かがわき腹を掠め田沢は思わず舌を引っ込めさせてしまった。 「ちょっ! 冷たっ!」  唇を離し横沢をにらみつけると、彼は意地の悪い笑みを浮かべて田沢を見下ろしていた。  自然に彼の唇に目がいってしまい、唾液で濡れている横沢の唇の端がわずかに上がっている。 「だろうな、さっきまで冷蔵庫に入れてあったし」 「はい?」 「さて、そろそろチョコをしっかり食わせてもらうぞ」  すると体を起こした横沢が持っていた生チョコを口に含んだあと身に着けていたパジャマのズボンとボクサーパンツを同時に引きおろし、田沢のむっちりとした両腿の間に体を滑り込ませてきた。かすかに横沢のペニスの先端が女の部分をかすめ、田沢は思わず腰を引いてしまう。それを追いかけるように横沢が腰を押し付けてきて、それを誇示するかのように腰を動かし始めた。  先ほどまでの横沢の愛撫によって濡れ始めていた田沢の愛液が潤滑剤となって、横沢が動くたびにくちくちと音が鳴る。思ったより濡れていることに気づいた田沢はその音にとたんに羞恥を感じ、顔をそむけた。 「濡れてる」 「恥ずかしいから、わざわざ言わないでよ……」 「積極的に行くっていったのどこのどいつだ?」  からかうような横沢の言葉が耳元で聞こえた。自らのペニスを田沢の濡れた秘裂に擦り付けながら、横沢が彼女の耳元に唇を寄せ掠れた声で問いかける。その間もくちくちと音が鳴り響いていて、その部分にどんどん熱が集まっていく。体の奥からさらに温かい愛液がとろりとこぼれ、その感触にさえも田沢は体を震わせた。  こんなとき横沢は意地悪だ。焦らしに焦らしいくら請うても欲しいものをいつまでたってもくれようとしない。行き場のない熱が田沢の体中に広がって、皮膚の感覚をどんどん鋭くさせていく。ふっくら立ち上がった彼女のかわいらしい乳暈の先端に横沢の肌が触れるたび、じんと痺れが走る。田沢が横沢の顔を見ようと顔を向けると、横沢はチョコを食べながらこちらの様子を眺めていた。 「そろそろ溶けてきたようだな」 「え?」  朦朧とする頭で横沢の言葉の意味を考えようとしていたとき、横沢はチョコに手を伸ばしそれを口にくわえ田沢のツンと立ち上がっていた乳暈の周りをそれでなぞる。ひんやりとしたチョコで硬くそそり立っている乳暈のまわりを責められ、田沢は反射的に手を口元に当ててあえぎを漏らす。柔らかく乳暈を食まれ、横沢の熱い口に含まれた瞬間田沢は体をのけぞらせた。乳暈と秘裂を同時に責められたてられて、田沢の体は一気に火がついたように熱くなる。全身の肌からじっとりと汗が吹き出し、なにかに急きたてられているような焦燥感を感じた。  横沢の舌の動きも、秘裂をこすりあげる動きも荒々しいものへと変わりはじめた。与えられ続けている快楽を逃がそうと田沢の腰がゆれるたび、愛液にまみれふっくらとした花弁を掻き分けながら横沢の硬いペニスが奥へ入り込もうとしていた。どんどんその部分に意識が集まりだしてきて、それに耐え切れず田沢は、無我夢中に横沢の頭を掴み髪をかきむしった。 「お願い、頂戴、もう……」  その声に横沢はちらと田沢の顔を上目遣いで眺める。そのときにっと目を細め、満足げな笑みを浮かべた横沢は、田沢の乳暈から唇を離し尖らせた舌先でころころと転がし始める。  田沢は我慢しきれず、脚を横沢の腰にからませひくつく部分を横沢のペニスの先端に押し付けた。その先端が当たった瞬間ひくひくと動いていた場所がきゅっと締まりそこから疼きが広がり始め、思わず田沢は声を漏らす。 「仕方がないな……」  横沢はそう言うと腰をゆっくりと離し、猛ったペニスを手で支え愛液でしとどに濡れそぼつ花芯に切っ先をあてがいゆっくりと差し込んだ。浅いところを味わうかのように何度か抜き差しをしながら田沢の様子を見下ろしている。  田沢はようやく欲しかったものを与えられたはいいが、中途半端な状態でいることに耐えられそうもなかった。腰を押し付けようとすると、横沢が腰を引く。何度かそんなやり取りが続いたとき、田沢はすすり泣きに近い声をあげはじめた。 「ひど……いっ、真、意地悪っ!」 「意地悪で悪かったな。俺はゆっくりとチョコを味わいたいだけなんだが……」 「私、チョコじゃないもん!」  田沢が吐き捨てるように言った瞬間、一気に最奥を穿たれ背中をのけぞらせた。横沢は体を起こし、田沢の両腿を腕に抱え体を起こす。ほどよく引き締まった横沢の肌もすでに汗で濡れていた。突然快楽の海に放り投げられた田沢の姿を、横沢は満足げな笑みを浮かべながら見下ろしている。 「俺にとってお前はチョコだ、美月。今夜はたっぷり味わわせてもらうぞ」  横沢はそう言うやそれまでのじれったいまでの律動を突如激しいものへと変えはじめ、荒々しく腰を穿たれるたび田沢は体をくねらせそれを受け止めた。横沢を受け入れている場所の感覚がどんどん鋭くなっていき、彼のペニスの形さえはっきりわかるほどになっていた。横沢の視線を感じる。あられもない姿を晒している自覚はあったが、自分の姿を見ては横沢が興奮しているようで中におさめている彼のペニスがより硬さを増していく。それに優越感を感じずに入られない。彼のこんな姿を見るここができるのは、この世で自分ひとりだけだと思うと田沢は喜びを感じてしまう。  横沢が田沢を抱きしめて体を起こし抱き上げた。向かい合った横沢の顔を見下ろすと、熱に浮かされたような瞳で見つめられている。田沢は横沢の両頬を手のひらで包み、しばらく見詰め合ったあと唇を重ねた。 「大好きよ、真……」  田沢がそう告げると、横沢はより満足げな笑みを浮かべて彼女を見上げていた。  バレンタインデーの数日後、横沢は立花のもとを訪れていた。そろそろ二月の締め切りが押し迫っていることもあり、その様子を見にきていたのだ。リビングのソファに腰掛けた横沢が、プリントアウトされた原稿を読んでいる。立花は原稿をチェックしている横沢の様子を見ながら、密封容器に入ったコーヒー豆を取り出して電動式のコーヒーミルに投入した。そしてスイッチを押すとすぐに豆が粉砕される音がして、香ばしいアロマが立花のまわりに漂いだした。 「先生、俺、ブラックでお願いします」 「ああ、わかってる」  キッチンでコーヒーを淹れようとしている立花を一瞥もすることなく横沢は話す。立花もまたそんな横沢を見ることもないまま、サイフォン式の器具をセットする。丸いガラスのフラスコに水を注ぎいれヒーターの熱源を入れて沸騰するのを待っていた。細長いガラスのロートに布製のフィルターを取り付けたろ過器をセットし終えた後にコーヒーの粉末を投入する。  やがてフラスコの中で気泡がたち始め、立花はゆっくりとフラスコにロートを差し込み始めた。フラスコの湯がロートに上昇し始めてコーヒーのかぐわしい香りが立ち上がる。立花は慣れた手つきで竹べらでゆっくりとロートの中をかき混ぜた。  原稿を読んでいた横沢の鼻腔にコーヒーの香りが広がっていく。香ばしさの中に甘さを感じさせるアロマがあって、どこかチョコレートの香りを感じさせた。 「いい匂いですね」  それまで原稿を読んでいた横沢から声をかけらた立花は照れくさそうにそれに応える。 「だろ? お前らが使うはずのホテルで出されたコーヒーを彼女が気に入ってな。そこのオリジナルブレンドだって聞いたから買ってきたんだよ」  横沢はふと顔を上げて立花の姿を見ると、まるで彼の[恋人]がそこにいるかのようにとてもやさしい表情を浮かべていた。どうやらうまくいったらしい。ずっと二人のことを田沢が案じていたことを知っている横沢は、これで肩の荷をひとつ下ろしたような気がした。 「へえ……。ということは、うまく行ったんですね」 「まあな。お前たちのおかげだよ」 「俺はなにも。美月のおかげでしょう。あいつがいなかったら、先生は行動に移さなかっただろうし」 「それは否定できないな」  コポコポと音をたてながらコーヒーが温められていく。ふわりと立ち上がる湯気に混じり柔らかなコーヒーの香りが漂い始めた。二月も終盤に差し掛かり、早いところでは梅の花が咲いているという。春を感じさせる柔らかな日差しが窓から差し込んでいて、横沢はつい窓の外へ目を向けた。 ――――そろそろ、話してみるか……  付き合いだしてもう一年が経つ。彼女に同棲を切り出したのは二ヶ月前のことだが、横沢はそのときから心に決めていたことがある。それは二人の結婚だ。  結婚など勃起障害になったあたりから諦めていたのだが、マイペースな姿で接する田沢と関わるうちに、それまでがんじがらめになっていた横沢の心が解れていった。そしてそれは障害を乗り越えるきっかけになり、どんな自分でも受け止めてくれる田沢に対して結婚を意識するようになっていた。  横沢は一度だけ田沢に聞いたことがある。なぜ体のつながりをもとめないかと聞いたとき、田沢は過去の不倫を打ち明けた。 『心が手に入らないから体を求めるような付き合いはしたくはないの。相手を好きだと思えば相手の全部が欲しいって思うのは当たり前だと思うけど、一番欲しいのは心なの。その延長線上にセックスってあるような気がするのよ、私は』  田沢がどんな思いを抱えて道ならぬ関係を続けていたのか、その言葉で横沢は察した。彼女が欲しいものが自分の心であると聞かされた横沢は、以来なるべく二人で共に過ごす時間を作ってきた。春には二人で日帰りの旅行を楽しみ、夏には少し遠出をして祭りを見に行った。秋の紅葉が美しい名所をめぐり、そして白い雪が深深と降り積もる夜ようやく二人は身も心もひとつになれた。その過程で二人は確実に心を通い合わせてきたのだし、その先に結婚という文字が浮かんでいてもおかしくなかった。  だけど、それはあくまでも横沢一人の考えであって、田沢の考えが彼にはわからない。自分と同じように将来を考えてくれていたらいいとは思う。だけど彼女にも仕事があって、なにより彼女自身が己の仕事に誇りを持って向かい合っていることを横沢は知っていた。今の時代二人でフルタイムで働く夫婦などどこにでもいるが、その大半が仕事を持つ妻の負担が大きいことも横沢は知っている。田沢は子供好きだし、結婚したら早めに子供を持ちたいはずだ。そうなると必然的に仕事から離れる期間が生じてくる。  仕事か、家庭か。必ずどちらかを選ばなければならないときがくる。そうなったとき横沢はどうやって田沢を支えるべきか考えあぐねていた。横沢の瞳に暗い影が落ちる。ついつい小さなため息をひとつ漏らしてしまう。すると立花が淹れ立てのコーヒーを運んでやってきた。横沢はそれまで考えていたことを頭から払いのけ、手にしていた原稿をテーブルに置いた。 「そういや、お前らはどうしたの、あの夜」 「俺のマンションでチョコフォンデュ作ってました」 「は?」 「ついでに言うと14日じゃなく15日にチョコもらいましてね。美月のやつ買ってきていたチョコを冷蔵庫にしまったまま忘れていたんで説教(・・)しました」 「……お前の説教か。絶対されたくないな……」  立花が苦笑いしながらコーヒーを飲み始める。横沢が話す説教の意味を取り違えていることなど立花は知る由もない。  あの夜横沢は明け方まで田沢を離さなかった。泣きながら自分を求める姿を目の当たりにしたとき、横沢の理性はどこかに吹き飛んでしまい、荒々しいまでに抱いていたのである。  おかげで翌日シャワーを浴びた田沢が目にしたもの。それは体中につけられたおびただしいまでの鬱血痕だった。それを愕然とした表情で眺めていた田沢の姿を見たとき、横沢はえもいわれぬ満足感を感じていた。そのせいで田沢はハイネックのニットとズボンしかはけない状態だった。 「まあ、いつもあいつが原因を作るからそうなるんです」  しれっとした顔で言い放つ横沢を、立花は苦笑いしながら眺めていた。
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