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《番外編》三十三個のキスのあと 1

 くつくつと煮立つ音と甘い香りが漂うシンプルなキッチンで田沢 美月(たざわ みつき)は、恋人である横沢 真(よこざわ まこと)に贈るために用意したものをもう一度確認していた。  もともと今日は二人きりでホテルに宿泊しようと思っていたのだが、彼女がかつて担当していた作家とその恋人のために一肌脱いでその場所を二人に譲ったのだった。それを横沢に告げたとき彼も反対はしなかったし、そのときはそれでよかったのだと思っていたのだが、こうやってバレンタイン当日になると、ちょっともったいなかったような気がしないわけではない。  なんといっても田沢と横沢にとって、バレンタインデーは特別な日だった。二人が交際し始めたのは昨年のバレンタインデー、つまり今日は交際して一年目の節目なのである。そんな始まりの日を盛大に祝うほどではないが、二人きりで特別な夜にしたいと思うのは女なら誰でも考えることだと田沢はふと思う。  一年前はこんな乙女なことなど考えていなかったのにと、田沢は昨年のバレンタインデーのことを思い出しながら苦笑いを浮かべて綺麗な包装紙で包んだ贈り物を眺めていた。  田沢美月は大学を卒業し、大手出版社である田代書房へ入社した。そこで女性誌を中心に働き続けてきたのだが、なにぶん出版業界はなかなかに忙しい。田沢はもともと海外ロマンスを好んでいたこともあり、その部署への異動を希望し続けていた。だが彼女の希望はなかなか叶わず、どういうわけかいきなり男性向けの官能小説部門へ異動になってから、彼女の周辺はにわかににぎやかになりはじめた。それは彼女が受け持った官能小説作家・立花 浩正(たちばな こうせい)との出会いにより、男性向けの官能小説をはじめ多種多様な官能作品を読む耽るようになってからというもの、どんどんその言葉の奥深さに惹かれ始めてしまい、たまたま当時女性向けの官能小説部門を立ち上げたばかりのエヴァ編集長とともにネット小説サイトの構築を始めたからだった。  このエヴァ編集長はいまの田沢の上司である。その頃からエヴァ編集長・東条 多恵(とうじょう たえ)は田沢にエヴァへ来いと口説き続けていたのだが、当時田沢は立花の担当になったばかりの頃でそれをやんわりと断り続けていた。だが3年が経って異動の時期になり東条によってエヴァへ引き抜かれたことにより、立花の担当を離れたのだった。そしてこのとき彼女の後任で立花を担当したのが彼女の恋人で、ずっと一般文芸を受け持っていた横沢だった。  彼がロマーヌ (男性向け官能小説レーベル)へあいさつに来た日のことは今でも覚えている。いかにも堅物といった形容が当てはまるほど、横沢は一部の隙も見受けられない男だった。きちんとプレスされたシャツを着て、清潔感あふれる容姿に、神経質そうな雰囲気を漂わせていた彼が今後出会うであろう官能文学の世界でどんな男に変わるか見ものだと田沢は考えていたのだった。  日本の官能文学の世界はいまだにアンダーグラウンドなジャンルとして区別されている。海外では女性がなりたい職業の一つが海外ロマンスの作家だと聞いたことがある田沢としては、なぜ先進国である日本では官能文学が広く認知されていないのか気になるところだった。男性向けの官能小説は特にそうだといえる。旅先で手にとったはいいが、自宅に持ち帰らずにそのまま駅のゴミ箱に処分されることも少なくないという。ようやく日本でも女性の官能作家が出始めて、今ではTLというジャンルさえ確立しているというのに、欧米のようにカフェで女性同士がセックス談義などしようものなら周囲から白い目で見られかねない。  原始の昔からその行為はあるというのに、身近な問題として気軽に話せないことに田沢は不満を感じていた。だから男と女のセックスに埋まらぬ溝があるような気がして仕方がないとさえ彼女は感じていた。たぶんそれは男と女の意識の違いではないかと横沢が話していたのを田沢は聞いたことがある。それは横沢がこれから彼が受け持つ立花の作品を読んだ後に、彼の口から語られたことだった。 「男ってやつは、愛する女性に喜んでほしいし、その姿を見ると満足できる単純な生き物なんです。だから男性向けの官能作品の多くに登場するヒロインは、主人公にだけ淫らな姿を見せるでしょ? それが男が望む女の姿だと思います。ただ、それだって男の勝手な意見でしょう。それも過ぎるとかえって押し付けがましいと女性は感じてしまうだろうし、そのバランスが難しいと思いますね」  男性にしてはまっとうなことを話す横沢に、田沢は切り出した。 「女性向けの官能作品だって、女の夢と希望がわんさか詰まってる。特に女性の場合は作品の主人公達に自らを重ね合わせてその世界を楽しんでいるし、脳のつくりも女性のほうが作品に没頭できるようなつくりらしいから、男性向けより割と顕著にそれが出ていると思う。売れ筋を見るとそれがよくわかるもの」  彼女がそう話すと横沢は苦笑いで応えただけだった。なぜ彼がそんな顔をするのか、その理由を知ったのはその会話をしてから一年が過ぎようとしていたことだった。そしてその間、彼女の心のなかでは横沢へ対する想いが育っていたのである。  田沢が横沢と同棲を始めてもう二ヶ月になる。最初は週末だけ彼のマンションで過ごしていただけだったのだが、もともとずぼらなところがある彼女がどんどん私物を持ち込むようになり、やがて仕事用の本やらラップトップを持ち込んだことで、二人で仕事をする時間が増えてきて同時に互いの意見を論じ合う時間が増えていた。  もともと生真面目な横沢と少々天然がかった田沢の会話は、仕事のことに関してだけはまともに交わせるのだが、それ以外は田沢の突飛な発言に横沢は振り回されていた。だがそれに文句を言われたことがない。いままで彼女の交際していた男性たちのほとんどはそれに付き合いきれなくなって、別れることが多かった。  横沢はやさしい。普段は堅物で通している彼が自分にだけ優しいことに田沢が気がついたのは、彼と付き合いだした最初の頃だった。それに気づいたとき田沢はそれまで元の恋人たちに感じたことがなかった安心感を感じ、ありのままの自分でいられる空間を作ってくれる横沢に感謝していた。きっと横沢が自分らしくいられる空間を作ってくれているから、横沢の隣は居心地がいいのだと田沢はキッチンのカウンターに置かれたデジタルフォトスタンドに次々浮かぶ二人の画像を眺めながら考えていた。  ふと気になって時計を見るともう20時を過ぎている。そろそろ横沢が帰ってくる時間だ。その前に今夜の仕込みをはじめなければならない。田沢はキッチンに置いてあった買い物袋から食材を取り出して、今夜のメニューを作りにかかった。  横沢が帰宅したのは20時を過ぎた頃だった。インターフォンの呼び出し音が鳴り、キッチンで支度をしていた田沢がモニターをチェックすると、頭の上に雪がわずかに積もった横沢の姿があってそれを見たとき思わず苦笑いする。 (だから傘、持っていけって言ったじゃない……。馬鹿だなあ……)  おそらくモニターの向こうにいる横沢も、田沢が何を考えているのか大体予想がついているらしくふて腐れたような顔をしていた。視線をそらしながらこちらの応答を待っている子供のような姿に、田沢は少し意地悪をしたくてたまらなくなってしまう。いつも横沢に言い負かされてばかりの田沢にとって、こんなときでしか仕返しができないのだ。 「真、その白い帽子似合ってるね」笑いをかみ殺しながら田沢は問いかけた。 「……いいから開けてくれ。マジ寒いし」肩をすくませながらぶっきらぼうに横沢が答える。もちろん視線はそらしたままだった。  はいはいとくすくす笑いながら田沢が部屋のロックをはずすと、すぐに扉が開く音がして横沢が入ってきた。田沢は厚手のタオルを持って横沢を出迎えようと玄関に向かう。すると何を思ったのか横沢がいきなり頭を勢いよく振り出したせいで、出迎えた田沢に彼が飛び散らした雪や水滴がかかってしまった。 「ちょっと! あんた犬?」 「……さっきモニターの向こうでニヤニヤしてただろ、わかってんだぞ」 「傘持ってけっていったのを無視した真が悪いんでしょ!」  今日の東京は朝から寒かった。夕方を過ぎる頃には空からちらちらと小雪が舞い落ちて、夜になると綿雪のような雪に変わっていた。横沢はむすっとした顔で着ていたコートを玄関で脱ぎだし、それについていた水滴を払うと先に部屋へ戻っていった田沢を追いかける。すると部屋に入ったとたん漂う甘い香りに気づいた横沢が、その香りを怪訝な顔で嗅ぎ出した。 「なんだ、この甘ったるいにおい……」 「今日はバレンタインだからね」  あえてその先を言ってしまわないように、それとなく含みを持たせながら田沢が答えると、横沢はタオルで髪を拭きながらぎょっとした顔をして彼女をにらみつけた。 「おい、まさかまた(・・)変なの作ったんじゃないだろうな……」  横沢の不機嫌丸出しの声に、ついつい田沢も声を荒げてしまう。 「なによ、それ!」 「去年お前が作ったトリュフ! あれ酒の量間違えただろうが……。忘れたとは言わせねえぞ……」  冷ややかな笑みを浮かべながら横沢が田沢をにらみつけると、彼女は顔を引きつらせながら逃げるようにその場を立ち去った。すると横沢は彼女の後を追いかける。台所へ行く途中、横沢の目に買い物袋が飛び込んだ。シンクの上には酒瓶やら生クリームの紙パックの容器が置かれている。それを見たとき横沢の脳裏に昨年のバレンタインの出来事がよみがえってしまい、恐る恐る田沢に問いかけた。 「まさか……、今年も手作りかよ……」 「うっ!」 「お前、料理の腕が悪いこと自覚してねえのかよ……」 「なっ、なによ! それ!」  シンクに背を向けている田沢に横沢が迫る。横沢は両手でシンクの縁をつかみ彼女を逃がさないようにすると、冷たいまなざしを向けながら言い放った。 「で、今年は何を作ったんだよ……」 「へっ?!」 「さあ、見せろ。味見してやるから」 「あっ、味見っ?!」 「どうせ食うことになるんだ。隠さず見せろ。さもないと……」  田沢は横沢の迫力に飲み込まれてしまいそうになっていて、どんどん追い詰められてしまう。冷ややかな瞳から目をそらせずに、田沢は覚悟を決めて息を飲み込んだ。 「……さもないと?」  なんとか声を振り絞り田沢が尋ねると、横沢はにやりと笑いながら答えた。 「お前が隠し持ってるブランデー全部飲んでやる」 「やめてっ! バニラアイスにかけて食べようと思って取っておいてるんだから!」 「……お前、酒を台無しにするつもりかっ!」  田沢は洋酒をアイスにかけて食べるのが好きだった。香り高い洋酒であればあるほどバニラアイスとマッチする。バニラアイスで冷やされた洋酒の香りがふわりと温かい部屋に漂いだす瞬間が田沢はなにより好きだった。なのに、その至福のときを奪われそうになっていて横沢に噛み付くと、今度はそれをとがめられてしまう羽目になり、どんどん田沢の怒りは膨れ上がりそうになっていた。 「もういい! あんたになんかチョコフォンデュ食べさせてあげないんだから!」 「はあ?」 「なによ! 今日はバレンタインだし、せっかくそれっぽいことをしようと思って作ったのに! 真の馬鹿! あんぽんたん! 大っ嫌い!」 「お。おい! 美月! 落ち着け! 落ち着けってば!」   いきなり逆ギレしてもがく田沢をなだめようと横沢は、彼女の腰を引き寄せようとするが、こうなったら最後彼女の機嫌はなかなか治らない。挙句の果てに大嫌いとまで言われたら、横沢としてはからかいすぎたと反省するしかないのである。 「ごめん。からかい過ぎた。悪気はない、本当だよ。ただ……」 「ただ、なによ……」 「まさかとは思うが、洋酒をどばどば入れてないよな、ソレ」  横沢があごでコンロにかけていた鍋を指すと、田沢はそバツが悪そうな表情を浮かべる。よく見ると鍋の横には田沢が隠し持っていたブランデーの空き瓶が置かれていて、それを見てしまった横沢は、あきれたような顔をした。 「フルボトル一本開けたのか?」 「……悪い?」 「悪いに決まってるだろ! いいか? チョコフォンデュはチョコが多くて甘いからチョコフォンデュなんだぞ? それにブランデー一本ぶっこんだら、もうその時点でブランデーフォンデュになるだろが!」 「だって! あまり甘いと文句言うじゃない!」 「いい! 俺が作るからお前は黙ってそこで見てろ!」  横沢はネクタイを取り払い、シンクに置かれていた大量の板チョコに手を伸ばし、それを細かくみじん切りにする。その手際があまりにもよすぎて田沢はふて腐れてしまった。  横沢は残りの板チョコを湯煎でトロトロになるまで溶かし、生クリームと牛乳を加えて混ぜ合わせ続け、結局二時間という時間をかけて。田沢が作ったブランデーフォンデュをチョコフォンデュにしたのである。  横沢が作り直したチョコフォンデュは、なかなかのものだった。  キッチンの横に設けていたダイニングテーブルの上にはゆらゆらと湯気をゆらめかせている電気鍋があって、そこから甘いチョコレートの匂いに混じりほのかにブランデーのいい香りが漂っている。その鍋のとなりに置かれた大きな白い皿には、一口大にカットされた果物やバゲットが盛り付けられていた。   田沢は横沢を上目遣いでらみつけながら、黙々とイチゴやカットしたバナナやバゲットをチョコフォンデュのソースにくぐらせながら食べている。その様子を横沢は腕を組みながらあきれた表情を浮かべて眺めていた。何か言いたいことでもあるのだろう、田沢はいつ彼がそれを言い出すのか気が気でなかった。 「……なによ。言いたいことがあるなら言ってよ。もうその顔見飽きたんだけど」  横沢が向かい合って座っている田沢を見ながらため息をつく。彼が言いたいことがわかるだけに、そこを突っつかれるのが怖い。田沢は顔が引きつるのを感じた。 「まさかとは思うが今日の晩メシってこれなのか?」  まさかのまさかだと言いにくい雰囲気である。そのチョコフォンデュのソースつくりに思いのほか手間取ってしまい、メインの料理を調理できなかったとは非常に言いにくい。一応そのフォンデュはデザートのためのもので、メイン料理の仕込みだけは済ませてあるが、今更それを言ったところですでに22時を過ぎている。ここは開き直るしかない。田沢はそう考え横沢を睨み返す。 「……悪い?」 「……聞いた俺が悪かった……」  すでにこんな状況は同棲を始めて何度も経験しているからか、横沢は諦めきっているようだった。いや、それよりも問題なのは今後のバレンタインプランのことだが、それは今考えるべきものではない。  田沢は気持ちを切り替えて、また黙々と食べ始めた。するといきなり横沢が立ち上がりキッチンへと向かう。それを見ながら田沢は彼に声をかけた。 「どうしたの?」 「確か小麦粉あったよな? それでホットケーキ焼く」 「はい?」 「ミートボールみたいな大きさなら食えるだろ、チョコつけて」  横沢がシンクの下に収納されているたこ焼き機がついた小さなホットプレートを持って戻ってきたので、田沢は食べていたフルーツを置くとキッチンのストックボックスから小麦粉と米粉をシンクの上に用意した。 「気が利くじゃん。米粉も入れるとふっくらする」 「でしょ? それにしっとりして腹持ちもいいし」 「あとは卵と牛乳と豆乳も入れるか」 「ついでにドライフルーツとナッツもどう?」  二人でキッチンの中であれもこれも話しているうちに、作る菓子の種類が増えていく。さきほどまでの緊張感はどこへやら。二人は楽しそうに調理を始めていた。ベースとなる小麦粉と米粉を混ぜ合わせ、そこに牛乳と豆乳を半分ずつ入れて混ぜ合わせると、それを小さなボウル2つに分けたら、そこにドライフルーツとナッツをそれぞれに投入する。混ぜ合わせたものを横沢がたこ焼き機でつくり、それを田沢はうれしそうな顔で眺めていた。 「そろそろできるぞ、腹減ったな」 「……ごめんね、ちゃんと作れなくて」 「いや、大丈夫だ。お前が作れないなら俺が作ればいいことだし、それをしてほしくて一緒にいるわけじゃない。それを求めるなら家政婦雇ったほうが早いが、その前にある程度料理は作れるからいらない」  くるりとホットケーキを竹串で転がしながら横沢が話す。田沢も竹串でほかのケーキを転がそうとしたら、横沢に止められてしまった。 「いいよ、これは俺の仕事。美月はソースを焦がさないようにしといて」 「あ、うん。わかった」  田沢は電気鍋の中のチョコソースを木べらでゆっくりと混ぜ合わせると、またふわりと濃さを増したチョコの香りが漂いだした。すっかりアルコールが抜けているようで、もうブランデーの香りはしていない。そこが少し残念だが。 「さて、できたぞ。食うか」  横沢が手際よく白い楕円の皿にひょいひょいとケーキを盛りつけ始めたので、田沢はうれしそうにそこに盛られたケーキを竹串にさしてソースをからめ、それを横沢の口元に運ぶ。すると横沢はそれをぱくりと食べると、田沢に笑顔を向けた。 「うまいな。でも、せっかくの酒が飛んでしまったな」 「これくらいでちょうどいいんじゃない? チョコが濃厚」 「まあ、これで腹も膨れるかわりしばらく甘いものはやめよう」 「……だよね」  しばらく甘いものは控えようという横沢の言葉に、やはりこの先のプランの変更を余儀なくされてしまいそうで田沢はどうしたものか考え始めることにした。  田沢が今夜プランニングしたものすべてはチョコにちなんだものだった。  まずは夕食のデザートがチョコフォンデュ、これは横沢の機転によりなんとかクリアした。のこるプランは、本来ならば自宅ではなくホテルでやろうと決めていたのだが、予定を変更してしまったたためにどうしようか田沢は最後まで悩んでいたのだが、やろうと思えばできることだからと結局それをやることにした。  まず一つ目はチョコの入浴剤だ。しかもその入浴剤を入れるとたちまち浴槽の湯はとろみがついてしまい、ヌルヌルのローションのようなものへと変わってしまう。あのホテルの大きな浴槽ならば二人でその湯を楽しみながら過ごせると思い、田沢はその入浴剤を購入したのだ。だけどそのホテルは譲ってしまったので、その時点でお蔵入りになるはずだったのだが、どうしても諦めきれずさきほどその入浴剤を使ってしまったのである。だからすでに浴槽にはチョコの香りが漂うとろみのある湯が張られている。  横沢は風呂が好きで長湯になることも珍しくない。そんな彼があれを見たらどんな反応をするのか、田沢は食事を取りながらも気になって仕方がなかった。あれを見た横沢があきれ果ててしまえば、その次のプランなど実行できるわけがない。さてどうしたものかと、田沢は眉間に皺を寄せて考え始めた。  食事を取り終え横沢がその後片付けをしている間、田沢は残っていたフルーツにチョコレートソースをからめながらこの先のことを考えていた。ちらちらと盗み見るように横沢の様子を窺うが、特別機嫌が良い訳でも悪いわけでもなく、いつもどおりに淡々としている彼がアレを見たときどんな行動をとるのか田沢は頭の中に思い浮かべてみる。  横沢はまず長湯だ。風呂に入れば一時間は篭ってしまう。そんな彼がこよなく愛する入浴剤はあまり香りがきつくないものだった。しかも最近は日本の名湯シリーズなる入浴剤を愛用していたりする。そんな彼がチョコの香りがするうえにヌルヌルのローションと化した風呂の湯を見たとき、どんな反応を示すかなど愚問に等しいのではないかと田沢は顔を青ざめさせてしまう。間違ってもそんなもので喜ぶ男ではないことくらい、とっくに織り込み済みだった。それをわかったうえでやってしまうのだから、自分という女は大概愚かだと田沢はひとつため息をこぼした。  思えばいつもいつも空回りばかりしているような気がして仕方がない。特に横沢と付き合うようになってからというもの、彼の側にこんな自分がいていいのかと思うことさえある。  堅物の横沢と奔放な自分の組み合わせは、一見水と油のように周りから見えているはずだし、いまだに二人が交際していることを信じられないと思っている人間たちがいることくらい田沢はわかっていた。だからこそ横沢を幸せにしたいという気持ちが膨れ上がってしまい、それが横沢を振り回してしまうことになる。   異動で自分の後任に横沢が就くと田沢が彼女の上司に聞かされたとき、文芸の堅物と揶揄される彼に男性向けの官能小説の担当者が務まるか不安を感じていたのだが、案ずるより生むが易しとは良く言ったもので半年が過ぎるころになると彼女が同伴しなくても仕事をこなすようになっていた。しかも間違いなく彼女自身より仕事の出来栄えがいいものだから、田沢としては面白くなかった。  男性向けの官能小説部門に配属されたあたりの頃の自分を振り返ってみると、それまで一度も関わったことなどない世界で手探りで仕事をしていたようなものだった。特に自らが担当する作家の作品を手にとって読んだときに受けた衝撃は、いまだに忘れられないままだった。  男の欲望を満たすためだけに存在する小説。田沢はそういった見方で読んでいたのだが、その文章の陰に含まれた男の哀しさを感じたとき、立花にはなにか抱えているものがあるのではないかと直感的に感じ取ったのだが、それを立花本人に尋ねてみるわけにもいかずずっと心の奥に仕舞い込んでいた。  そして自分と同じようなものを感じ取った横沢からそれを指摘されたとき、田沢は彼を官能小説の担当として受け入れることができたのだ。横沢のどんな仕事にでも真摯に向かい合う姿勢は聞いてはいたが、こうやって目の当たりにすると尊敬に値するものであり、一人の人間として横沢を尊敬し始めていた。  だがそれと同時にそれまでのように彼に接することが出来なくなって、ついつい意地の悪い言葉を並べ立てていた時期がある。その時期は、ちょうど横沢が田沢を同行せずに立花のもとへ向かうことが増え始めた時期だった。ひとり疎外感を感じてしまい田沢はとげとげしい言葉を横沢に向けはじめ、それを横沢はただ黙って受け止め続けていたのだ。  この二年の間に田沢が努力し続けた結果築き上げた立花との信頼関係が、数ヶ月前に担当になったばかりの横沢に奪われたような気がしてたまらなかった。男同士だからと気が合うこともあるのだろうが、それにしても今まで努力し続けていたことが無駄なことのように思えてきて、田沢は自信を失っていたのだ。  そして酒の勢いもあってそれを全て横沢にぶちまけてしまう出来事が起きた。横沢はそのときもただ黙り込んで聞いていただけで、その姿を見た田沢はあまりにも自分の行動が幼稚に思えてしまい、言いたいことを言い終えたあと彼の前から逃げようとしていたそのとき、いきなり横沢に呼び止められた。 「立花先生と田沢さんの間の信頼関係には到底及ばないよ。少なくとも俺にはあんなに感情を出さないからね。心を許しているからこそあんなに正直に話しているのだし、そこをあなたは誇るべきだと思う。確かに俺と先生は男同士だから分かり合えるものがある。だけど田沢さんは俺が関われない部分で先生の支えになっているんだ」  その言葉にうまく丸め込まれたような気がしないわけでもなかった。だけど横沢がわざわざ田沢に媚を売る必要などないのだし、それに気づかないわけではない。おそらくそれは真実なのだろう、そう田沢が感じたとき彼女の心を覆っていた暗い雲は姿を消していた。  そして田沢は自分の目が自然に横沢を追い始めていることに気づき、それとなく伝えようと努力したのだが、にべもなく横沢は無視し続けた。いくら天然で奔放な田沢でも、あつかましいくらいに横沢に思いを伝えることが出来ずにいて、どうしたものかと思い悩む毎日が続いたものだった。  横沢が田沢を避け始めていることにも感づき、新しい部署での仕事が忙しくなったこともあって、彼女は自らの気持ちを心の奥に閉じ込めようとしていた。顔さえ、声さえ側になければ横沢のことを考えずにするから、田沢もまた横沢を避けるようになっていた。だがそうして押さえつけていた思いは意外な場所で噴出してしまうことになる。 「美月、洗い物終わった」  昔のことを振り返っていた田沢は横沢の言葉で現実に引き戻された。横沢の顔を見上げると、彼の頬にチョコレートソースがついていて、それを見たとき田沢はくすくすと笑い出した。 「ねえ、ほっぺにチョコついてるよ」 「ああ、お前がチョコまみれのマシュマロを押し付けたときのだろ……」 「はい、拭いて」 「サンキュ」  田沢がウェットティッシュを取り出し、しっとりと濡れたものを横沢に手渡すと、彼は頬についていたチョコソースを拭きとった。「さて、風呂にでも入るか……」  何気ない横沢の言葉に、田沢の心臓が大きく跳ねた。どくどくとものすごい勢いで血液が体中を駆け巡り始める。どうしよう、あれを見たらどんな反応をするのか怖い。田沢は顔を引きつらせながら横沢に話かけた。 「あ、あのね、真。実は―――― 「一緒に入るだろ?」  え? 「俺が何も気づいてないと思っていたのなら、大きな間違いだぞ。お前が何を仕込んでいるのか大概見当はついてる」  シャツを脱ぎながら話している横沢の顔を呆然となった田沢が眺めていて、その彼女の姿を見た横沢は笑みを浮かべながら話続けた。 「それに今回はお前の手柄だ、美月。いくら背中を押しても先生は動こうとしなかったのに、お前ががんばってくれたおかげで先生は男として向かい合うことが出来たんだから。それはお前だから出来たことだとだと思うよ」 「真……」 「な? 俺が言ったとおり、お前と先生の絆には俺が叶わない部分もあるんだ。ありがとうな、美月」  横沢は椅子に腰掛けていた田沢の頭を軽く撫でた。彼女のくりんとした短い髪がわしゃわしゃと音を立てて撫でられていて、田沢は泣きそうな顔で横沢を見上げる。 「ほら、そんな顔するなよ。一緒にバレンタインを祝おう。それに付き合って一周年だ。シャンパンでも開けるか?」 「へ?」 「生チョコとシャンパン、そんなに高いもんじゃないが実は俺も用意していたんだよ。ホテルのバスルームで一緒に食べようかと思ってね。まあ予定変更したから、かなり狭いが体育すわりすりゃ入れるだろ」  ほら、と横沢に促され田沢は立ち上がり、彼に手を引かれ浴室へと向かい歩き始めた。  横沢に手を引かれ浴室に向かうと、彼が着ていたものを脱ぎ始める。それを田沢は黙って眺めていた。  横沢の体はいつ見ても年齢を感じさせない。そろそろ40になろうとしているのに、余計な脂肪などついていないし、たくましい筋肉がわずかに隆起した彼の体は男の色香を放っていた。思わず田沢が横沢のむき出しの背中に手を伸ばした。指先で張りのある肌をなぞると、横沢がピクンと体を震わせる。顔を振り向きかけながらこちらの様子を窺っているのか、横沢が笑みを浮かべていた。 「なんだ?」 「相変わらずいい背中とお尻だなあって」 「お前、痴女かよ……」  愉快げに笑いながら横沢が話す。田沢は横沢の背中から腰へ、そして引き締まった尻へ指を走らせた。  女性の柔らかな尻とは違う、側面が引き締まりその部分を指でなぞる。 「なんで男の人のお尻って、ここぎゅっと引き締まってるのかな」 「皮下脂肪の差だろ? お前の尻がこんなんだったら、バックからヤっても骨が当たって痛いよ……」 「じゃあ、BLのカプって骨当たって痛いの?」 「生憎男とヤったことがないからわからん」  ぶっきらぼうに横沢が答えると、田沢は彼の尻を撫でたあと、やわやわと手のひらで揉み始めた。横沢はそれに慣れっこのようで好きにさせている。かけていた眼鏡をはずし、チェストの上に置いたあと、横沢は田沢のほうへ振り返り、彼女が着ていたニットのチュニックを脱がせ始めた。 「ほら、両腕あげて」 「はーい」  まるで父親と娘のような会話をしながら、横沢は器用な手つきで田沢の着ていたものを全て脱がせる。いくら髪が短くて、少年のように見られがちな彼女でも、着ているものを脱がせ終えると、女性らしい体つきをしていた。首筋から続く肩のラインが、なだらかなラインを描いていて、丸みのあるふっくらとした乳房があらわになっている。くびれた腰からむっちりと張り出した尻へ続くラインが成熟した女の色香をかもし出していた。 「尻のえくぼ見っけ」 「ひゃっ!」  突然横沢に腰を引き寄せられてしまい、その上尻のえくぼを撫でられて田沢は驚いた。横沢がいつもこのえくぼを触りたがるのを忘れていたわけではないのだが、こうもいきなりだとさすがに声が出てしまう。腰を撫でている横沢の手の動きが次第に田沢の官能を高めるような動きになりつつあって、それに伴い彼のペニスの感触が直に感じ取れるまでになっていた。 「ね?」 「ん?」 「そろそろお風呂……」 「そうだな、このままだと風邪引いちまう。先に入ってろ。シャンパンと生チョコ用意してくるから」  横沢はそう言うと名残惜しげに体を離した。田沢の額に唇を押し付けて、そのまま部屋を出て行く横沢の姿を眺めた後、彼女は浴室へ入る。あたたかい湯気の満ちた浴室にはチョコレートの甘い香りが漂っていた。ぬるめのシャワーを浴びて体を温めた後浴槽へ体を沈めると、ローションとまではいかないがとろみのある湯が彼女の体を包んだ。 「お待たせ。ほら口開けろ」  浴室に入ってきた横沢がシャンパンが注がれたグラスを置いた後、ガラスの器に盛られた小さなチョコを田沢の口元へ運ぶ。田沢は浴槽のヘリに腕を置いたあと、口を大きく開いた。 「ん、おいしい。これどこの?」 「ああ、ベルギーのメーカーらしい。立花先生と買い物行ったとき買ったから店の名前まで見なかったな。立花先生が好きなメーカーだから知ってるだろ?」 「ああ、そういえば先生締め切り近くなるとそのチョコ大量に買ってきて、それしか食べなくなるんだよね。前に一度だけつまみ食いしたけど、そのときのチョコよりおいしい」  田沢にひとつふたつチョコを食べさせたあと、横沢はシャワーを軽く浴び、浴槽に体を沈めようとする。田沢は体を起こし、横沢が入りやすいようにした。横沢の体に背を預けるように田沢は体をもたれさせる。 「すごい風呂だな、これ」  横沢がチョコレート色の湯を手ですくうととろりと湯が落ちる。 「でしょ」  田沢も横沢を真似て湯を手ですくうと、ゆっくりとした動きで湯が落ちた。 「排水溝につまらないように粉末入ってただろ」 「あ、うん。それを入れれば普通のお湯に戻るんだって」 「でなきゃ詰まるよな」 「だよねー」  他愛ない会話をしながらシャンパンを飲みながら二人でチョコを食べる。ぬるめの湯にしておいてよかったと田沢はほっと胸をなでおろした。それでもしばらく湯に使っているとじんわりと汗が滲み出す。シャンパンのせいもあるのか、田沢の体はどんどんほてり始めた。 「一年か……」 「一年経ったわね……」  ぽつりと横沢がつぶやく。何かを思い出しているのか遠い目をしていた。田沢もまた一年前のバレンタインのことを思い出し、笑みを浮かべている。  一年前のバレンタイン、ずっとチョコを渡す時を見計らっていたのだが、なかなか横沢がひとりにならず田沢は焦っていた。いくら30を過ぎているからとはいえ、さすがに本気の気持ちでチョコを渡すには人前では恥ずかしかった。だからずっと彼が一人になるときを待っていたのに、肝心の横沢はと言えば次々と現れる女性社員たちからチョコを受け取っている。その姿を田沢は祈るような気持ちでちらちら盗み見ていた。  チョコを受け取ってほしくないが、そうもできないことくらい田沢はわかっている。所詮あれは義理チョコだからと言い聞かせてみるものの、横沢にチョコを渡しにやってくる女性達は身づくろいを済ませ終えた本気モードでやってくる。横沢に渡すそのチョコには彼女達の本気が詰まっているのだと、田沢でもわかるほどに彼女達の瞳は真剣そのものだった。 「非常階段に呼び出されて何かと思ったら、いきなりチョコを食えとかないだろ、普通……」  くすくすと笑いながら話し始めた横沢の言葉に、田沢ははっと現実に引き戻された。確かに自分でもあれはないとは思うのだが、どうしても二人きりでチョコを渡したかった田沢は、ようやくひとりになった横沢の腕をつかみ非常階段まで引っ張っていったのだ。そして向かい合い、チョコが入った箱を差し出して、いきなり「ここで食え」と言ったのである。当然横沢は面くらい、呆然とした顔で田沢をながめていた。 「だって、知ってるもん」 「何を?」 「真が職場の人間(みんな)と一緒に食べるの……」 「まあ、そうして来たのは理由があるからな……」  横沢がバレンタインで貰ったチョコを、職場の同僚たちと分け合って食べるのには理由がある。毎年本気のチョコを貰っている自覚はあったが、それを全部食べるとなるとさすがにキツいものがあった。ひとつふたつ食べてもいいかとは思うのだが、食べ切れなかったチョコをどうすればいいか頭を悩ませてしまうことになる。だから皆で食べているのだが、本気の気持ちでチョコを渡した女性達からすれば、遠まわしに「付き合うつもりはない」と言われているような気持ちになってしまう。当時の横沢は女性を避けている理由もあったし、それはそれで仕方がなかったことだった。 「だからもし食べてくれなかったら、諦めるつもりだったんだ。私……」 「お前のだけは食べようって決めてた」 「え?」 「俺もお前が好きだったから、もし美月がチョコくれたらそれだけは持ち帰ろうって決めてた」  そのとき横沢が持っていたグラスを湯に浮かべていたトレイに置いて、田沢の体を抱きしめた。 「知らなかった、それ……」 「だろ? 初めて話したからな。美月と一緒にいる時間が増えて、どんどん惹かれてた。お前といるとほっとするんだよ」 「なによ、それ……。普通はドキドキするもんじゃないの?」 「馬鹿、居心地がいいってことだ。まあ、お前が天然すぎてそれに振り回されて、頭がおかしくなったのかもしれないな」  楽しそうに話している横沢の言葉を聞いたとき、田沢は褒められているのか貶されているのかわからず頬を膨らませていた。  横沢が用意したシャンパンと生チョコがなくなった頃、田沢はすっかりほろ酔いになっていた。ぬるめの湯とシャンパンのせいで心地よいほてりを感じていた田沢は、鼻歌を歌いながら背を預けている横沢に甘えるように体をすり寄せ始める。  こんな状態の田沢の姿に慣れているのか、横沢は田沢の頭を撫でていた。だが彼女が歌っている曲に聞き覚えでもあるのか横沢が考えはじめると、それに気がついた田沢は歌詞をつけて歌い始めた。  その歌はバレンタインデーの時期になると、一度は耳にする曲だった。当時のアイドルがバレンタインデーの前日の気持ちを歌った曲である。もうその曲が発表されてから30年の月日が経っていたのだが、毎年その曲は街のどこかで流れている。最近では3人組のユニットが新しいバレンタイン・ソングを歌っているのだが、田沢はその曲よりもこの曲が好きだった。 「懐かしすぎだろ、それ」 「女の子のバレンタインのときの気持ちって、何歳になっても変わんないってことだと思うの」 「じゃあ、去年の美月もそんな気持ちだったんだ……」 「正確に言えばこの曲、バレンタインの前日の曲なんだけどね……」  くすくす笑いながら田沢が横沢の顔を見上げると、横沢の手が彼女の頬をそっと包みゆっくりとした動きでなで始める。田沢はその手に甘えるように頬をすりよせまぶたを閉じた。  一年前のバレンタイン、いきなり小さな箱を突き出したうえに「ここで食え!」と顔を真っ赤にさせながら言い放った田沢を、横沢は呆然と眺めていた。その横沢の顔を田沢は忘れていない。いや、正確に言えば忘れられないほど横沢はあきれたような顔をしていて、彼女は自分の行動がかなり恥ずかしく感じて仕方がなかった。  ただ受け取るだけなら、自分が作ったチョコは編集の人間たちに食べられてしまうかもしれない。それだと彼女としてはやりきれないものがある。折角勇気を振り絞ってこの場に挑んでいるのだ、ただ受け取るだけでなく横沢に食べてもらわないと自分自身があまりにもかわいそうだ。田沢はいまにも逃げ出したいところを踏ん張って、横沢をにらみつけた。すると横沢があきれた顔を綻ばせ、それまで一度も見たことがないような優しい笑みを浮かべて、その箱に手を伸ばした。 「一緒に食おうか?」 「え?」 「田沢さんが一緒に食ってくれるんなら、いいよ」  横沢の予想外の返しに今度は田沢が呆然となった。なにせただ渡すことしか考えていなかったから、こんな想定外の返しで切り返されてしまうと、何をどうすればいいのか田沢の頭の中は真っ白になっていた。そしてそのまま横沢は箱の包みをほどき、中に収められている6つのトリュフのひとつを食べはじめた。その様子を田沢はずっと見つめていて、わずかに横沢の眉間に皺が寄ったのを見逃さなかった。 「酒、多すぎ……。これじゃ6つ食ったら酔って仕事どころじゃないな……」 「え?」 「これ、味見した?」  じっと自分を見つめる横沢の視線に気がついたとき、そういえばと田沢はぎくりとした。飲んべえの異名をとるほどの大酒飲みの彼女が、そのブランデーを飲みながら作ったトリュフはもうチョコの味よりブランデーの味のほうが強くなっていて、6つ全部食べてしまえば酒精に負けてしまうだろう。確かに味見はしたが、そのときは完全に酔っ払っていたし、いまいち自信がない。おそるおそる横沢を上目遣いで見上げると、勝ち誇ったような顔で横沢が見下ろしていた。 「してないんだろ」 「した、けど……」 「けど? どうせお前のことだ、ブランデー飲みながら作ったんだろ?」  田沢が横沢の指摘に言葉を詰まらせたときのことだった。いきなり腕をつかまれ引き寄せられてしまい、横沢の唇が田沢に押し付けられただけでなく、口移しにそのチョコを流し込まれ、田沢は何が起きたのかわからぬ状態でそれらを全部受け止めた。 「な? 酒強いだろ? 俺を酔っ払わせてどうするつもりだったんだ?」  横沢が田沢を抱きしめたまま唇を離し、つぶやくように問いかけた。田沢はやはり何が起きたのかわからずただ呆然となったまま、口の中に広がるブランデーの強い酒精を味わっていた。  そのときのことを思い返していた田沢は、ふと気づいた。いつの間にかうなじに唇を押し付けられていて、何度も軽くキスされていることに。そして尻のしたにある横沢のペニスが硬くなっていて、しかも体をまさぐる彼の手の動きも怪しさを増していた。  それの意図するものが何なのか、わからない田沢ではない。だけど行為のはじまりを告げるこのシチュエーションは、一年付き合った今でも少し恥ずかしいものがある。照れ隠しにふてくされた顔をしてみても、この先の甘い時間のことを考えてしまい口元が緩む。  すると横沢の大きな手が、田沢の丸みを帯びた柔らかな乳房を摩るように揉み始めた。とろみのある湯が潤滑剤となり、あまりなじみのない感触に田沢は戸惑う。だが横沢がそれを承知の上でなおかつそのとろみをつかって手を滑らせてくるものだから、その感触に彼女の体は素直な反応を示し始めた。それまでふっくらと隆起していた乳暈が少しずつ硬さを増していくと同時に、横沢の手のひらの動きをより敏感に感じ始めている。 「あ」  ツンと尖った乳房の先端を横沢が手のひらで転がすようにする。そしてそれまで乳房全体に触れていた横沢が彼女の赤く染まった乳暈をつまみ上げ、軽く揺するとそこから痛みとともに疼きが伝わり、田沢の体は全身の肌から些細な刺激さえも拾い始める。背後にいる横沢との間のぬるぬるとした湯の感触さえ、田沢の官能を高めていく。乳房が張り始め、腰の奥にもどかしさを感じ、知らず知らず横沢の固く張り詰めたペニスに尻を押し付けていた。 「このままベッドにいきたいが、その前に一度シャワー浴びよう」 「え?」 「そういや、シャワー浴びるまえに、こっちだな……」  ぼんやりとしながら横沢の話を聞いていると、田沢の足の付け根に横沢が手を滑り込ませ、淡い下生えをかき分け彼女の膨らみ始めたクリトリスを軽くさすると、田沢は軽く背をのけぞらせた。乳房を包み込みながら、親指で乳暈の先をなぶる横沢の腕にしがみついていて、クリトリスから伝わる疼きでどんどん自分の体が淫らになりゆくのを彼女は感じていた。途切れ途切れに横沢の名を呼んでみても、荒くなる呼吸が邪魔をして言葉にすらできていない。  ぬるつく湯と横沢の卑猥な指の動き、そしてどんどん激しさを増すうなじから首筋への唇の愛撫。それらが田沢の体の奥の火種に次々と熱を伝え、いまにも燃え上がりそうになっていた。体の内側からの熱のせいで、じっとりと汗が滲み出す。どんどん意識がクリトリスに集まりだして、同時にそこから受け続けている刺激がより強いものへ感じ始めた。腰がなにかを求め勝手に動き始めたとき、鋭い電流が田沢の体を一気に貫く。その電流の強さに耐えるように唇をかみ締めながら、田沢は絶頂を極めたのだった。  絶頂を迎えた田沢は荒い息を吐きながら、横沢にもたれかけていた。   「美月、大丈夫か?」  横沢は自分のグラスに残っていたシャンパンを飲み干すと、気遣わしげに田沢に声を掛けた。まるで酒に酔っ払ったようなとろんとした顔で田沢が頷くが、酒とぬるめの湯に浸かっていたことも手伝ってオーガズムの余韻がなかなか抜けないままだった。それでも少しずつ体を動かせるようになり始め、田沢は大きく息を吐く。それまで全身を駆け巡っていた血液の流れが穏やかになりつつあって、その代わり心地よい疲労が襲い、今にも眠りにつきそうだった。それに気づいた横沢は田沢の肩をつかみ、彼女の膝裏に腕を伸ばすとそのままゆっくりと抱きかかえた。 「軽くシャワーで流すぞ、これ」  二人の全身はチョコレート色の湯がまとわりついたままで、このままの姿でベッドに向かってしまえば、当然のことだが片づけが大変に手間がかかってしまうだろう。それに気がついた田沢は折角立てたプランの詰めの甘さを感じ、ため息をついた。  横沢はあぐら座になってそのまま田沢を自分の膝の上に座らせる。田沢はいまだに体に力が入らないようで、横沢の胸にしなだれかかっていた。田沢の体を腕で支えながら横沢がシャワーのネックを掴み温かな湯を出すと、それを彼女の足元からかけはじめた。 「もう、大丈夫だよ、真」 「ほんとかよ……」  田沢が横沢の肩に手をかけて転げ落ちないようにした。すると横沢は笑みを浮かべながら田沢の体を洗い始めると、彼女がくすぐったそうに笑い出した。 「ねぇ、このぬるぬるってなかなか落ちないね」 「しっかり洗わないとダメだな、こりゃ……」 「今度は自宅(ここ)じゃないトコで使おうね」 「はいはい」  何気なく田沢がまたそれを使うことをほのめかしているのだが、横沢は受け流した。なんだかんだ言いながら横沢はいつもこうやって田沢の計画の後始末をやらされることが多かった。その横沢の対応にも田沢は慣れっこで、彼女はおとなしく体を預けていた。 「よし、なんとかヌルヌルはとれたな。歩けるようになったらとっとと出ろ。ついでに冷蔵庫からアイス出しといて、俺バニラな」 「はーい」  気だるさは残ってはいるが先ほどまでの倦怠感はなくなっていた。田沢は浴室を出ると体を柔らかなタオルで拭きながらリビングへ向かう。横沢は風呂上りに必ずアイスクリームを食べるので、その用意をしながら次の計画を実行に移そうとした。まず田沢はキャビネットから洋酒のビンをひとつ取り出すと、それを持ちながらキッチンへ向かう。この日のためにわざわざ買ってきたフランベサーバーをキッチンの棚から取り出して、彼女の知り合いから教えてもらったとおりに準備を始めた。  冷凍庫から濃厚なバニラアイスを取り出して、冷やした皿に盛り付けたあと、フランベサーバーにブランデーを注ぎいれて火にかけた。温められたブランデーから芳醇な香りが立ち上がり、その香りに田沢は思わず目を細める。すると横沢がパジャマのズボンだけを身に着けた姿でリビングにやって来て、田沢の行動を眺めていた。 「それか」 「これが一番おいしいのよ、これがカラメルソースっぽくて。それに今日は特別」 「山崎使ってるし。もったいない……」  田沢がこよなく愛するブランデー・山崎の18年である。赤みがかった琥珀色の酒は国内外でも評価が高く、特にこの18年は何度も名だたる賞を戴いている。田沢は毎年山崎の蒸留所まで出かけるほどの愛好者だった。  そして蒸留所へ行くたびに限定品を買ってくる。そこでは、酒以外のクッキーやチョコレートまで販売しているようで、それを一日ひとつずつ食べながら限定品のそれを楽しむのが田沢の一日の締めくくりだった。酒ならなんでもいいわけではない。彼女は酒ならなんでも飲むが、一番こだわりがあるのが国産のブランデーだった。特に山崎には思い入れがある。  田沢が初めて酒を飲んだのは大学時代で、とにかく酔えればいいという感じだったのだが、社会人になったあと、初めて恋した男がブランデーやウイスキーに詳しい大人の男だった。その男が田沢に勧めたのが山崎だった。そして田沢はこのあとほろ苦い経験をする。  その男の左手の薬指に指輪があって、恋してはいけない相手だと距離をとって接していたのだが、若かった田沢はどうしても抑えがきかなくなってしまい、その男の腕に飛び込んでしまっていた。彼の妻に申し訳なさを感じてはいたが、恋はどうにか止めようと思っても止められるものではない。結局その男と道ならぬ関係に走り、気がつけば数年が経っていた。  彼は田沢の自由奔放な性格を愛し、それを丸ごと受け止めてくれていた。それに田沢は甘えていたのだが、そんな関係も彼女が27才を迎えたある日に終わりを告げた。  その日、仕事帰りに同僚達と立ち寄ったレストランで彼女は見てしまう。その男と彼の妻、そして幼い娘が楽しそうに食事をとっている姿を。  それを見たとき、田沢は現実を突きつけられた気がして仕方がなかった。いくら相手を求めても決して手に入らぬ男であることくらいわかっていたはずなのに、男から女として求められる喜びに身を委ね続けている間、その気持ちが薄れてしまっていたのである。このままその男と付き合っていれば、確かに女として求められるだろうが、その先など望むことなどできないだろう。  いくら、その相手を愛していても、その男には守るべきものが確かに存在しているし、男もそれを捨てることなどできないことくらいわかっていた。それでもいいと手を伸ばしてしまったことを今更悔いても仕方がないのだが、田沢が手を伸ばしたことから始まった関係ならば、別れも自ら告げたほうがいい。いまがその時期なのだ。田沢はその考えにいたるまで悩み続けた。  そして、ようやく答えを出した後、その男と利用していたバーで彼女は別れを告げた。男はそれを受け取ったあと、何も言わずに店を出て行った。それから5年。その男が今どこでなにをしているか彼女は知る由もない。自らが決めたことだから、それを振り返るつもりはないし、そんな暇を作らぬように働き続けてきたのである。そんな時横沢と出会い、彼のまじめな姿に惹かれはじめ恋に落ちていた。そのときのことを思い出しながら、田沢は横沢に声をかけた。 「ね、見てて」  田沢は火にかけていたフランベサーバーに火をともし、部屋の明かりを少しだけ落とした。赤い炎がゆらゆらと立ち上がり、気化された酒の香りが部屋中に漂い始める。ゆっくりとその赤い炎を皿にもられたバニラアイスにかけはじめると、バニラアイスが炎をまとう。バニラの濃厚な甘い香りと、山崎のスパイシーな香りが混ざり合った香りが広がった。 「いい匂いだな……」 「でしょ?」 「早く食いたい……」 「もう少し待って、あとちょっとだから」  サーバーに残っていた酒を注ぎ終えると、アイスを包んでいた炎が少しずつ小さくなりはじめ、やがて消えていった。横沢は部屋の明かりをつけた。 「はい、どうぞ召し上がれ」  表面が溶けたバニラアイスにクラッシュナッツを振り掛けた田沢は、横沢に声をかける。すると横沢はそのアイスをスプーンで掬い取り、それを食べた。 「うまい」 「でしょでしょ!」  ひとくち、ふたくちとスプーンにとって食べ続ける横沢はうれしそうな顔をしていた。それを田沢は満足げに眺めている。アイスも残りわずかになった頃、横沢は田沢にスプーンに救ったバニラアイスを差し出した。 「食えよ、食べたいだろ?」  田沢は横沢のこんなところが好きだった。楽しいことは二人で一緒に楽しんでくれる横沢だからこそ、田沢は付き合いだして一年が経った今でも横沢のこんな姿に心をときめかせてしまう。 「ありがと!」  田沢は差し出されたスプーンを勢いよくぱくりとくわえ、横沢の顔を眺める。横沢はとてもうれしそうな顔をしていた。
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