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第40話

 バレンタインデーの二日後、突然部屋に田沢がやってきた。彼女が何かを期待してここへ来たのはわかってはいたが、その前に問いただしたいことがある。 「田沢。部屋に入れてやるから質問に答えろ」 「なんですか?」  のほほんと玄関先で突っ立っている田沢に尋ねると、まるで心当たりがないとでも言うように呑気に返事した。だが玄関先で靴を脱ぎだした彼女を睨み付けると、何かを察したのか急に顔をひきつらせた。 「あのヌルヌル風呂はなんだ! びっくりしたじゃないか!」 「ひっ!!」  わざと声を荒げて尋ねると、彼女は素っ頓狂な声をあげ後ずさった。 「風呂に入ろうとしたらチョコレートの匂いがして嫌な予感がしたんだよ。ドアを開けてみたら、まっ茶色のローション風呂になってるし。お前、そんな話してないよな?」 「あっ、ああ。いっ、言うの忘れたんですよ」 「言うの忘れただと? それならば当日ホテルの人間に電話一本入れれば済むじゃないか。なのに……」  ヌルヌル風呂の件を切り出した途端、田沢は踵を返し出ていこうとしたが、首根っこを抑えつけ更に問い詰めた。すると今度は開き直ってしまい、ついにはふて腐れてしまった。 「だーかーらー、ごめんなさいって言ってるじゃないですか!」  リビングのソファにふてぶてしく座っている田沢が、ふてくされたように大きな声で言い放った。頬を膨らませに俺をにらみつけるその姿の、どこが可愛いのか今度横沢に聞きたいところだ。 「お前が用意したローション風呂で、悠里がどれだけ驚いたか知らないだろ……」 「ちょっ! 先生! 悠里? 悠里って言いましたよね!」  呆れながら田沢に告げると、彼女は目をキラキラさせながら身を乗り出してきた。かわいい恋人の名前を呼んだくらいで、何を騒ぐことがあるのか。そういえばずっと悠里のことを『彼女』としか言ってこなかったことに今更のように気がついた。 「名前で呼ぶくらいいいだろが……」 「そっかー。うまく行ったんだー。よかったあ……」 「喜ぶ前にローション風呂のことを、きっちり締めさせてもらうかならな!」 「ひっ!」  田沢をにらみつけると、顔を引きつらせながら後ずさりする。それを追い詰めるように近づくと、ますます顔を引きつらせていた。 「でっ、でもっ。せ、先生っ。お風呂、楽しかったでしょ?」 「ああ? 楽しかっただと? ちっとも楽しくなかったぞ! 悠里は拗ねるわふて腐れるわ。挙句の果てにおっぱい揉ませてくれなかったしな!」  やけっぱちのように吐き出すと、田沢から冷ややかな目を向けられている。自分の言葉を頭のなかで繰り返したときその理由がわかったけれど、もう後の祭りだ。冷え切った空気が俺と田沢の間に流れ始め、二人とも無口になっていた。 「……最低」 「は?」 「男ってなんで「おっぱい」ばっか食いつくのかしら……」 「そりゃあれだろ。男にはないモンだから……」 「結局男はみんなガキってことでしょ? いつまでもママのおっぱい求めてさあ……」 (おい、田沢! なぜそっちに話を持っていく!)  苦い顔でぶつぶつとつぶやき始めた田沢の瞳は、軽く軽蔑を含んだものになっていた。 「「おっぱい」と「尻」、「くびれ」は女の特権だ。それで男を誘惑し、よりよい遺伝子を求めるようにできているんだし」 「わかってるんですけどね、それ。女性ホルモンがそれらを引き立たせてるって話ですよね」 「分かってるなら言うなよ……。男の本能だ」 「頭ではわかってても、心で受け入れられないこともあるんです。彼女の前で「おっぱい」連呼したら、さすがにドン引きしますから、やめてくださいね」  頭をかきながら話す田沢の顔を見ると、まじめな表情に変わっていた。だがすぐに笑みを浮かべたが、それは苦笑に近かった。 「でも、良かった。収まるべきところに収まって」 「なんだ、それ。絶対悠里は来るって俺に言い切っていたじゃないか」  田沢に背中を押され手紙を託したはいいが、俺はずっと不安を抱えていた。作並で悠里が眠っている俺を置いたまま、そこを立ち去った理由がわからなかったからだ。  田沢にすべてを打ち明けたとき、彼女は悠里の気持ちがわかると言っていた。その理由を田沢に尋ねると、男の俺にはきっと理解できないと意味不明な言葉で返された。 『怖かったんです。あなたの気持ちがわからなくて』  ホテルで悠里からその言葉を聞かされたとき、あらためて自分の気持ちをちゃんと伝えないまま抱いたことを後悔した。 「実は不安、だったんです」 「は?」 「だって、いざとなると腰が引けるものだから……」  田沢はそう言うと、表情を曇らせわずかに俯いた。 「田沢、どういった言葉でもちゃんと相手に伝えないとわからないんだって、改めて思い知らされたよ」 「日本の男性は欧米の男性を見習ったほうがいいです、マジで。言わなくても分かるだろっていうのは男の勝手な考えですから。そのたった一言が、どれだけの自信を女性に与えるか知るべきです。男性だって「好き」って言われるとうれしいでしょ?」 「好きな女限定だがな」 「なら、ちゃんとそれを彼女に教えてあげてくださいね。おっぱい、おっぱいばっかじゃなく!」 「はいはい」  田沢は言いたいことを言い終えたあと、いつものように横沢が持ってきていたせんべいに手を伸ばし、ばりばりと音をたてながら食べ始めた。 「そういや忘れてた。コレ、やるよ」 「へ?」 「お礼だ、今回の。悠里と二人で選んだ」  田沢に大きめの箱を渡すと、子供のような顔で田沢がその中身を確かめ始めた。 「わあ、これ……」 「色違いだから、さすがのお前でも間違えないだろ?」  田沢が手にしたものは、さわり心地抜群のガーゼのガウンだった。ついでに言えば白いガーゼの生地に、ピンクとブルーそれぞれパイピングされているやつだった。そのガウンを手にしながら、田沢は感触を確かめるように撫でている。うれしそうだが、ちょっと困った顔で。 「このブランド、結構高いんですよね……」 「そう、だから俺が買った。ありがたく着ろよ!」 「でも、これ選んだのは彼女ですよね。先生はこんなしゃれたもの選ばないし」 「悪かったな!」  バレンタインの翌朝二人で朝食をとった後、悠里がどうしても着替えたいからと彼女のアパートに送り届けた。同じ服で二日続けて出勤すれば、口さがない職員たちの格好のえさになるらしく、着替えるために帰ったのだ。  その途中で仕事を終えたら二人で食事をしようと持ち掛けたところ、うれしそうな笑顔で頷いた。そして仕事を終えた後二人で食事をしてショッピングに出かけたのだ。そのとき彼女が真っ先に向かったのが、そのガウンを売っている店だった。 『どうしてもちゃんとお礼をしたいから』  悠里がそう言うから、買い物に付き合ったのだが、そのとき選んだものが、今田沢が持っているものだった。そのガウンは、悠里が昔知り合いの結婚式のお祝いを求めるときに見かけたものらしい。そのときは違うものを贈ったらしいが、ガウンのことを彼女はずっと忘れられないようだった。 (まあ、確かに肌触りは良かったな……) 『田沢さんはこういうの好きだと思う』  そう言って悠里が手を伸ばしたのは、恋人・横沢とお揃いで使えるものだった。それを手にしたとき柔らかな布地でできたガウンを手に取り、頬を赤らめながらそう話していた。相手を思いながら贈り物を選ぶ時間が、どんなに幸せな時間か俺は知っている。悠里に贈ったアンクレットは俺の自己満足の象徴だが、彼女はそれをうれしそうに眺めていた。 「そういやそろそろ悠里を迎えに行くんだから、とっとと帰れよ」  ぶっきらぼうにそう言い放つと、彼女は不満をあらわにしながらも、せんべいを食べえた後帰り支度を始めた。あの日以来俺と悠里は毎日一緒に食事をとりながら他愛ない会話をしては少しずつ距離を縮めている。気持ちを確かめ合ってまだ数日しか経っていないから、まだまだ彼女は遠慮がちだ。だけどいつの日にか、互いに好きな本や映画の話をしながら、寛ぎあえるときがくると思っている。 「じゃ、彼女にありがとうって伝えておいてください」 「ああ、わかった。伝えとく」  田沢を玄関先まで見送ると、彼女は笑顔で別れのあいさつを告げて部屋から出て行った。
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