38 / 43

第38話

 荒い息遣いがバスルームに響く。体から力が抜けてくったりとなっている彼女を抱いていると、頬を優しく撫でられた。彼女の顔を覗き込むと、ふてくされた顔で俺を見上げていた。 「意地悪な人、嫌い……」  恨めしそうにつぶやく彼女の姿がかわいくて仕方がない。いくら憎まれ口をたたかれても、それが彼女からならばそれさえ愛しく感じてしまうだろう。 「意地悪? 俺が?」  わざとらしく言いながら彼女の額にキスをする。すると彼女から思いもよらぬ反撃を受けることになった。 「嫌い」  ぷいと顔をそらされてしまい、それに動揺した俺は、とにかく彼女の機嫌を直すことにした。どうやら悪戯が過ぎたらしい。こんなはずではなかったと、いくら心の中で悔やんでみても、それは後の祭りだ。彼女に再会できた喜びに舞い上がりすぎていたことは否めない。顔を背けた彼女の体を抱きしめて、ただひたすら謝り続けた。 「許してあげる」  その一言がようやく彼女から告げられたときの喜びは、再会できた喜びと同じくらいのものだった。 「ね、これって浩正さんが用意したの?」  彼女にキスしようと顔を近づけたとき、湯を掬いながら彼女が尋ねてきた。 「いや、俺じゃない。たぶん田沢が頼んでおいたものだろうな」 「田沢さんが?」 「もともとは恋人と過ごすつもりで押さえておいた部屋を譲ってくれたんだ。彼女がね」 「え‼」  キスしようとしたタイミングを逃しそのまま彼女に伝えると、驚いた彼女がどうしようとつぶやきながら困り果てていた。確かに彼女の気持ちもわかる。もともとこの部屋は田沢が横沢と付き合いだして一年目だからと喜び勇んで部屋を押さえていたのだろうと思う。そんな特別なものを俺と彼女のためにと快く譲ってくれた彼女の気持ちはあのときの俺にとっては正直ありがたかった。  ずっと彼女のことを忘れられないまま、暗闇を歩き続けていた俺を見るに見かねての行動だったと思う。だからこそその気持ちに応えたいし、彼女を喜ばせたい。ずっと彼女は俺のことを思っていてくれていたのだと田沢から告げられたときの喜びを、彼女に教えてあげたい。最後の最後まで田沢と横沢にしてやられた感も否めないところではあるが、あの二人だから俺と彼女の背中を押してくれたのだから。 「悠里、ひとつ提案があるんだけど、聞いてくれる?」 「え?」 「田沢に会ったとき、今回の件で気を遣わせてごめんなさいじゃなく、ただありがとうって言ってくれるかな?」  俺の提案に彼女が戸惑いの表情を浮かべ考え込んだ。同じ女性同士、彼女はきっと田沢がどんな気持ちでこの部屋を押さえたのか理解できるだろうし、それを自分たちのために譲ってくれたことに負い目を感じているだろう。だけど田沢が見たいのは今夜の件を負い目に感じて申し訳ないと謝る姿ではない。 「その言葉で田沢は絶対喜ぶから」 「でも……」  彼女が顔をうつむかせ、申し訳なさそうな顔をする。 「悠里、自分以外の人間を気遣うのは美徳だが、それが過ぎるとなにもできなくなるんだよ」 「……分かってる。だけど、田沢さんの記念日をもらっちゃったってことじゃない……」 「それが田沢の望みなんだ。そういやあいつも自分のことより、他人のことばかり気にしていたな……」  あいつが俺の担当になったとき最初はてこずらされたものだが、田沢と関わっているうちにそれまで過去にとらわれ頑なだった心がどんどん楽になり、いまでは本音をぶつけ合える仲になっていた。出来の悪い妹のような気がしていつしか田沢とのかかわりは深くなり、向こうも率直過ぎる意見をぶつけてくる。仕事だけに限れば田沢より優秀な編集なんていくらでもいる。だけど、言葉で取り繕う人間ばかり見続けていると、田沢のような率直な人間は眩しく見えるのだ。  自分の生きたいように生きることがどれほど難しいことか、俺は身をもって知っている。そして過去に囚われ続ける苦痛も味わった。その過去の暗い檻をものともせずに向かってきた田沢の存在は、俺にとって新しい発見であり驚きだった。  田沢は自分自身が過去に辛い経験をしたことで、それまで見えなかったものが見えるようになったと話していた。そしてそれ以降田沢は積極的に作家と向き合う道を選んで歩き続けている。そうすることで、自分自身と向き合い、今の幸せがいかに大切なものであるかを実感することができると田沢は話していた。 ただの鉄砲娘ではない。そんな彼女だから横沢も田沢を愛したのだし、彼にとって田沢は救いなのだと思う。 「わかりました」 「え?」 「田沢さんに会ったらありがとうって伝えます。あなたと再会できてうれしかったことも伝えたいし」  ここがヌルヌル風呂でなかったら、そのまま抱きしめて押し倒したくなるほど、向けられた彼女の笑顔はかわいかった。  二人で風呂を出た後ガウンを羽織り、軽く食事を摂ることにした。すでに夜も更けて夕食というには遅い時間だ。彼女に再会できた喜びで空腹さえも吹っ飛んでいたのだろう。彼女が仕事帰りであることもすっかり忘れていたのだから。  サラダとクラブハウスサンドイッチ、そしてフルーツの盛り合わせ。それらが部屋に運ばれてきて、二人で映画を見ながら食事を取った。  古い映画を見ながらただ寄り添いあって同じ時間を過ごすことが、これほど喜びを感じるものであることを俺はずっと忘れていた。  食事を摂り終え軽めのワインを飲みながら、二人で寄り添いあっているうちに隣からすうと寝息が聞こえてきて静かにそちらに目を向けると、彼女はすっかり寝入っていた。  俺と同じように彼女もきっと不安だったと思う。彼女の寝顔を見ながら、彼女と初めて会った日から今までのことを振り返っていた。自分自身の欲望に火が点いたように、欲望で彼女を求めただけだと思った。彼女と本能のままに抱き合って欲望を満たしあいたいと俺は望んでいた。  だけどそうではない。あの日俺は彼女に魅力を感じていたし、好きになりかけていた。それなのに自分自身の体のことを言い訳にして、その思いに気づかなかっただけだった。  もし初めて会ったあのとき、彼女を抱いていたならば、きっと俺は欲望だけで彼女を求めたと思い続けているだろう。そして思う人と一緒に過ごせる幸せを忘れたままでいただろう。  そう考えたとき、今この瞬間が奇跡のように感じられた。そして寝入る彼女を愛おしく思えて仕方がない。抱きしめてキスをして触れ合いたい気持ちはあるが、二人で寄り添いあって暖めあうように眠りたい。まるで離れていた時間をぬくもりで埋めるようにして。  眠っている彼女を起こさぬように抱き上げると、彼女の体の重みを感じ今このときが夢ではないとあらためて実感できた。そしてそのまま寝室へ向かい彼女を抱き寄せてまぶたを閉じたとき、抱きしめていた彼女がもぞもぞと動き出した。  しばらくまぶたを閉じたまま彼女の動きを窺っていると、唇に何かが触れてその感触についまぶたを開きそうになる。それが彼女の唇であることに気づき、そのままじっとしていたら彼女の唇が俺の唇を食むようについばみ始め、体がどんどん反応し始めていく。  本音を言えばそのまま彼女を抱きたいくせに、それを押しとどめゆっくりとまぶたを開くと、それに気づいた彼女が唇を離そうとした。彼女の体が離れないようにすぐさま彼女の体を抱きしめる。 「こら……」 「ごめん、なさい……。眠っちゃったから気づかれないと思って……」 「本当に寝ていたら夢だとおもってそのまま抱いたぞ……」 「夢?」 「そう、夢。夢ではいくらでも抱けるからな、悠里を」  夢の中で何度彼女を抱いたことか。彼女と抱き合った夜のことを思い出し、彼女が恋しくて一人で慰めた夜もあったほどだ。抱きしめている彼女を見下ろすと、しゅんとしている彼女の顔がルームライトに照らされていて、それがいじらしく思えた。 「抱きたい……」 「え?」 「これが夢じゃないって確かめたい。悠里を抱きたい」  抱きしめた腕の中にいる彼女に告げると、彼女が小さな声で応えてきた。 「私も、これが夢じゃないって確かめたいの」 「そう、なら確かめあおうか。ゆっくりと、ね」  体を起こし彼女に覆いかぶさりながら告げると、彼女が背中に手を回しぎゅっとしがみついてきた。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!