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第35話

「えっとですね、結婚を前提にお付き合いすることになっちゃって……」  照れくさそうに話す煌を、私と美里は目を大きくさせながら見つめていた。そして二人ともお箸を持つ手が止まっている。お昼休憩中の女子休憩室はにぎやかなはずなのに、全く音が聞こえなかった。煌は私と美里の顔を交互に眺め、様子を窺うようにしている。だが何も反応が無かったからなのか、煌が不安げな顔を向けてきた。 「二人とも、聞いてる?」  その直後隣に座っていた美里が、持っていたお弁当とお箸をテーブルに置いて煌に勢いよく詰め寄った。 「あっ、煌、ちょっといい?」 「う、うん、いいよ」 「あなた、この前絶対断られるって言ってなかった? それがどうなってそうなったのか教えてくれると嬉しんだけど」 「あ、ええと、ですね。伊織さん、あっ、彼なんだけど。その、何も知らないもの同士、ゆっくり時間をかけて関係を築きたいって言ってくれて……」  その言葉を言われたときのことを思い出したのか、煌が顔を真っ赤にさせながらもじもじとしている。それを美里は茫然となって眺めていた。  どうやらうまくいったらしい。煌は嬉しそうな顔で私と美里を交互に眺めている。そのような姿を見ていると、彼と会える嬉しさの上にそれが重なって幸せな気分になった。 「良かったじゃない。上手くいって」  そう言うと煌は嬉しそうな笑みを向けてきた。だがその向かい側にいる美里は未だ茫然となっているようだった。しばらくしてから気を取り直した美里が、更に煌に向かい合う。それを私はご飯を食べながら眺めていた。 「ちょ、ちょっと確認させてね。かなりイイ男だって言ってたけど、実物はどうだったの? あとね煌が心配していた変な趣味とかなかった?」 「あ、うん。普通にカッコいい人だったよ。それにとても優しいし。あと変な趣味も持っていなさそうだった」  ニコニコしながら話す煌に、美里が心配そうな表情を浮かべて再び尋ねた。 「あのね、特殊な趣味を持っている男っていうのはね、普通に優しいし紳士的なのが多いらしいわよ。ちゃんと見極めたうえで結婚を決めることを勧めるわ」  すると何か思い当たる節でもあるのか、煌が僅かに目を大きく見開いた。その瞬間美里が怪訝そうな顔で、身を乗り出した。二人の姿を目の当たりにし、一瞬だけど不安を抱かずにいられなかった。なぜ煌は目を見張ったのだろう。彼女から詳しい話を聞いていない以上しつこく問いただすのも気が引けるし、うまく聞き出す方法を考えていると、その当人の声が耳に入った。 「わかってる。ありがと、心配してくれて……」  煌を見ると嬉しそうな顔だった。その姿を見る限り不安なんて微塵も感じない。しかし私と同じように美里も何か気になるのか、不安げな顔をしていた。 「なんかあったら相談してね。いつものように一人で悩んじゃダメ。あとあんたもよ、悠里」 「え? 私?」  いきなり自分の名前が飛び出したものだから聞き返すと、美里はわざとらしいため息を吐き出した。 「あんたねえ、ここしばらくずっと悩んでたことあるでしょう? 気付かれてないと思ったら大きな間違いよ。あんたってばあまり表情に出さないけれど、悩みごと抱えるとため息漏らし始めるんだもの。いつ話を聞こうかタイミングを待っているうちに解決したみたいだけどね」  じろりと睨まれてしまい、何も言えなくなってしまった。さすが美里と心のなかで呟いて、彼女に笑いかけた。 「ちょっと相談しづらかったのよ。でも解決した。本当よ。だから安心して」 「それはあんたを見ていれば分かるわよ。何年友達やってると思ってんの? お互いに大学卒業したあとからの付き合いだもの」  美里がふて腐れたようにしながら、お弁当を手に取って箸をつけ始めた。美里はとても面倒見がいい。大学を卒業したあと市役所で働き始めたときから、私も煌も美里に甘えている部分があると思う。以前はよく彼女の部屋でお酒を飲みながら、おしゃべりして夜を明かしたこともあった。でも美里が総務に来てからというもの、彼女が忙しくなったこともあり、そんな機会は自然となくなった。 「ねえ、美里、煌。夏のボーナスもらったら、ホテルのスイートルームに一泊しない?」 「はあ?」 「春になれば多分離れ離れになっちゃうから、本当はそうなる前にって思ったんだけど、みんな三月まで忙しいじゃない? それにスイートルームってお高いだろうし、三人で割り勘したら出せない金額じゃないと思うの。どう?」  素っ頓狂な声を出した美里が、笑みを浮かべている煌に向かい振り返る。煌は小さく頷いた。 「春の異動次第ね。それから予定決めてもいいんじゃない?」 「そうね。例年通りだと三月の二週目の木曜だと思うから、金曜日に美里の部屋で三人でお疲れ様会やりながら考えようか」  美里にそう告げると、彼女はトートバッグから手帳を取り出した。 「じゃあ、三月九日、うちで」  それに頷くと、美里はさっそく手帳にその予定を書いていた。  煌から嬉しい報告があった数日後、ついに彼との約束の日がやって来た。  仕事を早めに切り上げて、休憩室で着替え始める。アップにしていた髪の毛を解き、念入りにブラシをかけたあと、お気に入りの薔薇のオイルを塗ると甘い香りが広がった。メイクも少しだけ手直しをして、プラチナのピアスを耳に付ける。そして最後の仕上げに香りのアーチをくぐり抜けると、柔らかな薔薇とバニラの香りがふわりと立ち上がった。ベージュのワンピースに着替えた後、その上に白のツイードのジャケットを羽織る。事務室内用のスリッポンを少し高めのハイヒールに履き替えて、彼が待っている場所へ向かうことにした。  市役所から出ると既に真っ暗になっていた。肌を刺すような冷たい空気に体を竦ませる。クリーム色のコートを着てはいるけれど、さすがに寒い。腕時計を見れば既に十八時三十分になっていた。  バレンタインデーの繁華街は、恋人たちの姿であふれていた。どの人も笑顔になっていて、眺めている方も自然と笑みが漏れてしまう。歩道を行きかう人々の間を通り抜け、目的の場所へと向かう。とくとくと鼓動が高鳴る。火照った頬に冷たい空気が刺さる。でもそれは心地よい刺激となっていた。  会いたい。  たった一言だったけれど、カードに書かれていたその文字を見たとき、どれだけ嬉しかったか彼に早く伝えたい。その思いだけを胸に抱き、私は彼が居る場所へと向かっている。  彼はどんな顔で私を待っているのだろう。  あの日のことをちゃんと謝って、その上で好きだと伝えたらどんな顔をするだろう。  そんなことを考えながら、雑踏をかきわけながら歩道を歩いていると、ようやく目的の建物が見えてきた。  ホテルの門をくぐりぬけ、ロビーの先にあるエレベーターホールへと向かう。あの部屋は最上階だ。部屋の番号は覚えていないけれど、確か廊下の突き当たりの部屋だったはず。落ち着かない気持ちで、そわそわしながらエレベーターを待っていると、しばらく経ってから到着を告げる音が鳴った。ドアがゆっくり開く。  その中に入り目的の階のボタンを押したあと、ゆっくり深呼吸して乱れた呼吸を落ち着かせた。やがてドアが閉まり動き始めた。完全に密室となったエレベーターのなかでひとりになったとき、鏡面のような壁に映った自分の姿が目に入った。  仕事を終えたあと、化粧室で身繕いはした。ひとつにまとめていた髪を下ろし、毛先まで丁寧にブラッシングしたり、メイクをちょっとだけ華やかなものにした。だけど、せっかく付けたプラチナのピアスが見えないし、それにメイクもなんだか濃いような気がする。  ガラスに映る自分の姿を見ているうちに、どんどん不安が募っていった。そのせいか、自ずと表情が曇りだす。不安げな表情を浮かべる自分の姿を見たとき、初めてあの部屋へ向かったときのことが頭に浮かんだ。そしてそれからあとの出来事も、頭のなかに次々と浮かんでくる。  彼と初めて出会ったときのこと。  彼と初めてキスをしたときのこと。  そして、彼と過ごした一か月前の週末のことも。  それらを思い出しているうちに、彼に早く会いたい気持ちが勝り、不安が少しずつ消えていった。そして、上昇を続けるエレベーターの動きがとてもゆっくりしたものに感じ始める。ほんのわずかな時間なのに、とても長いもののように感じた。  通過する階の表示を緊張しながら見上げていると、やがて目的の階に到着した。そのとき到着を告げるベルの音が急に鳴り、思わず体がびくっと痙攣してしまう。閉じていたドアがゆっくりと開き、目の前には見覚えのある光景が広がっていた。  ここから一歩前に踏み出せば、会いたかった彼に会える。だけど、怖くてたまらない。それは、どんな理由があるにせよ、あのとき彼の元から逃げ出したからだ。募る一方だった彼への思いから、目を反らそうとして。  もしかしたら、彼が私に会いたがっているのは、そのときのことを咎めるつもりなのかもしれない。そう思うと、知らず知らずのうちに後ずさっていた。  でも、はっきりさせなきゃ。あのとき、何も言わずに彼の元から去ったことも謝りたいし、何より自分の気持ちをちゃんと彼に言葉で伝えないと、今までと何も変わらない。  だから私は、自分を奮い立たせて、エレベーターから足を一歩前に踏み出した。
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