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第34話

 田沢さんが市役所に来た日から数日後、再び連絡が入った。 『今度そちらに仕事で行くんだけど、夕食食べに行かない? もちろん奢りよ!』  本来ならば付き合うこともないはずの彼女との関係は、付き合いが長くなると友人のようなものへ変わっていた。もう書籍化の話を彼女はしてこないし、こちらの事情も知っている気安さも手伝い、こんなやり取りも増えていた。  それにいつまでも塞ぎ込むわけにはいかない。彼のことを忘れたいくせに、田沢さんから聞かされた言葉が気になって仕方がなかった。 『様子がおかしいみたいなの』 (様子がおかしいって、どんなふうにおかしいのかな……)  一瞬何かを期待しそうになったけれど、慌ててそれをひっこめる。彼女からの誘いを受けることにして、その返事を送ると、すぐに返事が届いた。 『じゃあ来週の金曜日に会いましょう。待ち合わせは駅前のコーヒーショップで』 『わかりました。十九時でよろしいですか?』 『もちろん! おいしいものたくさん食べましょうね』 『楽しみにしています!』  メールのやり取りを終えた後、ため息が出た。彼とのことを忘れたいくせに、彼のことが気になってしまう。矛盾ばかり抱えている自分自身に呆れてしまう。でも、淡い期待を抱いていたのは事実だった。  週末がやって来て、田沢さんとの待ち合わせの場所へ向かう。 来週の金曜日にはもう暦は二月を迎えるし、そろそろ踏ん切りをつけたいと思い始めていた。王道と呼ばれるような出会いじゃなかった。恋愛する間もなく、ただ彼が欲しいと思った。そして彼と素敵な時間を過ごしだけでいいのだと自分に言い聞かせながら、その店に向かっていた。  そう、それだけでいいのだ。今までだってそうやってきたじゃないか。それなのになんで今回に限って、ここまで気にしているのだろう。彼が好きだから? それとも初めての男だから? 結局堂々巡りになっていて、今日もまた答えが出せそうにない。  迷いながら歩いているうちに待ち合わせ場所のコーヒーショップが見えた。もしも彼の話になったとき、普通に話せるか自信がない。だけど彼に迷惑はかけたくないし、どこまでも知らぬ存ぜぬで押し通そう。そうすれば何事もないまま全てがいつもどおりになるのだ。そう心に決めて、コーヒーショップのドアを開いた。  田沢さんとしばらくコーヒーショップで世間話をしたあと向かったのは、駅前の焼き鳥屋さんだった。そういえばこの店は結構評判がいいし、実際その店に向かうと満席に近い状態で、私と田沢さんは席が空くのを待っていた。  待つこと三十分。ようやくテーブルにつくことができた。彼女とメニューを眺め、タレと塩のそれぞれで適当なものを見繕いオーダーする。数分後ジョッキに注がれたビールが運ばれてきて、それに続いて深い草色の器に盛られた焼き鳥が運ばれてきた。 「かんぱーい!」  カシャンとジョッキがぶつかる音がする。二人でごくごくとビールを飲んで、頼んだ焼き鳥をつまみだす。二人でおいしいを連呼しながらしばらく食べていたのだが、頃合いを見計らったように田沢さんが話を切り出してきた。 「あのね、これ、預かってきたの」  テーブルに差し出されたのは、つた模様が描かれたシンプルな封筒で、それには私の名前が書かれていた。その字を見たとき直感した、彼の字だと。 「もしかして……」。 「立花先生から預かってきたの。これ」  彼女はまっすぐ私の瞳を見返した。 「私は詳しい話は知らない。でも、一度ちゃんと話し合った方がいいと思うの」 「そう思うってことは、全部聞いた、からですよね?」 「だって、問い詰めたら素直に認めたんだもの」 「え?」  田沢さんを見ると、満面の笑みを浮かべていた。 「最初に言わせてほしいの。先生は決しておしゃべりな人じゃないわ。むしろプライベートなことはまず話さない人なの」 「……はい」 「あなたのところに立ち寄ったあと先生のところに行ったのだけ師、ずっと思いつめた顔をしていたの。それがずっと気になってた。あなたとの対談をプリントアウトしたものを渡したら、それからずっとそれを見ながらため息ばかりついているし、あなたと何かあったって思っても不思議じゃないでしょう?」 「そう、ですよね……」 「だから今日あなたと会うから、渡したいものがあればって届けますよって言ったら、立花先生ったら大急ぎでこれを……」  そのときのことを思い出したのか、田沢さんが苦笑いを浮かべている。この封筒の中にどんな言葉がしたためられているのか気になるが、期待してはいけない気がした。 「あなたも先生も筆が進まない。しかも同時期に。それに先生はあなたのことを気にしている。あなただって先生のことを気にしているから、そんな顔をするんでしょう?」 「え?」 「あなた、今にも泣きそうな顔をしてる。ずっと何かを抑えている人の顔。私はこの話に関してはどうしろとかそういったことを言うつもりはないの。ただね、夢を描いている人が幸せじゃないと、ハッピーエンドって書けないでしょう? だから自分自身が納得できる終わり方をしてほしいの、それだけ」  話し終えると、彼女はかばんの中からハンカチタオルを取り出して、私に差し出した。 「涙、出てるよ……。ずっと我慢していたんでしょう?」  そのときずっと抑え込んでいたものが一気にあふれ出し、体の奥からこみ上げるものを感じた。いろんな感情が次々押し寄せてくる。悲しい、苦しい、切ない、そして恋しい。彼の顔が頭に浮かぶ。そして次に浮かんだものは彼に会いたいという感情だった。 「田沢、さん。あり、がと……」  声が詰まって、お礼の言葉さえまともに伝えられなかった。ずっと苦しくて、その苦しみに押しつぶされないようにしていたのに、その苦しみが解き放たれてたくさんの感情に変わっていく。 「私も少し前まで恋する女だったから、先輩からのアドバイス。先生もあなたも考えすぎだと思う。好きなら好きでいいじゃない! 勢いよ、あとはい・き・お・い!」  こぶしを握り締め、励ましてくれる姿に思わず吹き出した。確かにそろそろなんとかしなければと思っていた。でなければずっと自分は一歩を踏み出せないまま、また同じことを繰り返しをしてしまう。  これが最後の、本当の最後のチャンスだ。ありったけの言葉で彼に伝えたい。駄目でもともと。もし彼が受け入れてくれなかったなら、そのときは、綺麗さっぱり泣いて涙で流すことができる。そう思うだけでずっと重かった心が、軽くなったような気がした。  田沢さんから渡された封筒の封を開くと、その中には一枚のメッセージカードが入っていた。そのカードを見ると封筒と同じように銀のつた模様がふちを飾っている。そしてそこにはたった一言だけが書かれていた。 『会いたい』  その文字を目にしたとき、体が震えた。まさか夢ではないかと思い、何度も読み返した。でもそのカードは確かに手に持っていて、そこに書かれた彼の言葉もインクでちゃんと書かれていた。彼への想いが体の奥から、一気にあふれ出す。  その文字が歪んで見えてきて、両目から温かい涙があふれ出し頬を伝う。彼のもとから去った日からずっと心の奥に閉じ込めていたものが一気に溢れてきて涙が止まらなかった。たった四文字の言葉を指でなぞると、触れた指先が彼の熱を教えてくれるような気がした。カードを見ると、そこに書かれた彼の文字はそれだけではなかった。 『二月十四日 19:00 初めて会った部屋で待ってる』  その文字を目にしたとき、心臓が大きく脈打った。ものすごい勢いで血液が体中を駆け巡っていく。彼と初めて会った場所、それは昨年末田沢さんから頼まれた対談が行われたホテルだ。  落ち着いた雰囲気の内装や、部屋に飾られた小ぶりのクリスマスツリー。そしてシックなブラウンのソファで悠然と紅茶を飲んでいた彼の姿。彼を初めて見たときに感じた衝撃に近いもの。重ねられた大きな手、そして交わした視線が頭に蘇る。  頬がまた熱くなる。とくとくと心臓が高鳴って、はやる気持ちを抑えきれない。彼に会える。それだけでこんなにも幸せな気持ちになれるなんて、初めて会ったあの日には考えられないことだった。壁にかけてあるカレンダーを見れば、彼に会うまでまだ二週間もある。その当日まで自分自身が正気を保っていられるか不安を感じた。だって今でさえ彼に会うというだけで、こんなにも胸が高鳴っている。あれほどまでに苦しんでいというのに、それが嘘のように消えた。  彼の言葉は私の心にまっすぐ届いた。うれしい。会いたい。恋しい。会いたい。たくさんの温かな感情が体の奥から静かに溢れてきて、カードを胸に押し当てた。そこから温かなものが波のように全身へと広がっていき私を包んでいく。彼に会えたそのときは、迷わず思いを伝えよう。そう心を決めると、気持ちが楽になっていた。
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