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第33話

 田沢から背中を押され彼女に手紙を書いた後、それまでずっと真っ暗闇の森の中を歩き続けていたのに、急に光が差し込み見えなかったはずの道がその姿を現した。その道の先には彼女がいる。そう思うだけで彼女のもとへ行きたいとさえ思いはじめていた。  一刻も早く会いたい。抱きしめたい。そして思いを伝えたい。その気持ちが勢いよく溢れ出してくる。もし彼女も俺のことを思ってくれているのならその思いに応えたいし、それ以上の思いを彼女に注いでやりたかった。  もうあの日から一ヶ月近く過ぎていた。彼女が残したキスマークはもう残ってはいないけれど、その場所に触れるたびそこがじんわりと熱くなる。胸の奥がツンと痛み、そこからせつなさが広がっていく。あの日から考えないようにしていた彼女の姿が頭に浮かんだ。  作並の駅で俺を見たときのほっとした顔。勃起傷害のことを話したときの悲しげな顔。  温泉で背後から抱きしめたときの恥らう姿や、蕩けゆく女の顔に変化した彼女の顔。  初めてのオーガズムを迎えたあと甘えるように体を摺り寄せてきたときの彼女の顔。  そのどれもが愛おしい。  そして破瓜の痛みをこらえながら、俺にしがみつくように抱きついた彼女の腕の感触や、背中に這わされた小さな手の感触は、今でもはっきりと思い出せる。彼女を抱きしめた手は、白くなめらかな肌の感触を忘れてはいない。  手足はほっそりとしているのに体つきが女らしい彼女の肢体は、暗闇に浮かぶ白い花のように感じた。たとえて言うならば月下美人の花だ。ふんわりと柔らかな花弁が徐々に広がり、その奥に隠されていた花芯があらわになってそこ立ち上るかぐわしい香りがあたりに立ち込める。その花を欲望のままに握りつぶさないように、そっと触れるだけで精一杯だった。田沢に促され手紙に書いたのはたった一言だ。その言葉以外、なにも思い浮かばなかった。  会いたい  本当ならばもう少し気の利いた言葉でも書きたかったが、彼女の姿を思い浮かべたときその言葉しか出なかった。官能小説とはいえ文字を紡ぐ立場の人間として考えればあまりにも情けないと思うが、伝えたい言葉に余計な飾りは必要ないと思う。飾り立てたことでその言葉にこめられた思いが相手に伝わらなければ意味がない。  だから俺はその言葉を書いた。彼女は手紙を見たとき、どんな表情を浮かべるのだろう。田沢が部屋から出て行ったあと、俺はそんなことを考えながら、窓の外に広がる灰色の景色を眺めていた。 「先生、そういえば彼女になにかプレゼントしないんですか?」  リビングのソファに座り、せんべいを食べていた田沢が尋ねてきた。彼女が突然この部屋にやってくることは、もう珍しくもなんともないことだが、ここを休憩所替わりにしている彼女に一言言ってやろうと思い、そこへ向かう。  ぽりぽりと小気味のいい音を立てながら食べているせんべいは、先日彼女の恋人・横沢がわざわざ老舗のせんべい屋から買ってきてくれたものだった。醤油の香ばしい香りとせんべいの香りが交じり合い食欲を刺激する。別に食い物を取られた恨み言を言うわけではないのだからと自分自身に言い聞かせ、田沢をにらみ付けた。 「ここは休憩所じゃないんだが、お前仕事中だろ? とっとと帰れよ」 「あー、そんなこと言っていいんですか? 誰のおかげでバレンタインにラブラブデートができるんでしょうねえ」 「まだデートできるかわからんだろ!」 「えー、絶対来ますって。やだなあ、先生ったらかーわいい!」  田沢が雑誌を読みながらせんべいを食べる姿に、何も言えない自分が情けなく感じた。だがここで引き下がってしまっては、今後なにかにつけて田沢は彼女とのことを引き合いにしてくるに違いない。口を開こうとしたとき、いきなりこちらを見上げた田沢がにやりとしながら読みかけの雑誌を俺に見せてきた。 「先生、これ、これ!」 「ああ? なんだそれ」 「これね、いま女子の間で人気のあるブランドなんですよー」 「それがどうした。買って欲しけりゃ俺じゃなく横沢に言え」  田沢に文句を言いながらも、ついつい彼女が差し出した雑誌を見てしまう。そこにはたくさんのアクセサリーの写真があって、その一つを田沢は指差していた。 「これね、なかなかかわいいんですよねー」 「だから、欲しかったら横沢に買ってもらえって!」 「先生、ところで、バレンタインデーに彼女にプレゼントするもの、決めました?」 「は?」 (ちょっと待て。バレンタインデーは、男が女からチョコをもらう日だろ!)  心の中で田沢に突っ込んだとしても、当然彼女から返事がくるわけがない。目の前では、田沢が、あきれた目で俺を見上げている。そして、落胆が滲んだため息を吐き出して、俺に不満げな視線を向けてきた。 「先生。もしかして、バレンタインデーは男が女からチョコをもらう日だろって心の中で叫びませんでした?」  そう尋ねられたとき、言葉を詰まらせてしまう。すると、田沢は勢いよくまくし立てた。 「今はね男が女にプレゼントする日なんですよ!」 「そんなもの知らん!」 「彼女をモノにしたいんでしょ? ならプレゼントをするべきですってば!」 「モノって、お前ね……」  田沢の魂胆は見え見えだ。おおよそ彼女へプレゼントするものを選びに行こうとする俺に付き合ってやるとかいいながら、結局仕事をサボりたいだけだろう。まったくこいつはとあきれつつも、田沢の言葉が頭の中でこだまする。 『彼女をモノにしたいんでしょ? ならプレゼントをするべきですってば!』  モノにしたいかしたくないか、当然答えはモノにしたいに決まってる。だからといって田沢にそう答えたら、どう考えても後々まで彼女にからかわれ続けることになる。それに、本当に彼女に会えるのか、信じ切れていない自分がいるのも事実だった。  年を重ねていくとどんどん臆病になってくる。まだまだ涸れてはいないつもりだが、どうしても彼女のことを考えてしまうと情けないほどまでに自信を持てないままだった。彼女は若い。作並で見たあどけない寝顔は少女のように愛らしかった。 「ねえ、先生。これいい!」 「うるさい、だから横沢に言えってば!」  彼女のことを思い出しているとき、それをぶち壊すような田沢の言葉に、逆ギレしてみたところで不安が消えるわけでもない。壁にかかっているカレンダーを眺めながらため息をついた。 「お客様、贈り物をお探しでしょうか?」  にっこりとした笑顔で若い女性が近づいてきた。それに何と答えたらいいのか言葉に窮してしまう。田沢を部屋から追い出したあと、買い物へ出たついでに立ち寄った宝飾店は、田沢に見せられたアクセサリーを販売している店だった。  別に田沢に感化されたわけではない。ただ作品の中で登場する女性に身につけさせるアクセサリーを、どんなものにするか見に来ただけだった。というのはただの言い訳だが。  もともとアクセサリーは魔よけやお守りだったものが、どんどん趣向を凝らし煌びやかになったものだという。特に自分以外の誰かから贈られたアクセサリーには、その意味合いが含まれるのだと昔誰かが話していたのを聞いたことがある。  女性にアクセサリーを贈ったことなどほとんど経験がないし、何を贈れば彼女が喜んでくれるのかまったくわからぬままに店に飛び込んでしまったことを少しだけ後悔した。 「まあ、贈り物ですが、どれがいいかわからなくてね」 「恋人へ贈るなら指輪かイヤリング、ネックレスですね。何歳くらいの方へ贈られるご予定ですか?」 「え、ああ。二十九才の女性なんだが。指輪やネックレスもいいが、あまり目立たないもののほうがいいかなと……」 「それならブレスレットやアンクレットはいかがです?」  その時なぜか彼女の足首が頭に浮かんだ。彼女の足首は折れそうなほど細かった。アンクレット、つまりは足かせがルーツのアクセサリーだ。彼女がいつでも俺を思い出せるもの、そして俺を忘れないでいられるもの。男の独占欲と言われればそれまでだが、もし彼女がそれを身に着けてくれたなら嬉しい。 「お客様? いかがなされました?」 「え? いや、なんでもありません」 「こちらがブレスレットとアンクレットです。できるだけ目立たないようなものをいくつかご用意しましたが、お気に召されたものがございましたらいいのですが……」  黒いビロードの布が張られたトレイにいくつか並べられている細いブレスレットやアンクレットを眺めていると、どれもたいして違わないように見えた。そのなかでふと目に留まったものがあり、それを手にとってみるとチリンとかわいらしい音がした。 「それ、新作なんですよ。鈴のアンクレットです。ただ音が気になる方ならお勧めはしませんが、かわいらしいでしょう?」 「これだとどこにいてもわかりますね」 「そうですね。それにこれ、ちょっと仕掛けがあるんです」 「仕掛け?」  ガラスケースの上に乗せられたトレイからその女性がアンクレットを指でつまみ、金具のあたりを俺に見せてきた。 「これね、一度ロックしてしまったら、付属の鍵じゃないと解錠できない仕掛けなんですよ。バレンタインの時期にあわせて仕入れたんですが……」 「そりゃ結構物騒だな……」 「まあ[解けない愛]っていうコレクション名ですのでね。永遠の愛を誓うって意味合いで贈られる方も多いらしいです」  永遠の愛、か。今後彼女とどのような付き合いになるか判らぬ今、そのようなものを贈っていいものか少しためらう。だけど今俺は彼女との未来を望んでいる。  他にも数点違うデザインのものを見せてもらったが、その鈴のアンクレットがどうにも気になってしまい、それを買うことにした。  チリ、チリリとかわいらしい音がするアンクレットは、きっと彼女の細い足首に似合うだろう。そしてその音がするたびに、俺のことを思ってくれる日が来てくれたら嬉しいのに。俺はそんなことを考えながら、かわいらしいアンクレットを眺めていた。
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