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第32話

 田沢がマンションにやって来たのは、そろそろ一月も終わろうとしていたときだった。  その数分前に横沢から電話があって、二月に差し出せる書きかけの原稿を探しているときだ。部屋のチャイムを激しく連打し田沢がやって来た。男もできたことだし、もう少し落ち着いてほしいのが本音なのだが、それを言う気にもなれない。物すごい勢いでチャイムが鳴り響く中、田沢を部屋に招き入れた。  もうとっくの昔に担当ではないのに、田沢は暇さえあればここにやって来て、好き放題引っかき回して帰っていく。それにつき合わされるこちらの身にもなってほしいのだが、彼女がいるときは余計なことを考えないで済む。  この日も相変わらずの挨拶から始まり世間話に興じていたが、何かを思い出したのか彼女がかばんの中から薄い茶封筒を取り出し、それを俺に差し出してきた。 「あ、そういえば忘れるところだった。あのときの模様を記事にしたものです」 「あのとき?」 「ええ、ホテルで男と女のセックス観について話をしたときのやつです。どうせ先生サイトとか見ないでしょ?」  そのサイトとは、彼女がいる部署で立ち上げた投稿サイトのことだ。女性向けの官能部門を立ち上げたばかりの頃、そこの編集長とともに田沢はネット小説サイトを立ち上げたのだが、それ以降田沢はその編集長にその部門に来るよう口説かれていたらしい。  田沢からから手渡された茶封筒を開くと、一枚の紙が入っていた。それを取り出してみると、俺と彼女が隣り合わせで話している写真があった。そして印字された文字を目で追っていると、彼女のコメントにどうしても目が行ってしまう。しばらくそれを何も言わずに眺めていると、彼女と過ごした二日間の出来事が頭に浮かんでしまいため息が漏れていた。 「結構面白いものになったって褒められました」 「誰に?」 「ああ、うちの編集長にですよ」 「そうか、よかったな……」  そう言いながら受け取った記事をまた眺め、彼女の頬を指で撫でる。すると田沢が、今まで見たことがないほどまじめな顔を突然向けてきた。 「先生、真(まこと)から、新作を書けていないって聞いたんですが」 (相変わらずの直球で来たか) 「スランプだろ、何も浮かばないから過去の書きかけを整理しながら書いてるよ」 「……あの日のお二人の様子を真に教えたら、彼こう言ってました。相手を欲しいと思ったなら、心から相手を求めたってことなのに、先生はそれを否定しているって」 「そういえば、欲情さえ愛だと言い切っていたな、横沢のヤツ。もしそれが愛ならば、勃起した相手全員に恋愛感情を持っていることになるぞ。健全な男なら性的魅力を持った女になら恋愛感情を持っていなくとも勃起する。この時点で横沢の指摘は間違っていると思うぞ」 「まあ、そうでしょうね。でも行動は起こさないでしょう。しかも直接的な。違いますか?」  田沢の表情が真面目なものに変わる。 「……何が言いたい」 「二十代のときより随分分別もついた男が手を伸ばしたってことは、勢いだけだけではないと思うんです。だってそうでしょう? ただヤりたいだけじゃない。相手の全てが欲しいって思わないとそこまで手は伸ばさないと思うんです」 「それは女の勝手な言い分だよ、田沢。お前に男の何がわかる」  こいつは一体どこからどこまで知っているんだ。ホテルで彼女と初めて会って、直接的な誘いを仕掛けたときから部屋を出て行くまでの短い時間だけしか知らないはずなのに、すべてわかった風な言い方をする。それに彼女の口ぶりは、俺の勃起障害を知っているとしか思えない。 「先生が本を書き始めたきっかけ。私は知っています」 「は?」 「覚えていないですよね。二年前私が作並に行って、二人で酒をしこたま飲んでたときです。先生が教えてくれたんですよ。もう自分は誰かを愛することはないって、その理由も一緒に」  二年前といえば、田沢が地蔵巡りをしたときだ。日本酒を携え作並にやって来た夜、二人でしこたま酒を飲んだのだが、彼女の背中を押したあと酔いつぶれてしまっていた。恐らくそのとき酒で口が滑ってしまったのだろう。 「俺がお前に話したってことか?」 「ええ、男にとって惚れた相手に女としての悦びを与えられないほど辛く苦しいものはない。相手が自分を求めていればなお更だと苦しそうにおっしゃっていました。だからそんな状態にも関わらず、誰かに手を伸ばしたってことは、それが全ての答えだと思うんです。女の場合は少し違いますけどね」 「……それは男を受け入れる側だからこその覚悟ってやつか?」 「そうです。相手のことを受け入れたいからこそ許せるんです、体を。まじめな女ならなお更ですよ」  どんどん外堀を埋めていく田沢の姿に、いつものいい加減さは微塵も感じられない。恐らくそれまで周りに見せていた姿は仮のもので、それを見抜いていた横沢は大した男だと思う。 「で、何があったのか教えていただけますか?」 「え?」 「彼女、今月に入ってから何も書けない状態に陥っているんです。ネットで作品を公開している作家には、書けなくなることが度々あるんですが、その理由って大きく分けて二つなんです。一つは言われなき誹謗中傷を受けたこと。そしてもう一つは自分自身の恋愛がうまく行ってないこと。それで先日彼女に会ってきて、プライベートなことだとピンと来たんです。私はお二人が寄り添いあってホテルの部屋から出て行くところを見ていましたし、それに……」  田沢がそのときのことを思い出しているのか、頬を赤らめほほ笑んでいた。対談を終えたあと彼女がティカップを口に運び、それを離したときの濡れた唇に欲情したのは事実だ。だけどそれより前に彼女に好意を抱いていなかったわけではない。履き慣れぬ高いヒールを履いてよろめく姿や、俺と田沢との会話に涙を浮かべながら笑っていた姿に好感を覚えていたのは事実だ。  このとき自分の心の中にぽっかり空いた穴に、何かがカチッと音を立てて嵌ったような気がした。それがきっかけとなって彼女への思いがあふれ出す。彼女が恋しい。彼女の笑い顔をずっと見ていたい。恥ずかしがる仕草もすべて全部愛おしい。だが、あの日寝ていた俺を一人置き去りにし、立ち去ったのは彼女の方だ。 「それに対談中の彼女の姿に、ああ、もしかして先生のこと好きになっちゃったかなって思っていたんです」 「はあ?」 「まあ、先生はスーツ着てそれなりにすればもてますからね。本当もったいない」 「おい、少しは言葉を選べよ。それじゃまるでふだんの俺がそうじゃないって言ってるようなものじゃないか」  田沢をにらみ付けると、冷ややかな目を向けられた。 「だって初めて先生と会ったとき、どんな格好だったか覚えてます?」 「あ……」 「髪は寝癖だらけ、締め切り近かったから何も手入れをしていないのか、顎には無精ひげ。身に着けていたのはよれよれのシャツに、同じくよれよれのコットンパンツ。これじゃあねえ……」  田沢が苦笑しながら、じろじろと無遠慮な視線を向けてきた。 「じゃ、全部白状してください。彼女との間に何が起きたのか」  身を乗り出してきた田沢の顔は、横沢と同じように意地の悪い顔をしていた。 「で、どうするつもりなんです?」  最初から全て話し終えた後、田沢が尋ねてきた。俺の話を聞き続けた彼女の意見も気になるところだが、その前に俺の気持ちを確かめようとしているのだろう。 「どうするって言われても……。こっちは八方塞に近いな。完全に心を持っていかれてしまったし」 「……先生の方が彼女に参っちゃったってことだけは分かりました。あとは彼女次第、かな」 「え? どういうことだ、田沢」 「そのままですよ、先生は彼女の気持ちを知りたい。でも怖いんでしょ、はっきり彼女から聞くのが?」  的を射た指摘にぐうの音もでなかった。意外に田沢が鋭い指摘をするものだから、何も言い返せない。 「彼女も何かしら思うことがあるから、何も書けないような気がするんです。といっても彼女からそのあたりを聞かされていませんし、私がそこまで踏み込んで話せることでもないですから」 「まあ、彼女は商業作家でないし、お前は彼女の担当でもない。たとえ友人に近い関係であったとしても難しいところだろうよ……」 「だから、先生に一つ提案したいことがあります。聞いていただけますか?」  田沢はそう言うと、かばんの中からクリアファイルを取り出し差し出してきた。 「この中にレターセットが入ってます」 「え?」 「会って話しあうのが一番の解決方法だと思います、先生」 「いや、ちょっと待て、田沢……」 「場所と時間ならちょうどいいところがあるんです」 (は?) 「本当は私と真が使うために予約したんですけど、先生と彼女にお譲りしますので使ってください」 「え? おい、どういうことだ」 「彼女と初めて会ったホテルのスイートルームです。真には私から話しますし、きっと彼も賛成してくれると思います」  田沢はそう話すと、にっこりと笑ってレターセットを俺の手に置いた。 「余計なことは書かなくていいです。ただ今の先生の気持ちを一言だけ。あとはあのホテルの名前と部屋番号、時間を書いてください。そうすればあとは私が彼女に手紙を渡しますので」 「……もし、彼女が受け取ってくれなかったらどうするつもりだ」 「そのときは彼女のことを諦め切れるでしょう? 彼女の気持ちがわからないから悶々としているんでしょうし」 「まあ、そう、だけど……」  クリアファイルに収められたレターセットを取り出すと、つた模様が施された封筒と便箋には見覚えがある。彼女が俺の担当になったあたり、作品を書いている間彼女は簡単な料理を作ってくれていて、それとともに添えられていたのがその便箋に書かれた何げない言葉だった。  彼女は勝手気ままな振る舞いこそしていたが、その実気遣いができることを俺は知っている。原稿を書き上げ、テーブルの上に残された野菜炒めや煮物の横に置かれていた手紙に、何度気持ちが温かくなったことだろう。 「じゃあ、頼んでもいいか、田沢」  俺の様子を窺うように眺めていた田沢にそう伝えると、彼女は嬉しそうな顔で頷いていた。
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