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第29話

 週が明けてふだんの生活に戻ってみれば、毎日があっという間に過ぎていく。電話対応や窓口対応に追われる毎日が続き、彼のことを思い出さないように仕事に励んでいた。忙しくしていればその間だけは彼を思い出さずに済む。だから気持ちが楽になれた。  だけど、仕事を終えてアパートに戻ると、そこまで気を紛らわせるものがないから、どうしても思い出してしまう。食事を作っても、本を読んでも、テレビを見ても、必ずと言っていいほど週末の出来事を思い出し涙ぐんでいた。  そんなとき、ずっと投稿サイトにアクセスしていないことを思い出し、ラップトップの電源をオンにした。思えば彼と顔を合わせた直後から何も更新できていない。あれからもう一か月近く経とうとしているし、さすがにこのまま何も書かないでいると、何も書けなくなってしまうような気がして焦り始めた。  そしてサイトにアクセスし、流れをメモしたものを読みながら肉付けしようとするけれど、それができなくなっていた。以前はそれが自然にできていたのに、全く浮かばない。なんとか言葉をひねりだそうとするけれど、何も出てこないばかりか彼の姿が浮かんでくる。  彼の温かい手。優しい言葉、そして柔らかな唇、熱い体。今でも全部はっきりと思い出せる。そしてそれが欲しくてたまらない。恋は人を愚かにするとは、誰の言葉だっただろう。今の私はまるで羅針盤を失った船のようで、どうなってしまうのか自分自身分からない。 「会いたい……」  もう会えない人だと頭ではわかっているのに、心は彼を求めている。口から思いがそのまま言葉になって出てしまっていた。自分の気持ちさえ整理できていないのに、小説なんか書ける訳がない。結局何も書けないままラップトップの電源を落としたあと、何も映っていないパネルを眺めながらため息を漏らす。  もとはといえば、男心というものに触れたいがために参加しただけだった。だけど肝心の男心に触れる前に、その相手に恋してしまい、その相手に抱かれたはいいけれど、相手の気持ちを知るのが怖くて逃げ出した。それなのにその相手を恋々と思い続けている。  愚かしいと思う。浅ましいとも。そんな状況の中で文章なんて書けるわけがない。もしかしたら、もう何も書けないかもしれない。幾ら書こうとしても、気持ちを切り替えることができなくなっていた。  結局ラップトップをまた閉じる。そうしているうちに私は何も書けなくなって、やがて投稿サイトにアクセスすらしなくなっていた。  一月もそろそろ終わるころ、田沢さんからメールが届いた。 『年末の対談のときの写真をお渡ししたいので、ランチでも行きませんか?』  そのメールを読んだ後こんな状態で彼女と会っていいものか、さすがに悩んでしまった。結局その対談の直後から更新もできていないし、彼女に会ってしまえば自然と彼の話にもなる。その後の彼の様子が気になるけれど、それを聞いたところで胸の痛みは強くなるばかりだろうし、また眠れない夜が続くだけ。できればもう、彼のことを思い出したくない。  彼のこと知りたい。でも知りたくない。彼に会いたい。でも会いたくない。そんな気持ちを抱えたまま、返事をしないうちに時間だけが過ぎていく。その後田沢さんからの連絡は来なかった。これでようやく何かが終わった気がして、未開封のメールを全て削除した。しかしその数日後、職場に田沢さんがやって来た。 「返事がなかったんで、忙しいかなと思ったんだけど、来てしまいました」  朝から降っていた雪はまだやんでいないようで、彼女が着ている茶色のトレンチコートには、白い雪がついている。田沢さんは苦笑しながら、私の様子を窺うようにしていた。 「すみません、忙しくて……」  言い訳にしてはありふれた言葉が口から飛び出してしまう。向けられた瞳が不安げに揺れていた。 「忙しいときにごめんなさいね。これ渡したらすぐに帰ります」  彼女が肩にかけていた茶色のショルダーバッグから茶封筒を取り出して、それを私へと差し出した。それを受け取り彼女を見ると、じゃあと手を振りながら立ち去ろうと背中を向けた。それを眺めていると、急に振り向いた。 「あのときの写真が中に入ってるの、それ」 「え?」 「立花先生との意見交換のときのやつ」  茶封筒の封を切り、中身を確かめてみると、確かに写真が入っていた。そこにはあの日の彼が映っている。それを見たとき、全身が瞬時のうちに熱くなった。頬がじんじんと火照る。早鐘を打ち鳴らしたかのように鼓動が高鳴った。それまでぽっかりと大きな穴が開いていたところに、温かいものが注がれる。みるみるうちに心が満たされ、幸福感に包まれた。写真とはいえ彼の姿を目にしただけで、こんなにも嬉しい気持ちになってしまう。だが同時に胸の奥が切なく痛んだ。もう彼に会うことはない。会っちゃいけない。もし顔を合わせてしまったら、私は私でいられなくなってしまうだろう。今だって許されることならば、彼のもとへ行きたいとさえ思ってしまっているのだから。 「これから同じものを立花先生のところに持っていくの」 「これから、ですか?」  沸き起こる感情を抑えながら尋ねると、田沢さんは困ったような顔をした。 「そうよ。いつもなら一月いっぱい温泉旅館に籠っているんだけど、松の内が終わったあと急にこっちに帰ってきたみたいなの」 「そう、なんですか……」  なんと返していいのか分からず、曖昧な返事をすると田沢さんが私をじっと見た。まるで胸の裡を読もうとでもするような鋭いまなざしを向けられて、居たたまれなくなってきた。しばらくして田沢さんがため息を吐き出した。 「様子がおかしいみたいなの」 「え?」  向けられたまなざしが、何かを訴えているような気がして仕方がない。田沢さんは何も知らないはずだ。あの日彼とエレベーターの中で何をしていたかなど。それに温泉旅館で何が起きたかなんて知るはずがない。だけど、彼女は全てを知っているような気がして仕方がなかった。 「さて、そろそろ行かなくちゃ」  彼女がその場を離れようとする。 「た、立花先生に頑張ってくださいって、お伝えください」 「ええ、伝えます。あ、あとね、更新、焦らないでね」 「えっ?」 「締め切りがないことも投稿サイトのいいところなんだし、より良いものを届けたいから悩むことは悪いことじゃない。むしろ時間を掛けることも必要だと思う。それにさぼっている訳じゃないんでしょ?」  田沢さんが振り返ってにっこりと笑う。純粋に私のことを心配してくれているのが嬉しいと同時に、申し訳なさが募る。書けないのは、彼のことを思い出してしまい、自分の中で整理をつけられないままだからだ。  眠る彼に別れを告げてから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。そろそろ気持ちの整理がついてもいい頃だとは思うけれど、今だって気を緩ませてしまえば泣きそうになる。彼に会いたい、でも会えない。 「じゃ、そろそろ行かないと」  その声にハッとなり、現実に引き戻された。 「あ、わざわざありがとうございました」 「いいえ、じゃあまたね。お仕事頑張って!」  別れを告げた彼女の背中を見送る。手渡された茶封筒は、そのままかばんにしまい込んだ。いつになったら胸の痛みがなくなるのだろう。いつになったら思い出になってくれるのだろう。席に腰掛け、胸の中に抱え込んだ苦い思いを吐き出すように、ため息をついていた。
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