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第28話

 ひんやりとした空気が頬を撫で、目が覚めた。首と腰に彼の腕が回されている。耳を澄ませば寝息も聞こえた。彼の気配を全身で感じながら、ゆっくりと瞼を開くと、目の前には彼がいて、ぐっすりと寝入っている。  じっとしたまま眺めていると、自然と口元が緩んでしまう。乱れた髪が額に掛かっていて、それを払いのけようと手を伸ばそうとしたとき、気だるげに息を吐きながら彼が私を抱き寄せた。彼の体に押し付けられてしまい、背を撫でられた。まるで子供をあやすみたいに、ゆっくりゆっくり撫でられて、再び眠りに落ちそうになってしまう。それだけ彼の腕の中は心地よい。ずっとこのままこうしていたいとさえ、思ってしまうほどだった。  でもそれは許されない。そう思いながらも、眠る彼の胸に顔を埋めてしまう。好きな人の腕の中にいるのに、幸せなはずなのに、どうしてか胸が痛む。その痛みは胸を締め付けるような痛みで、息苦しくなってきた。体が震える。視界が歪んできて、涙が溜まってきてこぼれ落ちてしまいそう。行かなきゃ。ここから早く離れなきゃ。頭の中で声がする。そうしなければ、いつまで経ってもこの苦しみはなくならない。  彼を起こさぬように、ゆっくりと体を離す。それまでぴったりと重なっていた体の間に、ひんやりとした空気が入り込んできた。少し離れただけで彼の体温が恋しくなってくる。体に巻きついた彼の腕がぴくんと動き、心臓が大きく脈打った。私の体を引き留めようとするかのように、彼が無意識に引き寄せようとする。そのたびに辛くて悲しくて、やり切れない気持ちで彼の体から静かに離れた。  既に夜明けを迎えていたようで、部屋は薄暗いとはいえ明るくなり始めていた。ひんやりとした朝の空気を肌に感じながらベッドからゆっくりと離れる。だけどそこからなかなか離れられず、彼の寝顔をしばらく眺めていた。ようやく鎮まっていた涙がこみ上がる。体が勝手に動き出し、眠っている彼に触れるだけのキスをした。重ねた唇が震えだし、名残を惜しむようにゆっくりと離れると、彼の穏やかな寝息が唇に掛かる。  全身に気だるさは残ってはいけれど、とにかくこの場から離れたかった。ベッドの側に落ちていた黒いレースの塊を拾い上げ、音を立てぬようにそこから離れた。  寝室を出ようとしたとき、無意識に振り返ってしまい彼の姿を眺めた。涙が滲んできて、彼の姿が歪む。早く出ていかなきゃ、彼に気付かれてしまう。そうしたら、きっと彼に甘えてしまうし、その先を求めてしまうだろう。そうなる前に、離れなきゃ。そう言い聞かせ、彼への思いを断ち切るように、そこをあとにした。  寝室に片隅にあるクロゼットからボストンバッグを引っ張り出して、すぐに着替えを終えて部屋を出た。朝のひんやりした空気が廊下に流れていて、まだ夜が明けきっていないのか人の気配も感じられない。  ロビーに向かう途中スマホで時間を見てみると、朝の七時をまわったばかり。それから電車と新幹線の時間を確かめて、このまま駅に向かうことにした。しずまりかえったロビーを通り抜け建物を出ると、キンと張り詰めた冷たい冷気が肌を刺す。どうやら夜の間に雪が降っていたようで、アスファルトにはうっすらと白い雪が積もっていた。  ふいに向かい側を見ると、昨日彼とお参りした神社が見えた。そのあと二人で買った御籤と地蔵参りしたとき買い求めた小瓶は、ツイードのポーチにしまい込んでいる。  駅へ向かう道すがら、思い出すのは彼のことだけ。胸の痛みはどんどんひどくなり、しまいには息苦しさを感じ始めた。彼のことを考えないようにしながら、とにかく駅を目指した。  早く一人になりたい。一人になって、思い切り泣けば、きっと楽になる。そして、時間はかかるけれど、この週末の出来事はいつかきっと過去になる。  こみ上げる涙だって、今だけのものだ。この体の奥から湧き上がる思いだって、今だけのこと。苦しい、辛い、今にも身が引き裂かれそうな痛みが全身に走る。  涙でゆがんだ視界の先に駅舎が見えた。切符を買い求め、逃げるように電車に乗り込む。日曜の早朝の電車はひどく閑散としていて、こんな姿を見られたくない自分にとっては都合がいい。  そして発車のベルが鳴り響く。それが鳴り終えたときゆっくりと電車が動き出した。風景が少しずつ流れ始める。これでいいのだと自分に言い聞かせ、体を貫く痛みに耐えながら、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締める。心が軋んだ。ぐっと涙を押しとどめ、唇をかみ締め目を閉じた。やがて、電車が動き出したのか振動が伝ってくる。ようやく彼から離れることができた、そう思ったらほっとするより、寂しさを感じたものだった。  仙台駅に着くころには、幾分落ち着きを取り戻すことができた。でも心は暗く沈み込んだままだけど。  東京へ向かう新幹線に乗り込んで、指定された座席に向かう。席に腰掛けぼんやりとホームを眺めていると、彼のことが浮かんできた。  自分自身の体のことを話していた彼の真剣な顔。初めて味わったオーガズムの余韻で、ぐったりした私を眺めていたときの心配そうな顔。少しふてくされた彼の顔、穏やかな笑みを浮かべた彼の顔。思わずぞくりとするほどの色気を滲ませた彼の顔。  そして、私の姿を見つけたときの、ほっとしたような彼の顔が頭に浮かんだとき、一気にそれまで抑え込んでいた感情が押し寄せてきた。  そのとき発車のアナウンスが耳に入ってきて、無意識のうちに体が動いていた。ボストンバッグを持って新幹線の出入り口へ向かったけれど目の前でドアが閉じてしまい、その向こうの景色がゆっくりと動き出す。  寝室を離れた後応接室の片隅で着替えていたのだが、そのとき鏡に映った姿を見て驚いた。そこに映っていた体には、たくさんのキスマークが残されていた。それは彼が一時でも私を求めてくれた証し。それを見たとき嬉しくて、胸がいっぱいになっていた。  そのときのことが頭に浮かび、ずっと抑えていた思いがあふれ出してきた。それが涙となって頬を伝う。こみ上げてくるものを、どうにか抑えようとしたけれどできなかった。体が震えだし、立っていられず壁に手をついた。体を支えられるだけの力も残っていないし、気力もすっかり尽き果てていたのだろう。そのままずるずると崩れ落ち、子供のように泣きじゃくっていた。
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