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第17話

 彼の話を聞き終えたあと、気がついたら胸の痛みに耐えきれず涙を流していた。交わす言葉もないままに、ただ重苦しい沈黙が流れていく。しんと静まりかえった部屋では、時計の秒針の音だけが聞こえていた。ようやく胸の痛みが治まり、目に溜まった涙をぬぐって彼を見ると、何かを考え込んでいるのか目を伏せていた。 「あの……」  声を振り絞り声を掛けてみると、彼はゆっくりと瞼を開き、穏やかな笑みを向けてきた。その表情を見て、ほっとしてしまう。 「どうしたの?」 「その後その、別れた方は……」  すると、彼は目元を緩ませた。 「ああ。彼女はそのあと結婚して、いまでは3人の子供の母親になってる。彼女が望んだ夢そのままにね」  まるで我がことのように顔をほころばせる彼の姿に胸が痛んだが、同時にほっと胸をなで下ろした。 「よかった……」 「え?」 「あ、ごめんなさい、つい……」 「いいや、その反応は正しいよ。俺も彼女のことを聞いたとき、嬉しかったから」  私がほっとしたのは、彼女がようやく幸せを掴んだからではないような気がした。だけど、それがなんなのか分からない。曖昧に笑みで返すと、戸惑いの表情を浮かべながら、彼が言いにくそうに口を開く。 「それで、あの日のことなんだが……。それまでずっと生身の人間に対しては、その、勃起していなかったんだ。だけど、なぜかあのとき君を意識したら、その、正常に反応してしまってね。つい……」  その言葉を聞いた瞬間、体から熱が抜けていった。「つい」ということは、恐らく衝動的な欲望を抱いたのだろう。あの日からもう随分時間が経っている。その間、私への興味は失われてしまったのかもしれない。それなのに、浮き足だってここまでやってきた私を、どうしたらいいのか考えあぐねているようにも見えた。 「だから、もし君がここに来たなら……」 「なら?」  できることなら、その先は聞きたくない。でも、ちゃんと聞かないと。そうしなければ、私は前に進めない。向けられた真剣なまなざしを受け止めようとしてじっと見つめ返す。すると、彼は顔をこわ張らせたあと、意を決したように話し始めた。 「ちゃんと説明した上で、俺のやりかたで君を抱きたいと思っていた」  掛けられた言葉の意味が分からない。私は戸惑った。窺うような眼差しを、彼は私に向けている。 「それは、どういう意味ですか?」 「そのままの意味だよ。挿入だけがセックスじゃない」 「あの日は、その、そういう状態になったんでしょう?」 「ああ、だから抱こうとした。でもそれがまたそうなるか分からないんだ」  彼が、困ったような顔で話す。彼が迷っている理由が、なんとなくだが分かった。 「まあ、薬を飲めば大丈夫だとは思うが、あれは使いたくない。こう見えてもまだ男でいたいからね。薬に頼ってしまえば、なんだかもう男ではないと宣言されたような気持ちになる」 「え?」 「だってそうだろう? その気もないのに薬を使えば誰に対しても「臨戦態勢」になれるんだ。そしてその効果が出ている間、偽りの欲望で女を抱くことになる」 「偽り?」 「そう、薬で無理やり勃起させることになるからね。俺からすれば、それは偽りにしか思えない。つまらぬ意地だとわかっているが、まだそこまで涸れちゃいないよ。現に作品を書いているときは、その、勃起しているし」  苦笑いしながらも照れているところを見れば、あながち嘘ではないらしい。 「私も作品を書いているとき、その、体がその反応をしているから分かります」 「男も女も変わらないと思うよ。官能的な表現を思い描くと、自分が欲情するようなものになっていると思うしね。残念なことにそうしているときでないと、俺は「男」になれないんだ」  寂しげな笑みを浮かべながら、彼はお茶を一口飲んだ。それにつられるように、私もお茶を口に含ませる。ふいに気が付いたことがあり、彼に問いかけた。 「あの、ところで、その、「治療」とかされてます?」 「ん? ああ。まあ以前はカウンセリングや投薬で治療を行っていたけれど、作品を書いているとその症状は出ないし、もうストレスで不能というより、気持ちの持ちようなんだと思うよ。生身の女に反応しないだけ」  彼はそう話しながら私の目の前にある茶器に手を伸ばし、熱いお茶を注ぎいれた。白い湯気が立ち上り、ふわりと柔らかな茶の香りがする。新しい茶を注がれた器が差し出され、再び彼が話し始めた。 「この話の続きは明日にしようか。もう0時を過ぎた」  腕時計を見ると、確かにもう日付が変わっていた。 「そうですね。今日はゆっくり休むことにしましょうか」 「その前に向こうにある露天へ行こうか。少し肌寒いが温泉は温かいし、入っているうちに熱くなるよ」  そのとき部屋の窓から見えていた露天風呂が浮かんだ。もうもうと白い湯気の向こうに見えた岩づくりの露天風呂。しかもそこへ行こうとさらりと誘われた。心臓が忙しなく脈打ち、頬や耳が熱くなる。 「どうする? 少し温まって寝た方がぐっすり眠れるよ」  彼の表情を窺うが、特に意識してそう言ったわけではないような感じだった。 「……じゃあ、遠慮なく」 「先に入っておいで。俺は資料をしまった後で行くから」  それに頷いて応えた後、脇に置いていたボストンバッグを持って脱衣所へ向かうことにした。  部屋の一角にある脱衣所は、四畳ほどの狭い空間だった。応接室の隣にある寝室との境に引き戸があって、そこを開けると網代網みの床の脱衣所になっている。そこに足を一歩踏み入れると、ひんやりとした床の感触が足の裏から伝ってきて、更に外の空気が入り込んでいるのか冷たい空気の流れを感じ、ぶるりと体が震えた。  着ていたものを一枚一枚脱いでいくごとに、肌に突き刺ささるような冷たい空気を感じた。脱ぎ終えた後棚の上に置かれていた厚手のバスタオルを体に巻きつけ、髪の毛をクリップで結い留めたあと露天風呂へと続く引き戸を開いた。その瞬間温かい湯気が顔にかかり、体をもふわりと優しく包み込んだ。刺すように冷たい空気と暖かい空気が混じり合い、それが肌を撫でるように掠める。  石畳の先を見ると、照明で明るく照らされた岩づくりの露天風呂が見えた。視線を横にずらすと、先ほどまでいた応接室がガラスの向こうに見えている。部屋に入ったときガラス窓の向こうは、湯気のせいではっきりと見えなかった。この湯気がなければ、応接室に残る彼に体を見られてしまいかねない。 (見えて、ないわよね……)  ちらと応接室の方へ目を向けながら、体に巻き付けたタオルの胸元を引き上げる。湯気の向こうに見えた部屋には彼の姿はない。それにほっと胸をなで下ろし、先にある風呂へと向かって歩き始めた。  大きめの岩に囲まれた露天風呂は、小ぢんまりとはしていたが風情を感じさせた。風呂の周りを背の高い竹垣が囲んでいて、石が敷き詰められた床には柔らかな光を放つ行灯が置かれている。平らな岩に腰を下ろし、つま先を湯につけてみると結構熱かった。だけどそれは体が冷え切っているからで、湯の熱さに慣らしながら、ゆっくりと脚を浸していくと、そこから少しずつ温かくなってきた。  ようやく膝まで湯に浸かったとき、あたりを見渡してみると暗闇が広がっていた。空を見上げてみると、東京ではお目にかかれないほどの星空が広がっていて、星がちらちらと瞬いていた。湯の熱さにも慣れてきて徐々に体を浸らせると、じわじわと肌から熱が入り込んできた。どうやら知らず知らずのうちに、かなり緊張していたらしく、温められたことにより体のこわ張りが緩んでいく。  仕事を終えて職場を出たのが19時。日付こそ変わってしまったが、それから数時間後東京から離れた温泉地で露天風呂に浸かっている。一日のうちでこれ程変化を伴ったことがないだけに、不思議な気持ちになっていた。  ぼんやりと空を眺めながら湯に浸かっていると、脱衣所のある方から戸が開く音がした。それからすぐに湯気が揺らめき、とたんに緊張が走る。 (来た……)  とくんと大きく心臓が跳ね、全身が一瞬のうちに熱くなる。勝手に体が動いてしまい風呂の奥へと逃げていた。ひたひたとこちらに近づく足音がして、その音に背を向けたまましゃがみ込む。すると間もなく彼の気配を背中越しに感じ、石のように体が固まって動けなくなっていた。
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