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第16話

「さ、早く入って」  言われるままに部屋の中に入ると、すぐに畳の香りがした。部屋を見渡すと応接間とその奥に部屋がある。暗くて分からないけれど、どうやら寝室と思われた。部屋の隅に山積みになっている本とラップトップが置かれている。通された部屋には大きなガラス窓があり、障子が開け放たれていた。その向こう側に目を向けると、そこには――――。 「温かい茶を煎れるから、適当なところに座って」 「は、はい」  私のすぐ後ろから彼がすっと現れて、部屋の中央にある座卓へと向かった。それを追いかけるようにしながらコートを脱いで、目の前にあるふんわり盛り上がっている座布団に膝をついて腰を落とす。すると彼は目の前に腰を落としたあと、慣れた手つきで茶を淹れ始めていた。薄い焼き物の器からゆらりと白い湯気が立ち上り、同時に緑茶の匂いが辺りに広がった。 「はい、どうぞ」 「ありがとうございます」  黒い漆塗りの茶托(ちゃたく)に乗せられた白い茶碗を差し出され、すっかりかじかんだ手を添えると痺れるほど熱かった。そのまま手を添えているうちにその熱に慣れてきて、器を口元に運んで口に含むと、熱い湯に溶けこんだ緑茶の甘さが口中に広がると同時に鼻から香りが抜けていく。 「よく来てくれたね。寒かったでしょ」  向かいにいる彼を見ると、笑みを浮かべてはいるが、緊張しているように見えた。 「遅い時間になって、すみません」 「いや、仕事を終えたあとだから仕方がないよ。ところで、あなたに話しておきたいことがあるんだ」  真剣な表情を向けられて、急に不安になった。彼はこれから私に何を話そうとしているのだろう。もしかしたら、遠まわしに断ろうとしているのかもしれない。そう感じた。すると急に気持ちが萎れてきてしまい、心が重く沈んでいく。つい目を伏せてしまいそうになりながらも、どうにか彼の瞳を見つめ返した。 「聞いてくれるかい? 今から話す話を聞いたあと……。もし、もし駄目なら今夜はもう遅いし、温泉に浸かって休んでいけばいい。そして明日東京に帰ってくれて構わない」  言葉を慎重に選びながら話す彼。しかも言いにくそうにしている。私はテーブルの下で手を固く握り締め、彼が話し出すのを待っていた。 「俺はED、つまり勃起障害なんだ」 「え……?」  彼から聞かされた言葉に驚いてしまい、思わず言葉が漏れていた。 「今でこそこんな仕事をしているが、その前は普通のサラリーマンをしていてね。その頃結婚を前提に交際していた女性がいたんだ」  思いがけない形で彼の過去を聞くことになり、しかも結婚まで考えていた女性(ひと)の存在まで聞かされて、私は居たたまれない気持ちになっていた。 「その当時は自分自身の仕事に誇りをもっていたし、やりがいを感じてもいた。ただ忙しすぎて彼女となかなか会えなかったのが辛かったな。彼女もフルタイムで働いていたし、時間をやりくりして、少しでも重なる時間があれば会っていた。でも……」  その頃を懐かしむように彼は静かに話していた。だけど言葉の最後、わずかに目を眇めさせながら辛そうに顔を歪めさせている。 「でも、彼女と会うことを避けるようになっていた。その気になっても、肝心のものが思うようにならなくなってから。彼女と会うことと、セックスすることは同じ意味だったし、彼女を抱いて女の喜びに打ち震える姿を見ると安心できた。彼女は俺を愛しているのだと。そしてそんな姿を見ると実感できた。彼女を心から愛していることを。それなのにそれができなくなって、俺は……」  彼は言葉を詰まらせた後瞼を閉じた。唇を固く引き結び黙り込んでいる。恐らく愛するひとと抱き合えない辛さを思い出し、それに耐えているのだろう。重苦しい沈黙が二人の間に漂い、時間だけが過ぎていった。 「俺はその事実から目を逸らすように、彼女を避けるようになった。それまでどんなに忙しくとも寸暇を惜しんで会っていたのに、それができなくなったとき普通は不審を抱くものだと思うが、彼女は何も言わなかった。今思えば彼女は薄々気付いていたのだと思う、俺の体の異変に」  自嘲を含んだ笑みを浮かべている彼を見ていると、胸が痛くなる。 「だがいつまでも誤魔化せるものじゃない。病院に行って診断してもらったあと、彼女と話し合った。彼女は特に驚きはしなかったが……。落胆していた」 「落胆、ですか?」  彼に聞き返すと、小さく頷いた。 「彼女は子供が好きな人でね。子供達に囲まれた幸せな家庭を築くことが夢だったんだよ。俺はそれを知っていたし、そんな家庭を彼女と築きたいと思うようになっていた。だから俺が勃起障害だとはっきり分かったとき、落胆を隠せなかったんだと思う」 「でもそれは一過性のものじゃ……。私は詳しい原因は分からないけれど、ストレスとかだって聞いたことがあるし……」  私は知り得る限りの情報を、頭の中から引っ張り出した。すると彼が声を低くさせて尋ねてきた。 「その状態が一年以上続くと、一過性とは言えないんじゃないかな」 (一年?) 「長い人生で考えると、一年も一時的になるのかもしれないね。でもその一年は、思うよりずっと長く感じた」  真剣な瞳をまっすぐ向けられてしまい、息をのんだ。彼がその事実を恋人に打ち明けるまで、そして病院で診断を受けるまで、有に一年。その一年という時間が、彼が抱いた苦悩の深刻さを表しているような気がした。 「彼女はセックスなどしないでもかまわないと言ってくれたんだ。優しい人だ、随分悩んだと思う。そして出した結論がこんな俺に付き合うことだった。いつ勃起障害が治るかわからないのにね」 「それだけあなたを愛していたってことですよ」 「そうだろうね、彼女は俺を愛していた。俺も彼女を愛していたよ、心からね。でもね、このときから二人の間に溝というか壁というか、温度差のようなものを感じ始めたんだ」 「温度差、ですか?」  聞き返すと彼は穏やかな笑みを浮かべ頷いた。表情は穏やかなのに、思いつめたような目をしている。 「そう、温度差って言った方がいいのかな。彼女はセックスしなくても、肌をくっつけ合うだけでいいと言ってくれたんだけど、俺はムキになったように挿入せずとも彼女を満足させてやれる方法をとったんだ」 「それって……」 「前戯って言ったら良いのかな。それだけで彼女を満足させようとしたんだが、彼女はそれを嫌がるようになった。なぜだか分かる?」  彼が話す前戯が、どのようなものかはある程度予想はつく。だけどそれを嫌がるようになった恋人の気持ちは分からなかった。 「たとえ肉体的に絶頂に達していても、一つになったっていう充足感がなかった、っていえば分かるかい?」  セックスの経験がない私にとって、彼が言うところのそれは分からなかった。 「分かりません。そういったものを経験していないので……」 「きっとそれが分かるときが来るよ。本当に好きな人とセックスすると、体だけで得られる快感よりも心で得られる充足感によりオーガズムはより深いものになるらしいし」 「そうなんですか?」 「俺は女じゃないから分からないけれど、男だって好きな人とセックスしたら肉体的な快感より、精神的な喜びの方が強いと思うよ」  かつて父親の書斎で読んだ官能小説には、肉体的な快楽に溺れる女性たちの姿が描かれていた。彼女たちは彼が話すところの、精神的な充足感を得られていたのだろうか。それともそれがないままだったのか不意に疑念が生じたものだが、その答えは出そうにない。 「プロポーズした直後だったんだ。思うようにいかなくなったのは。それから一年抱き合えず、抱き合っても充足感を得られない。だけど愛情が残ったままになっているから、表にこそ出していなかったけれど辛かったんじゃないかな。だから彼女に別れを切り出した。いや違うな。無理やり別れた、これも違う。俺が突き放したって言った方が正しいな」 「え……?」 「彼女を解放してやりたかった。こんな俺と結婚しても、子供はおろか精神的な女の喜びを与えてやれるか分からないからね。だから欲しいものを与えてくれる男を探した方がいいと言って別れた。でもそれは言い訳で、本当は俺が音を上げただけかもしれないな」 「音を、上げたって。どういう……」  悲しげな表情を浮かべて彼は頷いた。 「男としての自信を失うと同時に、人間としての自信も揺らぎ始めたんだよ。仕事に対しての自信もね。だから今思えば全てのものから俺は逃げ出したんだ」  そのときの彼の状況が、どのようなものであったかなど分からない。でも目の前にいる彼の表情を見ると、相当深刻なものであったことが窺えた。 「仕事を辞めて実家に帰ろうとしたとき、駅での売店でたまたま手にしたものが官能小説でね。実家に向かっている間にそれを読んでいたら勃ったんだよね」 「え?」 「驚いたよ。それまでどんなことをしてもそうならなかったのに」  自嘲気味にそう言った後、彼はお茶を飲んでため息を吐き出していた。 「まあ、気負いも全部捨て去ったあとだったっていうのが理由なんだと思う」 「え?」 「仕事も恋人も全部捨ててしまったから、ストレスがなくなったって言えばわかりやすいかな」 「なら、そのとき―――― 「もし、そのとき勃起したからと言って、彼女の元に戻っても、万が一勃たなかったら?」  彼から切り替えされてしまい、私は言葉を飲み込んだ。 「俺は彼女を散々傷つけてきた。勃起したからといって迎えに行っても、また駄目だったら今度こそ人間としての自信を完全に失ってしまうだろうし、彼女を再び悲しませてしまう。そうなるくらいなら、何もしないで一人で生きた方が楽だと思った」 (うそ! ならなんでそんな悲しい顔で話すの?)  思わずそう声をあげそうになって、何とかそれを押しとどめた。誰だって一人で生きるのは寂しいに決まっている。それなのに彼は一人で生きる道を選んだ。そこに至るまでの彼の苦悩を思うと、胸が押しつぶされるような痛みを感じた。
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