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第14話

 御用おさめの日、仕事を終えたあと家族が待つ実家へ向かった。実家は同じ市内にあるのだが、兄の結婚を機に私は実家を離れ一人暮らしを始めたのだ。  実家に戻り、両親と兄夫婦、そして生まれたばかりの姪とともに年末を過ごしたのだが、その間自ら決めたものが揺れることは一度もなかった。どうやら一度腹を括ってしまえば、度胸や覚悟は追いつくものらしい。ただ家族との穏やかな時間が、いつもよりとても愛おしいもののように感じた。  実家のリビングの壁に掛けられていたカレンダーを見ると、御用始めの数日後に一月の最初の週末がやってくる。一月最初の金曜日。部局によっては新年会が入っていそうだが、私がいるところは入っていない。それに今のところ友人達との約束も入っていない。だからその日の勤務を終えた後、彼の待つ温泉宿へ向かうことにした。  古くから仙台の奥座敷として称された作並温泉。彼はそこにいる。もとは歴代仙台藩主のかくし湯と伝えられていて、古さでいえば平安の昔から奥州の名所として知られていた秋保より歴史は浅いらしい。  早速スマホで新幹線の時間を調べてみると、最寄りの仙台までなら23時の最終まで運行はしている。ただしその温泉の最寄り駅までの交通手段は限られているようで、遅くとも20時の新幹線に乗らなければ、その日のうちに目的の場所に到着することはかなり厳しいようだった。そうなると、遅くとも19時までに仕事を切り上げなければならない。 (多分、大丈夫だと思う、けれど……)  スケジュールが空いているとはいえ、問題はその日の業務だ。どうにかして十九時までに仕事を片付けようと新年早々固く決意した。  一月の最初の金曜日は、早々に仕事を切り上げて帰る職員が多かった。仕事を終えたあと、市役所から少し離れた場所でタクシーを拾い東京駅へと向かったのだが、19時40分発の新幹線にはあと一歩のところで間に合わなかった。  今日中に作並に到着するためには、次の新幹線で向かわないと間に合わない。すぐにそちらの切符に変えてもらい、プラットフォームで新幹線の到着を待つことにした。冬の冷たい空気が頬をかすめ、息を吐くたびにそれは白い霧となって空気に溶けるように消えていった。かじかんだ手をすり合わせて温めようとするけれど、冷たい夜風に晒されているせいでなかなか温かくならず、ポケットに差し込んだところ、そこにいれていたメモに気が付いた。 (連絡、したほうがいいのかな……) 『来月はそこに籠もって書いているから、できたら週末においで』  彼はああ言ってくれてはいたが、いつ来てくれてもいいとは言っていない。念のために連絡をした方が良いのではないかと思い立ち、バッグからスマホを取り出し連絡を入れることにした。  番号をすべて押し終え、メモに書かれている番号と見比べて間違っていないか確かめた。そして発信ボタンをタップして、スピーカーを耳に押し当てたとたん、スピーカーから聞こえてくる呼び出し音以外の音が聞こえなくなった。  コール音が一つ鳴る。心臓がとくんと脈打ち、切なくなるような痛みがそこから広がった。  二つ。緊張が走り、スマホを持つ手が震える。  そして三つ。心に不安が広がり始め、急に胸が締め付けられるような痛みが襲い掛かってきた。 (お忙しい、のかな……)  ずっと張りつめていたものがふいに緩んでしまい、不安が一気に広がって心を覆い尽くそうとする。不安に押しつぶされてしまいそうになって、そこから逃げ出すようにスマホを耳から離そうとしたとき、スピーカーの向こうから彼の声が聞こえてきた。 「はい、立花です」  その声を耳にしたとき、心臓が大きく跳ねた。血液がものすごい勢いで全身を駆け回り、体が一気に熱くなる。 「あ、あの……」  何も考えられなくなっていて、言葉をうまく話せなくなっていた。 「もしかして、花總さん?」  その声を耳にしたとき心臓が締め付けられるように痛くなり、その痛みを逃すように息を吐き出した。 「はい……」  吐き出した息が白い靄となり、目の前をゆらりと揺蕩い、冷たい空気に溶けていく。 「これからこっちに向かうの?」 「はい、これから新幹線に乗ります」  高鳴る胸の鼓動を抑えながら、自分自身に言い聞かせるように答えた。するとしばらく間を置いてスピーカーの向こうから聞こえた声は、私の頭の中を真っ白にさせた。 「待ってる」  その言葉が聞こえた瞬間、心臓を鷲掴まれたような鋭い痛みが走った。すぐにその痛みは温かい熱となって全身へと広がっていく。 「はい……」  頬が熱い。耳から聞こえる彼の声が、私の心を温かく包み込む。 「こっちは東京より寒いし雪もある。新幹線の中でも寒くないようにするんだよ」 「はい……」  どんな言葉を掛けられても、頷きながら「はい」としか言えなかった。彼の優しい声がとろりと耳から入り込むたび、口元が緩んでしまう。すると彼が急に黙り込んだ。少しの沈黙のあと、そこから聞こえた言葉は予想外のものだった。 「早く、会いたい」  時間が止まったような気がした。何も考えられない、感じない。ただその言葉だけしか聞こえない。その言葉は心にまっすぐ届き、胸がじんと熱くなる。 「私、もです……」  悲しくもないのに涙ぐみながら答えた。 「無事にこちらに来ることを願っているよ」 「分かりました。遅い時間になってすみません」 「いや、仕事を終えてからなら仕方がないよ。じゃ、またあとでね」  彼はそう言い終えた後電話を切った。スピーカーに耳を押し当てながら、彼の声の余韻に浸っていると、まるでそのときを見計らったように新幹線がホームに滑り込むように入ってきた。  20:16 東京発はやぶさ35号は定刻どおり発車した。新幹線が少しずつスピードを上げていき、窓から見える夜景から少しずつ光が消えていき、やがて漆黒の闇へと変わっていった。それを眺めていると元いた世界からどんどん離れていくような気がして、不安になってくる。  向こう側が真っ暗なせいで、ガラス窓には私の姿がはっきりと映っていた。そこに映っているのは、大人しそうで目立たない私自身の姿だ。窓に映るもう一人の私の姿を眺めていると足元が涼しくなってきて、前に置いていたボストンバッグからひざ掛けを取り出して脚に掛けた。  これから向かおうとする場所には、今まで一度も行ったことが無い。だけど不思議と不安や恐れは感じない。ただ、一刻も早く彼に会いたいという気持ちしか存在していなかった。
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