12 / 43

第12話

 十二月も中旬を過ぎると、時間の流れがいつもより速く感じる。それは何も私だけに限ったことではない。周りを見渡してみると、皆一様に忙しなく動き回っていて、その中にいるとますます何かに急かされている気にさせられる。焦ったところで仕事がはかどる訳じゃなし、いつも通りに仕事をするだけ。なのだが、あの日以来それができなくなっていた。  午前の窓口を終えたあと机に戻れば、御用納めまでに片付けなければならない書類が山積みになっていた。それに今月末が提出期限になっている書類もまだ手を付けていない。ラップトップの横に積まれた書類を眺めていると、自然とため息が漏れてしまう。  仕事がはかどらない理由、それは彼だった。彼の姿が頭に浮かぶと、とたんに手が止まる。それにあの日の自身の行動も思い出してしまい、余りにも恥ずかしくて居たたまれない気持ちになってしまうのだ。  気持ちを切り替えて、仕事を再開しようとした。頭の中に浮かんだ彼の姿や声、それとともに蘇った匂いや体温をすべて追い払おうとした。でもそれを阻むかのように、体の奥からじわじわと熱が瞬く間に広がっていく。そして切ない痛みに変わって胸を締め付けてくる。そうなったら最後、何も手につかなくなってしまうのだ。本当にたまったものじゃない。  それに日課だった小説の更新だって、あの日からできなくなっていた。気を抜いたとたんに彼のことを思い出してしまい、いつものように現実逃避しながら更新用の話を組み立てていたのができなくなっていた。  今まで書けないことは何度かあった。趣味として書いているだけだし、無理を押してまで書こうという気にはならなかった。だから疲れたときは書かなかったし、当然仕事の繁忙期は執筆のペースが落ちる。でも作品に仕上げないだけで、浮かんだエピソードをメモにして残すことはできていた。だけどそれさえできないなんて初めてのことだった。  いついつまでに更新しなきゃならないとかルールがある訳じゃなし、気が向いたときに更新できるのがネット小説の利点だと思う。だけど更新が滞れば「更新まだですか」というコメントがついてしまい、焦ってくる。それだけ楽しみにしてくれている方がいるのは嬉しいことなのに、反面急かされているような気がして申し訳ない気持ちになってくる。そして今日も何も書けなくて更新できなかった。それだけじゃない。眠りに落ちかけたとき、彼から告げられた言葉が頭の中に蘇ってきて、目が冴えてしまった。 『君は、俺でいいのか?』  躊躇いがちに話していた彼の姿が浮かんできた。 『こんな俺を初めてに選んでいいのかと聞いている』 「こんな」なんて、自らを卑下するような言い方を、何故彼はしたのだろう。見栄えもいいし、大人だし、何より官能作家として脂がのっている人だ。彼がその気になって誘えば、喜んでついていく女性は少なくないと思う。 『それにあなたの初めてをもらう俺にも覚悟が必要だ』  どのような覚悟なんだろう。彼は女の初めてを特別なもののように思っているが、私自身はそう特別なもののように思ったことがない。多分それは女友達から「初めて」の話を聞かされたからだと思う。彼女たちの話は「痛い」か「痛くなかった」に終始していた。それを聞いているうちに、いかに相手に大事にされたかどうかを聞かされているような気にさせられた。  それに「初めて」を終えた友人は、一歩抜きんでたような存在として見られていたし、彼女たち自身もそれを意識していたように感じる。今となって考えると、私にとってはただの通過点のようなものだけれど、先生にとってはそうではないのかもしれない。 『よく考えて結果を出しなさい』  よくよく考えてみると遠回しに拒まれたような気がした。でも拒んだのであれば、あのようなメモを差し出すはずがない。  不安になってベッドから起き上がり、手帳に挟んだままになっていたメモを取り出した。そこに書かれている旅館は確かに存在しているし、その下に書かれている番号だって恐らく先生本人のものだろう。ということは完全に拒んでいるわけではない。でも来るからには、抱かれることを覚悟しろということだ。  先生に抱かれる。そう思ったとき、あのときと同じように体の芯が熱を帯びた。あのときは何も考えずキスも抱擁も受け入れていたし、もしも私が処女だということを言わなければ、あのまま抱かれていただろう。それを私はあのとき望んでいたのだから。 『初めてのセックスで人生が変わることだってあるんだ』  彼とセックスをしたあと、自分の中で何かが変わりそうな気がした。今はそれがなんなのか分からないけれど。彼とセックスしたら、彼は私の初めての男となって記憶に刻まれる。彼にとっても初めて抱いた処女として記憶に残る存在になるかもしれない。いや、きっと残らない。こんな小娘のことなど、すぐに忘れてしまうに決まっている。だって彼が求める女性像とは余りにもかけ離れているから。  自分自身が恋愛小説らしきものを書くようになって、気づかされたことがある。それはそこに描く男性に理想の男性像を重ね合わせていることだ。  彼は商業作家(プロ)だ。私のように自分自身の好みだけで書いているわけではない。だけど彼の作品を読んだとき、なんとなく彼の好みが分かってしまった。  ふだんは清楚で慎ましいが、男の腕の中では大胆に乱れる女。そのような女に私がなれるわけなどないし、彼だってそれを求めてはいない。ただあのとき偶然その気になった相手が処女で、しかもその相手がどうしても抱いてほしいと言ったから、押し切られてしまったといったところだろう。そんな相手に彼が先を望むわけがないし、私もそれを望んではいない、はずなのに。どうしてか無性に寂しさを感じた。  しんと静まり返ったアパートの一室でメモを手にしたまま、そのときのことを振り返っていると、夜更けの冷たい空気で冷えたのか、体がぶるりと震えた。その震えで我に返り、メモを手帳に挟み込んだ後ベッドに戻って眠ろうとした。  だけど一端冴えてしまった意識は、なかなか眠りに落ちてくれようとしない。それだけじゃなく、体の芯の熱は残ったままで、そのせいでなかなか寝付けなかった。  そんな調子でいるものだから、日々の疲労は当然たまる一方だった。そんな状態のまま雑務に追われる毎日は、いつの間にか時間の感覚を失わせていく。事実今が何日の何時なのか分からない。淡々と仕事をしていると、美里がやって来た。彼女は総務部にいる同年の同僚で、市民課にいる煌(あきら)と三人で昼食をとっている。  美里がこっちへやって来る理由と言えば、提出期限が近い書類の催促に決まっている。白いセーターに紺色のタイトスカート姿の美里が、すぐ側に来てにっこりとほほ笑んだ。 「悠里、お疲れ」  美里が側にあった丸椅子を引き寄せ、それに腰掛けた。 「お疲れ様。異動届と年末調整の催促?」 「まあね。今日は一階、明日は二階、明後日は三階を総出で回ってるのよ。みんな来週以降は月末期限の届の処理に追われるだろうから」  机の上に置いているカレンダーを見ると二十日になっていた。美里の言う通り、御用納めの当日までみな業務に追われるのは目に見えている。あの日から既に一週間が過ぎていて、ようやく浮ついた気持ちも落ち着きを取り戻し始めていた。だけど少しでも気を緩ませると、仕事中だろうが関係なく先生の姿を思い出し、何も手につかなくなってしまう。気持ちを引き締め直して、机の引き出しから二つの届を取り出して、美里に差し出した。 「あら、出来てるじゃん」 「その日のうちに書いてあったんだけど、課長に渡そうとするとその当人が忙しそうにしてるから、そのままになっていたのよ」 「あるあるよね、それ。うちも同じよ。決裁貰いに行こうとすると、課長はたばこ吸いに行ってるし」  美里が呆れたような表情で苦笑する。それに私も苦笑いで返した。 「さてと、これで国民年金課の分は回収終わったし、次は市民課行ってくるかな」  椅子から立ち上がり、市民課の方を見ながら美里が話す。彼女の視線の先を見ると、市民課の窓口が見えた。昼間際の市民課の待合は大勢の人間たちでごった返している。そろそろ昼休憩の時間が迫っていたけれど、あの様子では昼だからといって窓口を閉めることが難しそうだ。恐らく引き続き対応することになるだろう。 「煌、お昼大丈夫かな……」  美里が心配そうな顔でつぶやいた。 「多分大丈夫よ。少し遅れてくるかもしれないけどね」 「そっか。なら市民課は夕方回ることにして、総務へ帰るわ。じゃお昼にね」  そう言って美里は足早に立ち去った。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!