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第10話

 掠れた女の息遣い。鼻にかかったような甘い声。そして何かが腰を柔らかく挟んでいる。  体の下には温かく柔らかい「何か」があって、それはしっとりと濡れていた。続いて感じたのは、気配だ。それに気づいたあと急に視界が開けてきて、目の前に白くぼんやりとしたものが見えた。目を凝らしているうちに徐々にその輪郭が浮き上がってきたけれど、女であることしか分からない。  汗と女の匂い。男の本能を揺さぶるような匂いだ。それを吸い込むと、体の芯が熱くなってきて、息苦しくなってくる。すると硬く張りつめていたものから、柔らかい熱が伝ってきた。意識を向けてみると、繋がっていることは明らかだった。俺を優しく包み込んでいる温かな媚肉から、淫蜜がじわりと染み出した。やわやわと締め付ける肉の動きに合わせて、ぬるついたものがねっとりと絡みついてくる。  その感触に、激しく抜き差ししたい衝動が体の奥から沸き起こってきた。だが敢えてそれを理性で抑え込み、ゆるゆると腰を動かすと頭の芯がぼうっとなってくる。じれったいほどゆっくり引き抜くと、濡れた肉壁が縋りつくように追いかけてくる。しとどに濡れそぼっている熱い塊が空気にさらされ、そこから立ち上がる女の匂いが俺の衝動を駆り立ててくる。  膨らんだところとの境まで引き抜いた直後一気に突き立てると、強い快楽が一気に脳天まで突き抜け息を飲む。尻に力が入りぶるぶると震えている。先端を包み込んでいる柔らかい肉をかき分けるように、強い力で腰を押し付けた。するとそれまで行く手を阻むように立ちふさがっていた肉壁が割り開かれ、最奥でうごめく何かに行き当たる。  敏感な先端に当たっているものが、緩やかにうごめき出す。全体を締め付ける力も、徐々に強くなってきた。もっとそれを味わっていたい。しかしすぐさま欲望を吐き出したい。そのふたつの欲求がせめぎ合い渦を巻いている。それに耐えかね俺を受け入れている女の体を抱きしめると、背中に小さな手が添えられた。  汗ばんだ首筋に顔をうずめ鼻先を潜り込ませると、汗の匂いに交じって甘い香りがした。それに既視感を覚えたが、今は何も考えずにこの快楽に溺れたい。もどかしいまでにゆっくり抜き差しをしていると、腰を挟み込んでいた脚の力が強くなり、腰に絡まりついてきた。それだけでなく女の腰が揺れ動く。  女の中に更に深く飲み込まれ、それまで堪えていたものが溶け出しかけた。それに耐えながら、なんとか主導権を取り戻そうと、女の腰の揺らめきを抑え込むように腰を押し付ける。根本までみっちりと深く差し込んだものを緩やかに動かすと、切なげな女の声が聞こえてきた。  衝動と欲求に突き動かされるままに、唇を奪い夢中になって舌を絡ませた。より深い場所を求めて女の尻を鷲掴み、柔らかい肌に指を食い込ませ腰を穿つ。どうしようもないほどの焦燥感に苛まれながらも、意識が朦朧とし始める。快感以外、何も感じない。煮えたぎるほど熱くドロドロに溶けた欲望しか存在していなかった。  やがて限界を迎えた俺は、子種をねだるように締め付ける女の体の奥に欲望を吐き出した。強烈な快感に体を震わせながら放ち終えたあと、温かな柔肉が俺を優しく包み込む。そのとき一気に体から力が抜けていき、横たわる女に体を預けていた。  それまで感じていた欲望も衝動も、すっかり影を潜めてしまっていた。すべてを解き放った俺の心を占めているものは、すべてを受け止めてくれた女への愛おしさだけ。肉欲とは別の欲望に突き動かされ抱きしめる女の唇に自分の唇を重ねると、啄むようなキスで応えてきた。  心地よい疲労を感じ、いまにも眠りに落ちそうになりながらも幾度となく唇を重ね合う。女の細い指が俺の頬に触れる。離れ難い気持ちを振り切り顔を離し女を見ると、そこにいたのはあの日抱き合った彼女だった。  そのとき意識と感覚が強引に引っ張られ、気が付いたときにはベッドで横たわっていた。視界にあるのは見慣れた寝室の天井。それにそれまで感じていたぬくもりはすっかり消えていた。それだけにそこが放つ熱と、押し上げている布の濡れた感触がはっきりと分かる。 (おい、嘘だろ……)  今の自分に状況にあきれ果て、手で顔を覆いつくしため息を漏らした。淫夢のきっかけとなったものの心当たりは見当がついている。夢で抱いた彼女だ。意見交換のあと抱き合い求めあった彼女の姿を思い浮かべれば、夢の記憶がそれに重なって蘇ってくる。いや、恐らく現実の記憶が夢となって表れたのだろう。しかも願望のようなものとして。 「起きるか……」  けん怠感が残る体を起こし、肩から息を吐き出した。部屋に漂うひんやりとした空気が肌に触れる。窓の方へ顔を向けると、カーテンの隙間から柔らかな光が漏れていた。光が差し込まれたことにより、部屋に漂うほこりがきらきらと輝いている。年末も近いことだし今日は部屋の掃除でもしようかと思い立ち、ベッドから離れることにした。 (まずは、これをなんとかするか……)  敢えて見ないようにしていたものが、勢いをなくしかけている。徐々に力を失っていく感触は、気持ちを沈ませるには十分だった。もしも夢ではなく現実に女を抱いたあとならば、そんなことなど考える暇(いとま)もないほど甘い余韻に浸っているだろうし、こんなふうに気分が落ち込むことはないだろう。そう考えるとため息しか出てこなかった。  こんな気持ちを引きずったままだと、すべてに支障をきたしてしまいそうだった。仕事も何もかも手につかず、過去にとらわれたまま一歩も前に進めなくなるだろう。そう、十年前と同じように。  勝手な事情で突き放したくせに、彼女のことが頭から離れない。あえて考えないようにしなければ、あのときの記憶が勝手に頭の中に浮かんでくる。その理由がなんであるか薄々気付き始めてはいたけれど、それに気づかぬふりをし続けていた。  未来がない関係を望む辛さは一度きりで十分だ。刹那の感情に押し流されて後悔するくらいなら、それを抑え込み平穏な日々を送ったほうがいい。忙しくしていれば彼女のことを考えずに済む。だから俺は彼女のことを頭から無理やり追い払いたかった。  熱いシャワーを浴びながら、一日のスケジュールを頭の中で組み立てた。幸いなことに横沢から渡されたゲラのチェックもあることだし、しばらくの間彼女のことを考えずに済む。だが数日後、嫌でも彼女のことを思い出すことになるなど思いもしなかった。 「先生、気になるところでもありましたか?」  横沢の声が耳に入り、ハッと我に返った。目の前には最後の校正を終えた原稿があって、どうやらそれをチェックしている間にぼうっとなっていたらしい。 「いや、なんでもない……」  再び原稿に目を向けるが、一度途切れた集中力を取り戻すのはなかなかに難しい。雑念を頭から追い出し文字を追い始めるが、頭の片隅に彼女の姿が浮かび上がってきた。浮かんできた彼女から泣きそうな目を向けられる。それに意識を向けないようにしたけれど、どうしても気になってしまう。そしてついに耐えきれず、ため息を吐き出した。 「先生、この前からおかしいですよ」 「おかしくなどなっていないよ。部屋がこうも暖かいと頭もぼうっとなってくるさ」  横沢が訝しげな顔で問うものだから、彼の目を見ないようにしてどうにかはぐらかした。だが彼は納得などなどしていない。その証拠にじっと疑いの目を向けている。 「なんだよ……」  その視線に気まずさを感じ問いただすと、横沢が含みを持たせた口ぶりで言い返してきた。 「いえ、先生がおかしい理由に一つだけ心当たりがあるものですから。つい……」 (田沢、やっぱり話したのか……) 「もったいぶった言い方すんなよ。言いたいことがあるなら言ってくれ」 「では遠慮なく。美月から聞いたんですが、作家さんをお持ち帰りしたって」 「はあ?」 「違うんですか? 聞いた話だと仲良く寄り添って、しかも彼女の腰に手まで添えて部屋をあとにしたって聞いたんですが」 (あいつ、見てたのか!)  心の動揺を必死に押さえつけながら横沢の顔を見ると、いたって普通の顔をしていた。破れかぶれになりそうになるのを抑えつつ、絶対に彼女のことは口にしないように心を引き締めた、はずだったのが。 「で、どうでした?」 「どうって?」 「いや、先生の、その、男性機能が生身の女に駄目だってこと、俺は知っているから……」  横沢が言いにくそうにしながら話しているのを見て、不意に思い出す。そう言えば彼もまた————。 「まあ、だよな……。お前知ってるんだもんな、俺の体のこと」 「……あれはなった本人でないとわかりませんよ。あの辛さは」  横沢も俺も心因性の勃起障害に悩まされていた時期がある。横沢はもう克服できたらしいが、俺は————。 「で、どうだったんです?」 「どうだったって?」 「その……、勃ちました?」  横沢が聞きにくそうに尋ねてきたので、それに小さく頷いた。ただの興味半分ではなく、俺の体を案じていることが分かったから。 「してた、というかした」 「それは能動的に回復した、ということでいいですか?」  能動的、つまりは自然に勃起したかどうかということだ。彼女の濡れた唇を舐める小さな舌を見た直後、そうなっていたことに俺自身随分驚いたと同時に戸惑っていた。 「……受動的ではなかったな」 「ということは、そのままセックスしたってことで間違いないですか?」 「はあ?」  いきなりセックスという単語が横沢の口から飛び出してきたものだから、思わず大きな声を出してしまった。いくら官能小説を書いているとはいえ、いざ耳にすると気恥ずかしいものがある。真剣な目を向けられて更にそれが募り、ついには居たたまれなくなってきた。 「いや、それがだな……」  気まずそうに話す俺の姿を見て、それから何かに気付いたのか、横沢は怪訝な顔をする。 「していない、ってことですか?」 「結果的にはな」  まさか彼女が処女だったから、腰が引けてしまったとは言いにくい。それに結果を教えたら、それで終わると思ったのだが、横沢は追及の手を緩めてくれなかった。 「まさか最中に中折れしたとかですか?」 「違う! ビンビンだったさ! その後ヌいても収まらなかったくらいだぞ!」  またもや横沢の口からとんでもない単語が飛び出したものだから、つい勢いのままに言い返してしまった。視線を感じ横沢を見れば、冷ややかな目でこちらを眺めている。 「まあ、それだけ元気になったんだし、いいじゃないですか」 「……よくねえよ」 「はい?」 「……いや、なんでもない」  情熱的に求めあった欲望は消え失せてしまったけれど、その代わり彼女のことが頭から離れない。横沢は「勃起」した事実を喜んでいるようだが、あの日から抱き続けている感情を俺は持て余していた。 「なぜ彼女を抱かなかったんです?」  思うようにならない感情を持て余していたとき、急に横沢から尋ねられた。彼の目を見ると、先ほどよりも真剣なまなざしを向けられている。その問いに答えることができずじっと見つめ返すと、横沢が落胆を滲ませたため息をついた。 「すみません……」 「いや、いい」  立ち入ったことを聞いてしまったことに気付いた横沢が矛を収めたので、俺もそれ以上何も言わなかった。人間関係を壊してしまうのは、こんな些細な問いかけだったりするし、彼だって大人だ。どこまで聞いていいのかくらい、分かっているのだろう。すると横沢はちらと腕時計で時間を確かめた後、座っていたソファから立ち上がろうした。 「じゃ、そろそろ会社に戻ります」 「忙しいなか、わざわざありがとうな」  横沢に礼を述べると、硬く強張っていた表情が緩んだ。 「いえ。あと美月には俺から適当に話しておきます。詮索されたくない話でしょうし」 「別にそこまで気を遣わんでいいぞ。そのときだけの話だし。もう二度と会うことが無い相手だから」  自分自身に言い聞かせるように話すと、体の芯を抜き取られてしまったかのような喪失感に駆られた。頭の片隅にいる彼女が涙を一つこぼし、悲しい表情で見つめている。胸が締め付けられるような痛みを全身に感じた。 「なら、また顔を合わせてその気になったら、もうそのときだけの話にはなりませんね」 「はあ?」 「だって彼女に欲情したんでしょう? それが一度ならず二度なら、それは衝動的な欲情じゃない。好意から派生した欲情だという可能性も否定できないということです」  まるで実験結果でも話すように、横沢は淡々と話し続していた。確かに彼の話していることも分からなくはないけれど、俺が抱えているもどかしい感情は恋愛感情に発展するようなものではないと思う。  だがそれを彼が納得できるまで、説明することができるか分からない。その感情は余りにもあやふやなもので、心のなかで湯気のように揺蕩っている。それを言葉にするとなると、幾ら文章を書くことに慣れている男でも難しいところだ。 「ところでいつ作並に?」 「そうだな。これで今年の仕事は終わったから、早ければ明日にでも行こうと思ってる」 「そうですか。もし時間が出来たら作並のほうにも顔を出しますんで」 「できたら週末の夜に来いよ。いくらお前でもあの鉄砲娘から離れたいときだってあるだろ?」  わざとからかうようにそう言えば、横沢はしれっとした顔で言いのけた。 「同棲しているの知ってたんですか?」 「はあ?」 「まあ、別にばれても問題はないけど……」 「ちょ、ちょっと待て。いつからだ。いつから一緒に住んでんだよ、あの田沢と」  意外な事実が飛び出して、まるでテレビレポーターのように田沢に尋ねると、田沢と一緒に住み始めたのは最近のことだと教えてくれた。しかも、その理由が————。 「セックスしたあと、帰したくないなって思いまして。それに美月のやつ、私物をどんどん持ち込んでいたんで、そう大きな引っ越しにはならなかったです」 「それって、なし崩しっていうやつじゃないのかよ……」 「まあきっかけなんてどうだっていいんです。一緒に居たいって思ったのは本当だし。なんなら美月も連れて行けばいいですか?」 「断る! あいつがいたら仕事にならん」  すると横沢は苦笑して、それからすぐに部屋から出ていった。
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