9 / 43

第9話

「よい年の瀬を、ね。今日はお疲れ様でした」  別れの言葉を告げると、彼女はゆっくりと頭を下げた。彼女の表情を隠すように、長い髪が華奢な肩からこぼれ落ちる。それを小さな耳に掛けながら、顔を上げた彼女の表情はとても暗かった。わずかに顔を俯かせながら涙をこらえる彼女の姿を見たとき、胸に鋭い痛みが走った。  そして目の前から立ち去っていく彼女を、すぐにでも追いかけたくて仕方がなかった。だがそれはできなかった。それをしてしまえば、きっと俺も彼女も後悔する羽目になる。そう自分に言い聞かせ、沸き起こった衝動をなんとか力ずくでねじ伏せた。  そして間もなく、エレベーターの扉がゆっくりと閉じた。完全に視界が遮られ、それと同時に衝動が鎮まっていく。すると体から一気に力が抜けていき、壁に寄りかかって独り言ちた。 「参ったな……」  手で顔を覆いながら、漏らした言葉は決して後悔の言葉ではない。自分の体に起きている突然の異変に戸惑っているからだった。そしてそれは、いまだ続いたままになっている。 「どうするかな。これ……」  額にかかっていた前髪をかき上げ、視線をそこに落とすとジャケットの裾が見えた。その下で異変が起きているのだが、都合よく服がそれを隠してくれている。それは伸縮性のある生地を押し上げ、窮屈そうにしている。  意見交換を終えた後田沢はそこからいなくなっていた。恐らく部屋の探検にでもいったのだろうと呆れていると、ふいに隣にいる彼女が目に入った。そのときまでは確かに何も異変は起きていなかったはずだった。ただずっと田沢に振り回されたおかげで、疲れを感じてはいたけれど。  だが次の瞬間、異変は突然起きた。彼女が小さな舌で、濡れた唇をぺろりと舐める姿を見たときだ。一気に体が熱くなり、根元が疼き始めたと思ったらそこへ血液が一斉に流れ込んできた。そのせいですぐに皮膚が張りつめ硬さを増していく。それから先は思春期を迎えたばかりの男のようになっていた。  彼女の甘い香りが気になって仕方ない。それだけでなく触れたいとさえ思っていた。幾らこの反応が久しぶりだからと言って、突発的な行動に出てしまった自分自身に呆れてしまう。もう四十を迎えた男とは思えないほど、体も心もしっかり昂っていた。その上いまも存在を誇示するかのようにどくどくと脈打っている。これにはさすがに苦笑いしか出てこなかった。  もしもあのとき、彼女が処女だと聞かされなかったら、間違いなく欲望の赴くままに抱いていただろう。過去の出来事を棚に上げ、更に「据え膳食わぬは男の恥」と自分自身に言い訳をして。  でも彼女は処女だ。衝動的な欲望のままに抱いていい相手ではない。そんなふうに抱いたとしても、結局は自己満足だ。初めての相手に手ひどく扱われたら、きっとセックスに恐怖を感じてしまうかもしれない。  それに女の悦びを感じるまで根気強く導いてやれるか自信がない。いまの異変が最後まで続いてくれるか分からないということもある。抱いた女に喜びを与えてやれない辛さは、もう十分に思い知っている。ちっぽけな男のプライドと言ってしまえばそれまでだが、それがなければ男である意味がない。腕の中で快感に打ち震える女の姿を見ると、男であることを強く意識させられる。それが惚れた相手ならなおのこと。  女の優しさそのままに優しく包み込み、昂った欲望をやわやわと締め付ける。一番深い場所で一つになってそこから伝う熱は、俺を形作るものすべてを溶かしていくほど熱い。その熱によってすべてが溶けていき、最後に残るものは目の前にいる女への愛おしさだけ。繋がったまま余韻に浸り、至福のときを感じたのはもう過去のことだ。  そんな俺が、彼女の初めてをもらっていいわけがない。きっと彼女だって、こんな得体のしれない男に抱かれずに済んでほっとしていることだろう。彼女は若いし魅力的だ。これから沢山の男と出会う機会があるだろう。そしてその中に彼女に女の喜びを教えてやれる男だっているはずだ。そう思ううちに、張りつめていたものが少しずつ硬さを失い始めていた。  だが試練の時間は易々と終わらなかった。狭いエレベーターの中で彼女の残り香が揺れ動き、それがきっかけとなって頭の中に浮かんだものは、すっかり女の顔になっていた彼女の姿だった。  熱を帯びてすっかり潤んだ瞳。濡れた唇がわずかに開き、熱い吐息が漏れていた。鼻から抜ける甘い声と、押し付けた場所から伝う熱。ねだるように腰を揺り動かしながら、甘えるように押し付けてきた体はとても柔らかかった。そしてあの甘い香り。どんどん濃さを増すその香りは、俺の理性をいとも容易く溶かしていく。  それらを思い出したとき、ようやく鎮まりかけていたものが、再び勢いを取り戻し始めた。それをどうにか追い払おうとするけれど、いったん火が付いた男の欲望はそう簡単に鎮まる訳がない。彼女の姿が頭から離れず、そのせいでより硬さを増していった。 (まずい……)  布地を押し上げている先端が濡れている。どんどんそこが熱を帯び始め、その熱が全身へと広がっていき、やがてやがて息苦しさを感じた。のどがカラカラに乾き、焦りばかりが募っていく。シャツの襟もとを指で乱暴に寛がせ、エレベーターのドアが開くのを今か今かと焦りながら待っていた。  目的のフロアに着いた音が鳴ったあと、ドアが開ききるのを待たずに飛び出した。そして自分の部屋へと急いで向かい、ドアノブに手を掛けて性急に押し開く。するといつもの匂いが出迎えてくれた。それと同時に彼女の香りが急激に薄れていって、それに寂しさを感じたものだった。  欲情の余韻は消えつつあるけれど、まだ完全に消えたわけではなかった。そしてすぐさま浴室へ駆け込んで、昂るだけ昂った欲望を吐き出したのだが、それは一度ではおさまってくれなかった。  翌朝の目覚めはかなりすっきりとしていた。それもそうだろう。昨日浴室で欲望を吐き出したあと、一気に倦怠感が襲ってきてそのままベッドに倒れこみ、そのまま眠りについたのだ。これほど深く寝入ったのは実に久しぶりだった。  眠りから覚めた後ベッドからのろのろと体を起こし、そのまま浴室に向かおうとしたそのときだった、放り出されたままのスーツが目に入り、その場に立ち止まってしまった。無造作に投げ捨てたままになっているジャケットやスラックス、シャツにネクタイ、ベルトを拾い上げると、彼女の甘い香りがした。恐らく彼女と抱き合ったときに、その香りが服に移っていたのだろう。もう微かなものになっているが、彼女と求めあった記憶を呼び起こすには十分すぎるほどだった。 (仕方がない。クリーニングにでも出すか……)  彼女の香りがわずかに残るスーツ一式を、クリーニング用の袋に投げ入れた。クリーニングに出してしまえば、当たり前のことだが彼女の匂いはきれいさっぱり消えうせる。それがどうにも寂しく感じ、つい放り投げたはずの衣服に目を向ける。そこに残る彼女の香りに未練を抱いてしまっていることに呆れてしまう。  その未練が欲望を吐き出せなかったことに対してのものなのか、それとも別な意味のものなのか分からない。だがはっきりさせるつもりはない。それは曖昧なままでいた方が、今の俺にとっては都合がいいからだ。  大人になるに従い、心の赴くままに何かを求めることが難しくなってくる。衝動に突き動かされるままに、何かを欲していたのは遠い過去のこと。今はただ目の前にあるものだけに手を伸ばし、それで満足したふりをしてやり過ごすことが身についてしまっている。  あの日からそうやって俺は生きてきた。それはこれからも変わらないだろう。たとえ彼女が俺を求めても、差し出した腕をとることはないし、そんな資格はない。だからこれからも今まで通りでいい。そう考えたとき、心の片隅に残っていた迷いがようやく消えてくれた。 「先生?」  横沢の張りのある低い声で、現実に引き戻された。目の前には校正から上がったばかりの原稿があり、そこには赤字で幾つかチェックが入っている。 「何か気になるところでもありました?」  ソファに座っていた横沢が身を乗り出して尋ねてきたが、ぼんやりしていたのを気取られぬようにどうにか誤魔化した。 「いや、幾ら調べて書いたものでも、アカが必ずといっていいほど入るもんだなあと思ってね」 「一冊の本を作るに当たり、全くアカが入らないなんてないと思います。まあ校閲の人間が実用書書いても、アカが入るって聞いたことがありますよ」 「そうなのか?」 「まあ、聞いた話なので本当かどうかは分かりませんけどね。でも個人的に言わせてもらえば、アカが無い原稿なんて今まで見たことがないですね」  男にしては柔和な顔立ちをしている横沢を見れば、真剣な表情を浮かべていた。彼は世辞を言うような男ではない。むしろ逆だ。こいつの毒舌ぶりは出版社でも有名らしい。だから言っていることは、あながち嘘ではないだろう。  真っ赤になっている原稿を見ながら考えていたのは、彼女のことだった。といっても抱き合ったときのことではない。横沢の前の担当だった田沢から、彼女との意見交換を持ち掛けられたときのことだった。  その話を聞かされたとき、なぜ俺が彼女とそんなことをしなければならないのか分からなかった。だから当たり前のことだが断ったのに、田沢の甘言に騙され受けざるを得なくなっていた。 『女心を教えてくれる存在がいたら、もう少し先生の作品はよくなると思うんです。知ってます? 今男性作家の官能小説を女性が買っているって。だから女性がどんな気持ちでいるかわかれば、自然にその先の行動がわかるんじゃないですかね』 (大体男向けの官能小説に、女心を求める方がおかしいだろ……)  田沢から言われた言葉を思い出したとき、思わずため息をついた。視線を感じそれをたどると、横沢が様子を窺うようにしながら眺めている。向けられた眼差しは、まるで何でもお見通しとでもいうようなものに見えてしまい、つい睨み返してしまう。 「やっぱり変ですよ、立花先生。何か気になっていることでもあるんですか?」 (そういえば横沢は田沢と付き合っているんだよな)  横沢と田沢は恋人同士で、しかもどちらかといえば横沢が田沢に惚れ込んでいる。最初は田沢が追いかけまわしていたのだが、いつの間にか立場が逆転していたのは驚き以外何物でもなかった。 (田沢のヤツ、こいつに変なことを吹き込んでなければいいが……)  昨日のことを田沢が横沢に話していないか、気になって仕方がない。横沢から向けられるものすべてが、俺に何かを訴えているような気がしたものだった。  ホテルの部屋で彼女を口説いていた時、田沢は確かにそこにいなかった。彼女とともに部屋を出た後部屋に戻った田沢が、俺たちがいないことに不審を抱いたとしても不思議ではない。  もしも恋人からその話を聞いた横沢から彼女とのことを尋ねられても、世間話をしたあと別れたと言えば済む話だ。だができることなら、何も聞かずにいてほしい。彼の目を見ながら、持っていたゲラを掲げて見せる。これでうまく誤魔化せられたらいいのだけれど。 「いや、何でもないよ。ゲラももらったことだし、早速作業に取り掛かるとするか……」 「では終わりましたら連絡ください。取りに伺いますので」  横沢はそう言うと薄い鞄と温かそうなコートを持って、ソファから立ち上がろうとした。そのときふいにあることが頭に浮かび、それを口にした。 「なあ、横沢。お前はなぜ直接ゲラを渡しにくるんだ?」  横沢が担当になるまで、いや正確に言えば田沢のときまで、毎回ゲラは送られていたはずだ。田沢の場合は仕事をさぼるために、わざわざここまで来ていたことは分かっている。だが横沢の場合は、そうではない。 「それはもちろんプレッシャーを与えるために決まっているじゃないですか」 「……そ、そうか」 「ええ、それに直接お会いした方が何かと都合もいいので」  愛想笑いを浮かべる横沢。向けられているのは笑顔のはずなのに、そう見えないのはなぜだろう。さらりとプレッシャーを俺にかけた後、彼はその笑顔のまま会社に戻ると言って部屋から出ていった。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!