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第8話

 ひとしきり耳を嬲って満足したのか、先生がその動きを止めて体を僅かにずらす。言葉の一つも出せない状態になりながら先生を見上げると、満足気な表情を浮かべて私を見下ろしていた。向けられた瞳には、穏やかさとか優しさといったものが消えていて、獲物を捕らえた喜びが滲んでいた。 「まだ序の口なのに、こんなに乱れてしまっては心配になるよ」  そう言いながら、先生は抱えている私の脚を持ち直した。その拍子に体がふらつき足を踏ん張らせると、短い息を漏らしながら笑みを浮かべた先生から、からかうような口調で尋ねられた。 「腰、揺れてるよ」 「こ、これはっ、違います!」  慌てて否定したけれど、先生は含み笑いを浮かべている。 「へえ……。違うんだ」  耳元で告げられた声は、ひどく掠れていた。温かい息がそこに掛かり、思わず肩を竦めさせる。 「その表情、たまらないな」 「や……あっ!」 「声も可愛い。そそられる」 「いや……っ!」  押し付けてくる唇から逃げるように顔を反らし訴えると、先生の動きがぴたりと止まった。それに気が付き恐る恐るそちらを見ると、何故だか悔しそうな表情を浮かべていた。 「おじさんを煽るんじゃないよ、全く……」  言うが早いか突然お尻を鷲掴みにされて、再び唇を奪われた。口付けというには余りにも荒々しく、噛みつかれたかと思ったほどだ。絡めてきた舌の動きも激しくて、その勢いに怯んでしまったけれど、恐れなんて感じなくなっていた。むしろもっと激しくしてほしいとさえ思っている。まるで激流の中に放り込まれたようなものだ。熱く激しい感情が大きなうねりとなって、容赦なく私に襲い掛かる。その勢いが強すぎて、もはや自制できなくなっていた。その流れに身を任せたら、どこへ辿り着くのだろう。激しいキスをしている自分を、もうひとりの自分が離れた場所から眺めている奇妙な錯覚に陥った。  荒々しい息を吐き出しながら、先生が名残惜し気に唇を離す。その湿った息が濡れた唇に掛かり、切ない気持ちになってくる。それを狡猾な笑みを浮かべながら眺めている先生の姿は、ぞくりと身震いする程の色気を滲ませていた。整えられていた髪はすっかり乱れ、まるで熱に浮かされたような顔になっている。  もっと乱れた姿を見たいと思った。私だけに見せている今の姿をもっと乱したいとさえ。それを想像しただけで自然と体が熱くなり、気付けば彼の頬に手を添え見つめていた。 「そんなもの欲しそうな顔をして、どれだけしていないんだ。言ってみろ。最後にセックスしたのはいつだ?」  先生は狡猾そうな笑みを見せながら、下卑た物言いをする。その姿から目が離せない。何も応えないでいると、先生は返事を促すように腰を押し付けてきた。 「ほら、言ってみろ。最後にセックスしたのはいつだ。ん?」  火照った場所に硬いものを押し付けられ、その感触に息をのむ。体の中で膨れ上がった熱を吐き出そうとして浅い呼吸を繰り返していたのだが、どうにか声を振り絞った。 「は、初めて、よ……」  体の内側からこみ上げてくるものを押しとどめながら告げると、先生が突然その動きを止めた。恐る恐る顔を見上げると、彼は驚いたような表情を浮かべながら私を見下ろしている。体を支えていた手の力が抜けていき、とうの昔に力が抜けた脚をゆっくりと下ろす。 「もしかして、処女、か?」  大きな手が私の体から離れ、それまで触れられていた部分からすうっと熱が逃げていく。居たたまれない空気のなか小さく頷くと、到着を告げるベルが鳴った。  すると先生は視線をそらして、すっと体から離れていった。火照った体と先生の体の間に、冷たい空気が流れ込んでくる。 「……悪い、エントランスまで送るよ」  フロアボタンを押しながら先生が話す。その表情はすっかり曇っていて、先ほどの面影は微塵も残っていなかった。 「処女は、面倒、ですか?」  乱れた服を直しながら問いかけると、ため息混じりに答えてくれた。 「面倒というか、処女は抱いたことがない」  先生は決して目を合わせようとしなかった。その姿がすべてを物語っているように感じてしまう。どうせ言い訳するのなら、もっと上手な言葉を言ってほしかった。  欲望を吐き出すだけの相手が処女ならば、それは重く面倒なものだと思う男が多い。それを教えてくれたのは友人たちだった。それが男の本心だし、そういうものだと分かっている。そう自分に言い聞かせていると、突然尋ねられた。 「……君は、俺でいいのか?」  ためらいが滲んでいるような声がして、思わず顔を上げると、先生は背中を向けたままだった。 「女にとって初めてっていうのは特別だ。もちろん初めてをもらう男にとっても特別なんだ。それなのにこんな俺を初めてに選んでいいのかと聞いている」  こちらを見ようともしない先生の真意がわからない。でもそれを求めていたのは事実で、今も変わっていなかった。 「あなたが、いいんです」  背中をじっと見つめていると、ようやく振り向いてくれた。顔をこわ張らせたまま先生は、まっすぐ私を見つめている。それに応えるように見つめ返した。しばらく無言で見つめあっていると、先生が表情を曇らせ長い息を吐き出した。 「俺もあなたも、一時の熱に浮かされているだけだ。いいかい。男の初めてはどうでもいいが、女は違う。初めてのセックスで人生が変わることだってあるんだ。もう少し自分を大事にした方が良い」  体のいい断りの言葉を聞いているうちに、視線を落としていた。高められた熱が、引き潮のように引いていく。 「あなたじゃなきゃ、多分だめ、なんです」  それまで男という生き物が怖くて仕方がなかった。欲望にまみれ快楽を追い求める男の姿を、父親が持っていた官能小説で読んだ時からずっと。どんなに優しい振る舞いをしていたって、その姿の裏側には欲望を隠し持っている。だから好意を抱いた相手がいたとしても、その先を求めることができなかった。  でも今私は先生を求めている。セックスしたいだけじゃなく、私が知らなかった世界へ導いてくれる存在として。それをどう伝えたらいいのか分からない。私は言葉を知らな過ぎた。  するとそれまで黙り込んでいた彼が再び長い息を吐き出した。それに気付いて見上げると、意を決したような表情を向けている。先生の次の言葉を緊張しながら待っていると、そのときチンと到着を告げるベルの音がした。扉がゆっくりと開く。 「分かった。ならひとつだけ条件がある」  先生はそう言うと、着ていたジャケットの内側から手帳を取り出し何かを書き始めた。ペン先を走らせる乾いた音がエレベーターの室内に響く。書き終えたあとそのページを破り、それを私に差し出した。 「来月はそこに篭もって書いているから、できたら週末においで」  手渡された紙を見ると、仙台の温泉旅館と思しき名前が書かれていて、その下に携帯のナンバーが書かれていた。 「やはり初めてをもらうのだから、もう少しマシな場所の方がいい。女の初めては特別なものだから、勢いに任せてもらうわけにはいかない。それにあなたの初めてをもらう俺にも覚悟が必要だ」 「覚悟?」 「そう、覚悟だよ、お嬢さん。よく考えて結果を出しなさい」  まるで子供を諭すような言い方だった。 「わかりました……」  先生の顔を見上げながら答えると、ほっとしたのか、みるみるうちに表情が和らいでいく。 「できれば君が来ることを願っているよ。本音を言えば、あなたを抱きたいのを必死になって耐えているんだからね」 「なら……」 「言っただろう、女の初めては特別だって。さあ、もう帰りなさい」  背中に手を添えられて、エレベーターから出るよう促された。そこから出たあと振り返ると、先生は見送るようにその場に立っている。その言葉を、そのまま信じていいのか分からないけれど信じたかった。 「では来月。必ず伺います」 「ああ、来月。よいお年を、ね。今日はお疲れ様でした」  優しい笑みを浮かべて話す先生に別れを告げてマンションを出ると、冷たい風が吹いていた。未だ残ったままだった熱の余韻を感じながら、すぐにタクシーに乗り込んだ。  時間を置けば、考えが変わるとでも思っているのだろう。けれどこの気持ちはきっと変わらない。来年の一月、メモに書かれている場所に行ったなら、先生はどんな顔をするだろう。それを想像しながら窓の外へ目を向けると、粉雪が風に揺れながら降っていた。
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