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第6話

 何を言われたのか理解するまで、しばらく時間がかかった。数分にも思えるし、数秒にも思える。ソファに手をついて身を乗り出してきた立花先生を見ると、穏やかな笑みを浮かべたままじっと私を見つめている。  いきなり名を呼ばれたから驚いた。だけどその次に掛けられた言葉は、その驚きを衝撃に変えた。なぜ誘われているのだろう。そんな問いかけが、頭の中をぐるぐると駆けまわる。突然すぎる出来事は、思考をあっけないほど簡単に奪うものらしい。  そうしているうちに、私を見つめる先生の目がどんどん熱を帯びていく。表面上は穏やかなまなざしではあるけれど、その瞳の奥には得体のしれない何かがあった。その瞳に見つめられていると、それに呼応するように体の芯がどんどん火照ってくる。そしてその熱は次第に全身へと広がっていった。  今まで経験したことがない反応に、私はただ戸惑うばかりだった。どうしたらいいのか分からないまま、先生を見つめ返すと、余裕とも見えるような笑みさえ浮かべている。多分食事だけでは済まないだろう。だって私を見つめる瞳がそう物語っている。それを意識したとき、体が急にこわ張った。それは本能的な恐れからだった。  だけど恐れだけ感じていたわけじゃない。もっとこの人と話をしたいという好奇心もあった。それというのも緊張の連続だった意見交換の中で聞いた話のひとつが、特に印象深かったからだった。 『例えば愛し合ってもいない二人ならば欲望をぶつけあっていると同じだ。欲望が満たされるだけで、何も重ならない。だが相手への愛情がある場合は欲望と気持ちは重なると思う。欲望のままに高め合って忘我の境地に達したあとそこに残っているのは、相手への愛情だと思うから』  父親が持っていた官能作品で描かれていた行為は、欲望だけに突き動かされてする行為に思えた。その欲望が私の想像を超えたものだったから、恐れをなしてしまったのだ。好きな人に触れたいという気持ちは当たり前に発生すると思う。しかし、相手も同じように思っているとは限らない。  セックスは、こと女性は相手を受け入れる準備が必要になってくる。体と心が相手を受け入れたいと思うときまで、男性は我慢を強いられるものらしい。だけど父親が持っていた官能小説は、男性の都合のいいように書かれているものが多かった。  だから私は互いへの愛情を感じられるような、そんな行為を書いている。しかしこれもまた男性からすれば、女性の都合のいいように書かれていると言われても仕方がないのかもしれない。  でも先生は男女が同じ気持ちで触れ合うことが、どんなものか知っているような気がしたし、私はそれを知りたい。恐れよりもその気持ちが勝ったとき、体のこわ張りがすっと消えた。肩から力が抜けたとたん口から飛び出した言葉は、自分自身でも信じられないものだった。 「し、食事、だけですか?」  はっとなりながら先生を見るが、特に驚いた風ではなかった。こんな返事をするつもりじゃなかったのにと、後悔してももう遅い。これではその先を求めているようでなんとも浅ましい。いたたまれない気持ちのままで返事を待っていると、穏やかな表情を崩さないままわずかに目を眇めた。 「それだけでもいいし、それ以上のことを望んでいるのなら、それでも構わないよ」 (それ以上ってことは、つまり……)  幾ら経験がないとはいえ、それ以上がどのようなものか分かる。予期せぬ展開にいっぱいいっぱいになっていて、どうにか気持ちを落ち着けようとしたとき、先生が間合いを詰めるようにゆっくりとした動きで近づいてきた。そしてソファに置いていた手に何かが触れたと思ったら、温かいものが重ねられたとき、それが先生の手だということに気がついた。  大きな手が私の手を包み込むように握りしめる。重なったところから肌の下へと、柔らかな熱がじわじわとしみこんできた。その熱は緊張をゆっくりと解かしていく。その頃合いを見計らったように、指と指の間に先生の指がするりと滑り込んできた。節くれ立った指ではない。女性の指と言ってもいいくらい細い指だった。男の指にしては華奢な指が、指と指の間をゆっくり行き来する。そのもったいぶった動きが、ひどくもどかしい。皮膚と皮膚とがこすれ合っているだけなのに、とても淫靡なもののように感じた。  指に意識が集まっていく。先生の指の動きが気になって仕方がない。そちらに気をとられているうちに、すぐ隣にまで先生は近づいていた。そして私を見つめる瞳はとても熱っぽかった。その目を見れば先生が何を求めているのか、いやが応でもわかってしまう。先生は私が眺めている前で、視線をゆっくりと下げていった。瞳、くちびる、のど元、胸元へゆっくりと降りていく。そして余韻を残しながら、胸元から乳房、腹、下腹部、そして膝、ふくらはぎ、足首へたどり着いた。ねっとりと舐(ねぶ)るように見つめられた場所が、かっと熱くなる。下腹に全ての感覚が集まってきて、その奥がじくじくと疼き始めた。指を撫でられるたびに、固く閉ざされた場所が徐々に熱を帯びてくる。息苦しささえ感じてしまうほど熱くなった体を持て余しながら先生だけを見つめていた。 「どうする?」  向けられた瞳は、明らかに男の欲望で満ちていた。その瞳の奥で渦巻く欲望に引き込まれないようにするだけで精いっぱい。からからに渇いた喉を唾で湿らせて、絞り出すように漏らした言葉は自分でも驚くほど思わせぶりなものだった。 「そうね」  今の私は、どんなふうに見えているのだろう。きっと男慣れしている女のように思われているに違いない。ふだんの私なら、こんな真似など決してしないのに。自分らしくない言動に内心で飽きれながらも、その裏で奇妙な興奮を覚えていた。もしかしたら、駆け引きを楽しんでいるのかもしれない。  こんなふうになってしまったのは、先生の瞳のせいだ。あの瞳の奥に潜むものは、私の自制心をいともたやすく奪っていく。そしてどう猛な獣に襲い掛かられることを心のどこかで待ち望んでいた。  しばらく視線を絡めあっていると、先生は余裕を感じさせる笑みを浮かべてゆっくりとソファから立ち上がった。そして目の前にすっと手が差し出され、それに震える手を重ねると強引に引っ張りあげられてしまった。 「それじゃあ、行こうか」  手を握ったあと腰に手を添えて、先生は部屋の出口に向かって歩き始めた。とっさに田沢さんの姿を探したけれど見当たらない。彼女は意見交換が終わった後部屋のどこかに行ってしまったきりだった。本当ならばちゃんと別れの挨拶をしたかったけれど、いないものだからどうしようもない。心の中でごめんなさいと謝りながら、私は先生とともに部屋をあとにした。
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