4 / 43

第4話

 田沢さんは、話のほとんどを立花先生のことに費やしていた。その話を聞いるうちに、なぜだか職場にいる課長たちの顔が頭に浮かんできてしまい、先生本人に会う前から知り合いのような気がしたものだった。  課長たちをはじめとした職場の人間たちと、セックスについて話をしたことなど一度もない。けれど、忘年会や暑気払いのたびに、彼らが話している卑猥な話を耳にしてしまう。彼らが話している内容は、父親が読んでいた官能小説にありがちなものが大半を占めていた。そういった話を耳にしているうちに、もともと恐れを抱いていた男の欲望というものに、さらなる嫌悪を抱いていた。 「じゃ、そろそろ時間だし。行きましょうか」  急に田沢さんから声を掛けられた。どうやら、約束の時間が迫っているらしい。ソファからゆっくりと立ち上がった彼女とともに、先生が待っている部屋へ向かうことにした。  エレベーターホールについた後、扉の横にあるはずの階数表示が見当たらないと思ったら、エレベーターの扉の上にクラシックな表示板があった。階数を指している針がゆっくりと一階に向かっているのを見ているうちに、どんどん緊張し始めた。  到着を告げる軽やかな音が鳴り、ドキンと心臓が大きく脈打った。全身の皮膚が敏感になってしまったようで、肌に触れた裏地の感触が妙に気になって仕方がない。もしかしたら、緊張しているというより、おびえているのかもしれない。だから、全ての感覚が敏感になっているのかも。 そわそわと落ち着かない気持ちをなんとか静めようとしたが、意識すればするほどに全ての感覚が知らず知らず研ぎ澄まされていった。  エレベーターの中に入ったあと、扉がゆっくりと閉じていく。その向こう側には、きらきらと光り輝くもみの木が見えた。それを見ているうちに扉が完全に閉じて、ゆっくりと上昇し始めた。上昇を続けるエレベーターの微かな振動にさえ、びくびくしてしまう。  もしかしたら、この扉が次に開くとき、今まで見たことがない世界が広がっているかもしれない。エレベーターの扉を眺めながら、私はそんなことをぼんやりと考えていた。  立花先生との対談は、ホテルの最上階にあるスイートルームで行われるようだった。自慢ではないが今まで一度もそんな高級な部屋になど泊ったことなどないし、もちろん行ったことがない。ホテルを利用するのは、さほど多くない出張でしか使わない。それだって出張だから、必要以上に値の張るところに泊まれるわけがない。  だけど、恋人や気の置けない友人たちとなら、一緒に使ってみてもいいのかもしれない。私には仲のいい同期が二人いて、来年は三人とも主任に昇格するし、夏休みを利用してこんなホテルのスイートでお祝いを兼ねて泊まってみてもいいかもしれない。その為に、スイートがどんなつくりなのか調べよう。そう思い始めたとたん、緊張がほぐれてきた。  楽しい計画は、気持ちをどんどん軽くさせていく。募る緊張と不安を紛らわそうとしてそんなことを考えていると、目の前を歩いていた田沢さんが急に立ち止まった。  彼女の肩越しに見えたのは、クリーム色の両開きのドアだった。田沢さんが扉の横にあるボタンを押すと、扉の向こうからチャイムの音がしたけれど、何の反応もないまま時間だけが過ぎていく。 「あれ? 出ない……」  田沢さんが、不安げな声を出す。彼女の横顔を見ると、怪訝そうな表情を浮かべていた。すると彼女は何かを思い出したかのように、肩にかけていた鞄の中からカードを取り出した。それをノブの上にあるパネルにかざすと、すぐに解錠の音がした。 「せっかく格好良いところ見せようと思ったのに……」  残念そうに言いながら、田沢さんが扉のノブに手を掛ける。ゆっくり扉を押し開き、仲に入った彼女のあとに続くと、すぐにいい匂いがした。部屋の中に足を踏み入れ、辺りを見渡してみるけれど、その匂いのもとらしきものは見当たらなかった。田沢さんのあとを追いかける。 「先生ー、お待たせしましたー」  田沢さんが元気な声で、部屋にいるであろう立花先生に向かって呼びかけた。 「田沢。いったいいつまで待たせるつもりなのか教えてくれるか?」  よく通る低い声だった。だが、明らかに不機嫌そうな声だった。もしかしたら、ロビーで話し込んでいたせいで、立花先生を待たせてしまったのかもしれない。そう考えると、どっと冷や汗が吹き出してきた。 「いやだなー。いい女は男を待たせてナンボだって言うじゃないですかー」  それなのに明るく返す田沢さん。恐る恐る彼女のあとに続いて部屋に入ると、すぐに目に飛び込んできたのは、子供の背丈くらいのクリスマスツリーだった。  小さなもみの木に小粒なライトが飾られて、きらきらと輝いている。サンタやトナカイ、そして星、クリスマスを感じさせるかわいらしいオーナメントがびっしりと飾られていた。それを目にしたとたん何も考えずに駆け寄っていた。 「わあ……。かわいい……」  すると、すぐに低い声が耳に入った。 「ああ、そちらの方が今日の対談相手?」  はっと我に返りその声がした方へ顔を向けると、立花先生と思しき男性が、穏やかな笑みを浮かべながら私を眺めている。ゆったりとソファに腰掛けているその姿は、田沢さんが教えてくれた「枯れたおっさん」とは思えない。  涼しげな目元、すっと通った鼻筋に形のいい唇。少し長めの髪はきれいに整えられていて、まるで濡れたような艶を放っている。仕立ての良さそうなスーツに身を包むその姿は知性と風格を感じさせ、どこからどう見ても、やり手のビジネスマンにしか見えなかった。  彼を見たとき、心臓をぎゅっとつかまれたような痛みを感じた。そしてしばらく彼から目が離せなかった。まるで時間が止まったような不思議な感覚。その間、何も考えられず、私はただ彼を見つめることしかできなかった。  すると彼がゆっくりとした動きで立ち上がり、こちらに近づいてきた。グレーのツイードのスーツを身に着けた姿は、とても上品だった。洗練された立ち居振る舞いに、目がくぎ付けになる。  彼に見つめられていると思うだけで、体が熱を帯びてくる。私を見つめる瞳から熱のようなものを感じ、それに呼応するかのように今まで感じたことがない感情が沸きあがってきた。  彼の瞳から目が離せない。どうしよう、ざわざわと胸騒ぎがする。だけど嫌な感じじゃない。こんなこと今まで体験したことがない。何が自分に起きているか分からなかった。まるで迷子になった子供のように不安が一気に押し寄せてくる。そして彼が私の目の前までやって来て、ほほ笑みながら大きな手を差し出してきた。 「あなたが今日の相手かな。初めまして。立花 康生(たちばな こうせい)です」  大人の男の落ち着いた声は、とても耳障りがいい。とろりと耳に入り込んだ声は、体の奥を熱くさせた。それに一瞬のうちに思考を奪ってしまったようだった。全く言葉が出ないまま目の前にいる彼を見上げていると、困ったような笑みを向けられた。 「もしかして、仕事でこうやって人と会うのは初めて?」  優しい声と向けられたまなざしに、私はただ頷くことだけしかできなかった。 「そう。実は私も緊張している。女性の作家さんとセックスのことで話す機会なんて初めてだからね」  安心を感じさせるような穏やかな笑顔に、少しずつ緊張が解けていく。 「私も、男性の作家さんとお話しすることがなくて、とても、その……、緊張しています」  声を振り絞ってなんとか答えけれど、ちゃんと答えられているのか分からない。 「難しく考えすぎては意見交換もつまらないものになるだろうし、世間話でもするような感じで話そうか。さあ、行こう」  そう言いながら、彼はさりげなく私の腰に手を添えた。すると彼の手が触れている場所がじんと熱くなる。その熱は、まるで電流のような速さで全身へと広がっていった。  彼に促されるままソファに腰掛けたけれど、この先まともに受け答えできる自信がない。どうしよう。今までこんなに「男」を強烈に感じさせた人などいなかった。 「じゃ、始めますか。立花さん、花總さん。それではよろしくお願いします」  始まりを告げる田沢さんの声が聞こえたけれど、まるで熱に浮かされたようになっていて、はっきり聞こえなかった。そして意見交換が終わるまでの間、ずっと雲の上を歩いているような気がしたままだった。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!