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第2話

『すまない』  その言葉を恋人に告げたとき、彼女は涙を流しうな垂れた。そして顔を俯かせ体を震わせ泣きじゃくっている。その姿を俺は見ているだけしかできなかった。  泣いている彼女の姿を見ることは、とても辛かった。できることなら、すぐにでも抱きしめて、優しい言葉を掛けてやりたいのに、それをしてしまえば彼女は更に苦しんでしまうし俺も辛くなる。だから、引きちぎられるような痛みに耐えて、彼女の姿を見続けた。それが、せめてもの贖罪とばかりに。  しばらくすると、泣きじゃくっていた彼女がゆっくりと顔を上げた。すっかり涙で潤んだ瞳から、溢れた涙が彼女の頬を濡らしている。向けられた瞳は、責めるようなものではなかった。  どうしようもない理由で別れを選んだ俺を、彼女は責めなかった。むしろそうしてくれた方が楽なのに、彼女はそれをしようとしないばかりか未練を滲ませたまなざしを向けている。やがて彼女の唇が開いた。何かを話しているのだが、いくら耳を澄ましても全く聞こえない。悲痛な表情を浮かべて、彼女は静かに涙を流している。その姿を見ている間、じくじくと胸が痛んだ。 『許してほしい。情けない俺を』  その言葉が喉から出かかったとき、目が覚めた。目を開くと、見慣れた寝室の天井が見える。夢を見ていたことに気が付き、安堵からか全身から力が抜けていく。 (夢か……)  もう随分昔のことなのに、まるで昨日のことのように夢となって現れたものは、辛い別れの記憶だった。そのとき感じた罪悪感と自責の念は、彼女への未練とともに今も記憶に残ったままになっている。恐らく、あのときから俺の時間は止まっているのかもしれない。 「そういえば締め切り、いつだったかな」  悲しい夢の余韻を断ち切ろうとして、あえて仕事のことを考え始めた。そうでもしなければ、起き上がる気力が湧いてこない。頭の中でスケジュールを確かめようとしたけれど、辛い夢を見たせいで、すぐには浮かんでこなかった。重だるい体をゆっくり起こしベッドから出ると、寝巻き替わりにしているTシャツ越しに冷たい空気を感じた。何げなく窓を見ると、厚手のカーテンの合間から日差しが差し込んでいる。いつもと何ら変わらない一日の始まりだ。  立花 康生(たちばな こうせい)、官能小説を書いている男。  それを言い聞かせるようにしたとたん、不思議なことに体が動き始めた。  朝の陽ざしに温められているとはいえ、冬の空気は冷たい。窓に近づきカーテンを開くと、眩しい朝日に目がくらむ。昨日から降り続いた雪は、窓の外に広がる景色を一変させていた。うっすらと雪化粧を纏った街並みは、朝の陽ざしを浴びて輝いている。それを眺めていると、徐々に過去の記憶が薄れていく。美しい景色は、それだけで心を和ませてくれた。 「さてと、シャワーでも浴びるか……」  頭を掻きながら浴室に向かおうとしたとき、あいつからメールが届いていることを思い出した。だがそれよりも、熱いシャワーを浴びてすっきりしたい。だからメールへの返事を後回しにして、浴室へ向かうことにした。  いつもお世話になっております。  というか先生、生きてます?  先日ロマーヌの編集さんと御飯を食べに行ったんですが、そのとき先生がスランプ気味だって聞いたんで心配してます。  それで、そんな先生に朗報!  女性作家さんと男と女のセックス感の違いについて、三時間ほど意見交換してみませんか?  男と女では当然セックス感に違いがあるし、女性が何を求めて官能作品を読んでいるのかわかれば、きっと突破口になるんじゃないかなと思います。  もし先生が受けてくれるなら、私が女性作家さんにコンタクトとってみます。  できれば二日以内にお返事をください。では失礼いたします。  エヴァ編集部 田沢 「お願い」とふざけた件名で、その電子メールが届いたのは昨日のことだ。メールを送り付けてきた相手は、かつて俺の担当者だった女性だ。だが、彼女は今男性向けの官能作品部門ではなく、違う部門で働いている。 「今度来たとき、きっちり締めてやるからな」  誰がスランプだ。もともと筆が早い方ではないということくらい、かつての担当なら十分知っているはずなのに。  俺の担当から外れた後も、仕事をさぼって押しかけてくる彼女の姿が頭の中に浮かんできた。そのせいで、どんどん腹立たしい気持ちになってくる。  男性向け官能レーベルと言えばロマーヌと、誰しもが口にするところで男と女の濡れ場を書いているのだが、まさか女性作家とセックスについて話し合う機会を持ち掛けられることになるとは思いもしなかった。 (あいつは何を考えているんだ?)  田沢は突拍子のないことをいきなり言い出すやつだ。だが、もらったメールに書かれている内容は、今までの彼女の言動を振り返ると、今までのものとは何かが違う気がした。  それが何であるか分からないのに、おいそれと請け負う訳にはいかない。だから、彼女の意図を探ろうとして連絡してみることにした。何度目かのコールのあと、受話器の向こうから聞き覚えのある脳天気な声が聞こえてきた。 『もしもしー』 「立花だが、メールに書かれていた件、断る」 『へ?』 「へ? じゃない! このくそ忙しいときに、なんでセックスについて女と話をしなきゃならないんだ! どうせな、喧嘩になるに決まってる!」  男と女では、セックスに対する意識の違いがあると思う。それは男向けの官能作品と女性向けの官能作品を読めば、誰だって分かるはずだ。俺自身、男の立場でしかセックスについて書けないし、それは田沢が選んだ女性の作家だって同じことだろう。  それを数時間の対談で擦り合わせることができたなら、男向けだの女向けだの官能作品を分ける必要がない。そんなことを考えながら勢いよくまくし立てると、スピーカーの向こうからのんきな声が聞こえてきた。 『ああ、やだなあ、もう。先生のことを心配して折角用意した企画なんだけどなあ』 「俺のことを心配してくれるのは大変有り難いが、こっちも締め切り間近の原稿を抱えているんだ。そんな時間なんてとれるわけがない」 『えー。何か良い刺激になると思いますよ。それに対談相手として考えている作家さん、きっと結構かわいいと思いますよ。大人カワイイ? 多分それですよ、それ』  恐らく、その相手と一度も会ったことがないのだろう。田沢は一体どこから、そのような印象を受けたのか気になるところではあるけれど、それよりも今は聞きたいことがある。 「おいこら、田沢。お前の狙いは何だ。とっとと言え!」  男女のセックス観を話し合うのに、その相手の容姿など関係あるわけがない。いやな予感を覚えつつ田沢に問い詰めると、それまで呑気だった口調が一変した。真面目なものに。 『狙いですか? 強いてあげれば、生身の男を見せたいってとこですかね』 「はあ?」 『ほら、よく言うでしょう? 二次元の相手、つまり自分に都合のいい相手としか頭の中で恋愛してないってやつだと思うんです。それだと、なんというかキャラクターとして物足りないと言いますか』 「ちょっと待て。何の話をしているんだ? もう少し分かりやすく話せよ」  聞き返すと、落胆が滲んだため息が聞こえた。 『私がウェブの投稿サイトの担当をしているのは知っていますよね?』 「ああ、新しく立ち上げたレーベルでだろ? 確か女向けの官能作品とかそう言ったものを扱ったやつだよな」 『ええ。そこに投稿している作家さんの一人に実は声を掛けたんです。書籍化の。でも彼女は断りました』 「それで、それと今回の件とどういった繋がりがあるんだよ」  全く話が見えてこない。今はやりの無料の投稿サイトで作品を公開し、そこからプロとして活躍している作家が多いとは聞いている。田沢の話を聞いていると、そのサイトに投稿している作家の一人に、必要以上に肩入れしているような気がした。 『彼女。恋愛経験が少ないんじゃないかなと思って。作品の中に描かれている男性が、なんというか女の理想そのものすぎて……』 「いいじゃないか。女性向けの作品なら問題はないはずだぞ?」 『そうなんですが、でもそれにしては硬いんですよね、何かが。もう少し色気というか柔らかさが欲しいと言いますか』 「色気か。そりゃなかなか難しい話だな。だがな、田沢。足らないものを教えてやる程度なら問題はない。だが、まだプロでもない相手に、担当でもないお前が関わっていいことはないぞ。過度の期待を持っているならば今のうちに手を引け。そうでないと相手がつぶれてしまうこともあるんだ。お前だって、それを知らないわけじゃないだろ?」  すると田沢が弱々しい声で「はい」と言ってきた。どうやら、彼女自身もその相手に過度の期待を寄せている自覚はしているらしい。 「この話は辞退させてもらう。いいな。どうせ思いつきで決めたんだろうし」 『思いつきじゃありません! 先生に足らないものと彼女に足らないものが、同じもののような気がしたんです。と言っても、それがなんなのか分からないのですが』  感覚で生きていると言っても過言ではない田沢。それを俺は十分すぎるほど分かっている。そのせいで散々振り回されてきたからだ。だから「またか」という言葉が出かかったけれど、思ったことをそのままいう訳にはいかずそれをぐっと飲みこんだ。  だがこいつは一度食いついたものは、よほどのことがない限り離さないやつだった。彼女が担当だったとき、それで随分苦労させられたものだった。  しかし、それで新しい発見があったのも事実だ。彼女が持ち込んできたネタを膨らませて書いたものが予想外にもヒットしたおかげで、今も仕事を続けられている。  田沢の言葉を聞き終えた後、俺は迷った。田沢からの提案を、いつものことだと受け流していいのかどうか。すると田沢が思いつめたような声で話し始めた。 『お願いします。きっと先生も何かを見つけられるはずだから』 「あのな……。俺が書いているのは男向けの官能作品であって、そこに生身の女を出していいことなんかないぞ。リアルの女は小難しい生き物だ。男と女ってやつは、ギリギリまで互いの気持ちを寄せ合うことは可能だと思うが、決して交わることはない。俺はそう思っている」  きっぱり言い切ると、思い当たることでもあるのか、田沢は黙り込んだ。だが、しばらく経ったあと、落ち着いた声で話し出した。 『いま、男性向けの官能作品を読む女性読者がいることを、先生知ってますか?』 「そういうのはあれだ。刺激が欲しくて読んでいるだけだ。男向けの官能作品を好んで読む女は、それを分かった上で読んでると思うぞ」  指摘してやると、田沢は再び黙り込んだ。今度はどんなことを言い出すか、それを待っていると、受話器の向こう側から湿っぽいため息が聞こえてきた。 『先生の作品、女性の読者さんが多いことを知ってますか?』 「は?」 『先生は誘惑ものを書かせたら右に出るものはいないって、私思ってます。だって登場する女性がとても色っぽくて素敵だから。その人のように男性を誘惑してみたいっていう思わずにいられないんだと思います』 「それなら、なお更その女性向けの作家と会う理由はないな。今のままで読者が満足できているならば、そのままの路線を貫くだけだ。あえて変化を求めると失敗する、違うか?」 『でも、いずれは飽きられます。売り上げは安定しているように見えますが、実際は緩やかなに下降しているのが現実です。同じようなものを量産したって、すぐに飽きられてしまう。そればかりか、また同じようなものかと思われて、いずれ読者は離れていくものです。違いますか?』  田沢の言っていることは的を射ていた。いきなり痛いところを付かれてしまい、何も言えなくなってしまう。それに彼女の言う通り、本の売り上げは緩やかではあるけれど減っている。数字は決して嘘をつかないし、それを痛感させられていたところにこの言葉だ。ここがある意味正念場かもしれない。内心舌打ちしそうなのを耐えながら、スマホのスピーカーの向こうで返事を待っている田沢に返事した。 「わかった、わかった。お前が一度言い出したものを引っ込めないことは、よーく知っている。三時間だよな、その対談。出てやるよ。ただし」 『うわああああああああああああ! ありがとう! 先生、ありがとおおおおおおお!』 「人の話を最期まで聞けよ! 出てやる替わりに、絶対三時間きっかりで終わらせろよ!」  念押ししたが、どこまで伝わっているか分からない。不安を感じたけれど、スマホの向こうで絶叫している田沢に今何を言っても無駄だろう。  その後、叫び続けている田沢の声を、俺はしばらく聞かせられる羽目になった。
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