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第1話

『書籍化打診につきまして』  そのメールが届いた日から、平穏で穏やかな毎日は少しずつ変わっていった。メールを見ると、信じられないようなことが書かれている。それを見たとき、驚きのあまり頭の中が真っ白になった。  市役所で働くようになってから、判で押したようなつまらない毎日を送っていた。同じことを繰り返してばかりの毎日を過ごすうちに、もしかしたら心のどこかで刺激的なことを待ち望んでいたのかもしれない。届いたメールは、今まで目にしたことがない世界への招待状のように思えたものだった。  二十九歳、独身、市役所勤務。ひと目を引く容姿もずば抜けた才能も、残念なことに私は持ち合わせていない。つまりは、どこにでもいる普通の人間だ。  だけど、実はこっそり秘密を持っている。それは繊細なレースを用いた、ラグジュアリーなランジェリーを身に着けていることだった。  一枚一枚丁寧に作られたレースを用いて作られたランジェリーは、まるで宝石のようなまばゆい輝きを放っている。ふくらみを優しく覆う繊細なレースは、まろやかで女らしい曲線を際立たせてくれた。  だが、それは究極の自己満足のようなものだ。白いブラウスと紺色のタイトスカートの奥に、そのようなものが身につけているなんて誰も思わないし、それに見せる相手もいないのだから。  しかし、素敵なランジェリーを身に着けると、たちまちのうちに気分が高揚し、女に生まれて良かったと感じることができる。その日の気分に合わせて、身に着けるものを選べば、とても楽しい気分になるし、奇抜なデザインやカラーであればあるほど、不思議なことに大胆なことだってできるような気分になってくる。  でも、それを実行に移せない。幾らそうしたくとも、度胸がない以上妄想だけにとどめていた。頭の中で描いた妄想の世界は、どこまでも自分に都合がいい。当たり前だ。全ては私が作った妄想なのだから。ときには魅力的な男と恋の駆け引きに興じ、ときには恋人を誘惑する。そんな自分を想像するだけで満足できていた。  ほんの出来心で、妄想を文字に起こしたとき、妄想は変化を遂げた。気の向くままに書いたものではあるけれど、そんなものでも自分以外の誰かが読んだときから、私だけのものではなくなった。作品を読んでくれる人間がひとりふたりと増えてくると、その存在は励みになってくる。やがてそれは心地よい刺激となって、内向的だった私に自信を与えてくれるようになっていた。  そんなとき、思いがけないものが突然届いた。送られてきたメールには、作品を読んだ感想が細やかに書かれていて、滅多に褒められたことがない私は浮かれてしまった。それまで自分の妄想がどういったものであれ、形になることなど一度も考えたことがない。しかし、そのメールが届いたあと、作家という仕事にほんの少しだけ興味を持ったのは事実だった。  しかし、公務員はどのような理由があっても、副業を持つことは固く禁じられている。だから、私はその話を断ることにした。もともと作家になるつもりは無かったし、それに公務員の仕事を失いたくない。  後ろ髪を引かれるような気持ちではあったけれど、断らざるを得ない理由をできるだけ丁寧に書いてお返事した。その後、非常に残念だという内容のメールが届き、それを読みながら、非常に申し訳なく感じたものだった。  だけど、実はほっとしたのも事実だ。折角の幸運を捨ててしまったことに寂しさを感じたけれど、これで良かったのだと自分に言い聞かせて。  空を鉛色の雲が覆う十二月。師走の役所は忙しい。  年の瀬が迫るとともに、何かに追われているような焦燥感ばかりが募る。仕事が忙しくなればなるほど、現実逃避したくなるのが人間だ。目の前に山積みになっている書類から、目を逸らしたくなる。  だけど、それは決して許されない。当然毎日遅い時間まで残業することになる。疲れた体を引きずって帰る頃には、気力も体力も残っていない。とにかく眠りたい、体と頭を休めたい。実際それしか考えられなかった。そんな日々を送っていたある日のこと。またメールが届いた。最初に目に留まったのはメールのタイトル。それを見たとき目を疑った。 『インタビューの依頼です』  発信元を確かめると、以前メールをくれた担当者からだった。そこにあるタイトルの意味が分からなかったけれど、取りあえず中身を見てみないことにはどうしようもない。メールを開いてみると予想外のことが書かれていて、それを見たまま瞬きを数度繰り返していた。 『男と女のセックス観の違いについて、プロの官能小説家と意見交換をしてみませんか?』  プロの官能作家と意見交換なんて、全く想像できなかった。私は趣味のひとつとして、好き勝手に書いているだけの人間だ。幾ら求められたとしても、プロ相手に意見を述べることなどおこがましい。それにそういった方との意見交換ならば、その人と同じくプロの作家を相手に選ぶべきだと思う。だからメールに書かれている内容に、戸惑いを隠せなかった。だがその次に書かれていた文章で、メールを送った担当者の真意がなんとなく分かったような気になった。 『できるだけリアルな女と男の理想や願望を比較し、どうしたらそれをすり合わせることができるか検証してみたい』  作品上に登場する人間たちは、あくまでも作り物だ。女性が書くヒロインの相手役となるヒーローは、女性の夢と理想が詰め込まれているし、逆の場合も同じと言っていい。だから現実を生きる男女の姿とは、重なることがない。  だけど、リアルな意見を拾い上げることにより、新しい何かが見えるかもしれない。それならば今後の作品作りの参考にもなる。そう思い至ったとき、是非とも参加したいと思った。  メールの最後には謝礼が発生しないこと、それと任意であることが書かれていた。以前やり取りをさせてもらった担当者の方は、私が書籍の話を断った理由を知っている。だからその方の心遣いともとれるその一文が嬉しかった。  早速参加の意思をメールで伝えると、相手の名前と場所が書かれたメールが送られてきた。場所は、毎年クリスマスに恋人と過ごしたいホテルに選ばれている人気のところ。そして相手は立花 康生(たちばな こうせい)という名前の官能小説家だった。  官能小説には思い出がある。父親の書斎に並んでいた本を、興味本位に手にして読んでいた幼い頃の話だ。好奇心旺盛だった私は、自分が知らない世界へ連れ出してくれる本が大好きだった。  父親は若かりし頃からいろいろな本を読んでいたらしく、六畳程度の書斎にある壁一面の本棚にはたくさんの本が並べられていた。その中に黒い背表紙の本があり、何も考えずそれを取って読んでみたけれど、そのときは意味が分からなかった。しかしなんとなく読んではいけない気がして、それからというものその本は避けるようになっていた。  しかし、思春期を迎えた頃、その本を何げなく読んでみたところ、書かれている内容に驚いた。そこには、男女の交わりばかり書かれていて、しかもこちらが引いてしまうほど事細かなものだった。そこに描かれている女性達は、言葉では否定していながらも、結局快感にのみこまれ、しまいには肉欲に耽っていく。それを読んでいるうちに、快楽というものが怖くなった。自分自身を見失うほどの快楽が、私には想像できないからというのもあるのだが。  それからというもの、セックスというものが怖くなった。それに男性に対しても。だから、なるべくならば関わりあいにならぬよう避けていたし、気づけば誰とも交際しないまま大人になっていた。  その後、一足先に「女」になった友人から体験談を聞かせられることが増えてきた。彼女たちは未だ誰とも付き合ったことがない私に、得意げにその行為の話をし始める。それを耳にし続けているうちに、知識だけはどんどん増えて、いつしかそれが妄想の種となり、作品になっていた。  だけど、自分に性的な経験がないからか、書いていくうちに必ず行き詰まってしまう。書いているものは、あくまでも夢物語だと割り切ることができたらいいのだが、真面目過ぎる性格が災いしてそれができないから苦しむ羽目になる。そんなことを何度か経験していた私にとって、これは絶好の機会のように感じた。恋人もなく男性経験がない私が、男の気持ちというものを知ることができる機会だと。そして、それまでの自分を変えられるきっかけのように感じたものだった。
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