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人魚姫

 夕暮れ時、波打ち際に、女が一人倒れていた。長い黒髪は乱れ、スカートから伸びる足は、魚の腹のように白い。薄手のブラウスはぴったりと肌に張り付き、下に着けている色の濃い下着がくっきりと透けるほどだ。  身投げか、と、菊賀征爾(きくがせいじ)は思った。  陸繋島である赤江島は、すでに陸から切り離される刻限で、警察を呼んだとしても、船を整えねば渡ってくる事もできない。一度引き上げて、翌朝、連絡しようと、跪いて女に触れた。  身体は冷えきっていたが、わずかではあったが息をしているようだ。顔にかかった髪を払ってやり、あらわれた顔を見て征爾はぎょっとした。  まさか、と、急に鼓動が勢いを増した。  しばらく、女の顔に見入ってから、覚悟を決めたように、征爾は女を抱きかかえて、島に一軒しかない屋敷へ急いだ。 ――  夏の終わり、日中の海水温は高い。日が落ちても、すぐに水温が下がる事は無いはずだが、長い間海水に浸かっていたのだろう。女の身体は冷えきっていた。  濡れた服を剥がすと、陶器のような白い肌と、豊かな乳房の先端の桃色が視界に入った。視線をはずす為に移動すると、次に見えたのは、薄い繁みと、のびやかな足。  肌の色の白いところは、あの女と同じだが、乳房はこれほど豊かではなかったように思った。意識の無い女の身体を見るのは無作法だとわかってはいたが、征爾は、はずそうとした視線を止め、動かす事ができなかった。  かつて、遠い記憶の向こうにある、熱を孕んだ情事の記憶が呼び覚まされる。  ただ、すがり合うだけの、互いの肌のぬくもりを確かめるような交わりと、初めて抱いた女というものに、戸惑うだけの行為だった。  何度も、何度も、密やかに交わされた情交と、女の、悲鳴のような、嗚咽のような、しかし、征爾の愛撫に答えた手応えを思いだして、一瞬、身体に痺れるような熱を感じながら、征爾はそんな思いを押さえつけるように、感覚を麻痺させるように、努めて今行っているのは、救命活動の一つなのだと自分に言い聞かせた。  バスタオルを何枚も使って水滴を拭う。  そうしながら、直接手で触れたいと、何度も思った。  しかし、そうする事で、『あの女』の事を思い出してはならないと自分を戒めた。 「征爾……」  自制しようとする意志とは裏腹に、かつて自分を包み込むように抱いた、自分を呼ぶ女の声が、肌の柔らかさと甘さの記憶が、生々しく蘇る。  今はもういない女が、海から還って来てくれたのでは無いか、そう思って、時折女の反応を見たが、目を閉じた女に表情が浮かぶ事は無く、整った顔は、人形のように、形を崩すことが無かった。  身体を隠すように、女に毛布を巻いてやり、濡れた髪をドライヤーをあてて乾かすと、驚くほど女の顔色がよくなった。  溺れたのではないのかも知れない、と、征爾は思った。海を自力で泳ぎ切り、砂浜で力尽きて倒れたのであれば、身体へのダメージは大きくは無いはずだ。だが、女は海で泳ぐような格好では無かった。どこかで海に落ちて、海流に流されたのか。  部屋の中の温度が上がると。女の顔色はさらによくなってきた。呼吸も整い、ただ眠っているだけのようにも見える。  仮にこの女が目覚めなかったとして、征爾に何か責任はあるのだろうか。否、やるべきことはもうやったのだ、と、眠っている女の顔をじっと見た。  見れば見るほど、眠っている女の顔は、『あの女』に似ていた。本当に、かつて、海へ還っていった女が、再び海から戻ってきたのかもしれない。それを確かめたくて、征爾は女が目覚めるのを待った。
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