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第十夜(3)

 仕事を終えたあと御堂とともに向かったのは、彼の自宅だった。  御堂に告げた直後高見がオフィスにやってきたのだが、すぐに何かを感じ取ったらしい。その後出かけてしまい、そのまま直帰した。その間私と御堂はふだん通りに仕事していたけれど、仕事が終わる時間が近づくにつれて私は緊張し始めた。  それはすべてを御堂に打ち明けようとしているからで、それを聞いたあとどんな反応を示すのか怖かったからだった。でも、言わなくちゃ。不倫のことと、高見とのことを。その上で伝えなくちゃ、惹かれ始めていることを。何でもないようなフリをしてはいたけれど、実は不安だった。  不安は心に根を伸ばし、過去に負った傷を刺激する。鋭い痛みこそ感じなかったが、疼くような痛みがそこから全身へと広がっていく。それに耐えながら仕事が終わるまでのあいだ、そのときを待っていた。  十八時になると、セットしていたアラームがオフィスに響き渡った。思わず向かいに目をやると、御堂が私を見つめていた。そして告げられたのだ。「自宅なら二人きりになれる」と。  私は今、御堂の自宅にいる。広いリビングには、グリーンのカバーが掛けられたソファ、それにテレビとルームライトが置かれていた。漆喰の壁と無垢材のフローリングが気に入って借りた話を、御堂がしてくれたときのことを思い出しながらソファに座っている。キッチンでは御堂がコーヒーを淹れていた。やがてあのときと同じ香ばしい香りが部屋に広がってきて、それから間もなく御堂がマグカップを二つ手に持ってやってきた。 「良い匂いだろ。俺が通う店のスペシャルブレンドだ」 「初めてこの部屋でこれを飲んだときも同じこと言ってましたよ」  そういって差し出されたマグカップを受け取ると、御堂は苦笑した。 「そうか、悪い。同じ話を二度するなんて、俺緊張してんだな」  向かいに置かれていたパイプスツールを引き寄せ、そこに御堂は腰かけた。白いシャツに細身のブラックジーンズという見慣れた出で立ちなのに、なんだか今日は違って見える。それは彼が言う通り緊張しているから、雰囲気が違って見えているのだろう。そう思いながら御堂が淹れてくれたコーヒーを口に含むと、ほろ苦い味がした。熱いコーヒーが舌の表面を焼き、喉へ吸い込まれるように落ちていく。喉元にじりっとした痛みを感じた。『喉元過ぎれば熱さを忘れる』、確かにその通りだけれど、いつまでもその痛みは記憶の中に残るものだ。  これから御堂に話そうとしていることを頭の中で整理する。昨日のことも謝りたい。高見とのことも話さなければなるまい。そして不倫していたことも。でも、自分の思いを伝えることに関しては、話して良いものかどうかためらってしまった、そのとき。 『もしも水琴が櫂を一人の男として見ているならば、何も考えずに飛び込めば良い。あいつはお前が抱えている物まるごと受け止めるはずだ』  昨夜高見から言われた言葉が頭の中に浮かんできて、その言葉に励まされた。 「昨日はいきなりオフィスから出て行ってしまって、すみませんでした。それに……」  次の言葉を言おうとしたときだ、突然チャイムが鳴った。 「悪い、ちょっと待っててくれ」  そう言って椅子から立ち上がった御堂の顔を見ると、バツが悪そうな表情を浮かべていた。それを見たとき嫌な予感がしたけれど、玄関に向かう彼の後ろ姿を眺めているだけしかできなかった。そしてそれからすぐに女性の声が聞こえてきたがどんどん語気が荒くなり、御堂が幾ら宥めるような言葉をかけてもその勢いはなくならない。  そしてついに言い争いになってきて、御堂のものとは異なる足音が聞こえてきた。そしてそれはこちらにどんどん近づいてくる。その音が近づくにつれて、息苦しくなってきた。勢いよくドアが開く。大きな音に驚いて、リビングの入り口に目をやると、御堂に観葉植物を贈り続けた女性が私をにらみ付けていた。  その姿は雑誌やネットで見かけるものとは全く異なっていた。しかもメディアで取り上げられる写真では感じない威圧感が漂っている。その迫力のせいで、身動きひとつできなくなってしまったし、息をすることすら忘れていた。そして過去の記憶が勢いよく浮き上がってくる。彼女の姿に、不倫相手の妻の姿が重なった。頭から水を被ったように全身から一気に熱が消える。彼女は身動き取れない私のもとへ、つかつかと近づいてくる。そして私を睨んだまま腕を大きく振り上げた、そのときだった。 「やめろ!」  御堂の声が聞こえてきて、そろそろとまぶたを開く、どうやら知らず知らずのうちに目を閉じていたらしい。それだけでなく体を竦ませていたようだった。御堂の声が聞こえたあと、ゆっくりと体から力が抜けていく。そして反らしていた顔を上げると、御堂が振り上げた腕をしっかりと掴んでいた。腕を掴まれた彼女は目に涙をためて、御堂を見つめている。その様子はあのときと全く同じだった。不倫が終わったときと。  彼女と御堂が私の目の前で向かい合い、何かを話している。その音は耳に入ってくるのだが、何を話しているかは分からない。やがて彼女はその場に頽れてしまい、さめざめと泣き始める。何かを訴えているようだが、その言葉が耳に入らない。  そして泣き崩れてしまった彼女の腕を引っ張り上げて、また御堂が何かを話し始める。彼女は泣きながら頭を横に大きく振った。そして御堂の胸を叩き始めたのだが、叩かれている本人は黙ってそれを受け入れている。それがしばらく続いたのち、彼女は御堂の頬を叩き、大きな声で何かを叫んで部屋から出て行った。  その頃になると、私は何も感じなくなっていた。御堂の部屋にいるはずなのに、周囲の景色は真っ暗で、音も匂いも感じない。そんなところから、男と女のやりとりを眺めていると、まるで映画でも見ているような気持ちになってくる。そして突然スクリーンから彼女が消えた。取り残された男は、頬を撫でながらそこに立ち尽くしている。それを眺めていると、男は窺うような目を私に向けた。 「すまん。巻き込んじまって」  御堂の声が耳に入り、私は暗闇のなかにある映画館のシートから現実に引き戻された。全ての感覚が元通りになってきて、コーヒーの香りが鼻を掠めていく。目の前にいる御堂は、自らの行動の結果だと分かっているのだろう。申し訳なさそうな表情を浮かべていた。  きっと何も知らなかったなら、巻き込まれたことと誤解されたことに怒りを感じるところだろう。だが、彼の過去と昨日告げられた私への感情を知っているから、怒りなんて感じなかった。 「いえ。それよりも大丈夫なんですか?」 「何が?」 「相手の方、かなり感情的になられてましたが……」  彼女が御堂にどんな言葉を投げつけたかは分からない。過去の記憶と重なったせいで、何も聞こえなくなったから。多分本能的に体はそうしたのだ、私の心を守るために。でもそれと同時にせっかく全てを打ち明けようとした気持ちが萎れていく。昨日のことを謝って、そして好意には応えられないと撥ね付けた方がいいのかもしれないと思い始めていた。そのとき。 「もう、今まで通りの付き合いを続けることなんかできないだろ。俺はお前に好きだって言っちまったんだし」  御堂はそう言いながら、私の足下にあぐら座になった。そして私を見上げている。まっすぐ向けられた瞳はとても温かいものだった。まなざしを通して伝ってきた熱は、全身へと広がりやがて心にまで届いた。時間が経つごとに密度を増して硬くなったものが、ゆっくり溶かされる。私を見つめる御堂の頬に両手を添えて、彼を見つめ返した。 「御堂さん、私も御堂さんのことが好きです」  その言葉が自然に口から出たとき、御堂が嬉しそうな顔をした。それを見たとき、胸がじんと熱くなり、今まで一度も感じたことがないほどの幸福感に包まれた。
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